第65話 救出
その日は、本来ならば、朝から赤錆の大鴉団の屋敷を訪れる予定だった。
だが、その予定は、身支度のために近所の風呂屋に出かけていたジーンが戻るやいなや発した一言によって、変更を余儀なくされてしまう。
「なぁ、外がなんか焦げ臭かったけど、火事かな?」
「え? 知らないけど?」
「マジかよ? ……室内だとわかんねぇのかな?」
ぶつぶつ言いながら、ジーンはくんくんと鼻を動かす。
「どうしたの?」
女性用の客室から出てきたダーシーが物珍しい生き物を見る目でジーンを眺めながら近づいてくる。
「いや、なんか焦げ臭いんだって」
「言われてみれば、そうかも」
ダーシーは、そばかすに囲まれた鼻の頭を指先で押さえながら目を細めて言う。
「だろ? フィンは鼻でも詰まってるんじゃねぇの?」
ギャハハと品のない笑い声を上げるジーンに、じろりと一瞥を加え、フィンは臭いを確かめようと宿屋から外に出た。途端に木材を燃やしたときに特有のきつい臭いが鼻をつく。
「くっさっ」
フィンの後を追って外に出てきたダーシーも、すぐさま掌で鼻を覆う。
「こりゃ、どっかで火事になってんな。近くなきゃいいんだけど」
ダーシーの背後についてきたジーンも眉間にしわを寄せながら言った。
「あ、見て」
ダーシーが東の空を見上げて指をさす。立ち並ぶ建物の屋根の向こうに、真っ黒な煙が立ち上るのが見えた。
「うわあ、燃えてんな。大丈夫か?」
ジーンの声に振り返った通行人たちも足を止めて、青い空を侵食するように黒で染めていく煙を眺める。
「ありゃあ、オライア区のあたりだな」
野次馬の一人がそう呟いた。
「……オライア区って?」
フィンは野次馬をつかまえて尋ねる。その切迫した様子に気圧されながらも中年の男は、ザイオンの東に位置する神殿や寺院が集まった地区だと教えてくれた。
予感はしていたものの、最も望まぬ答えにフィンの表情は厳しくなった。
「様子見に行ってくる」
「ちょっと待てよ。今日は赤錆の大鴉団の屋敷に行くんだろ?」
宿に戻るやいなや、そう言い放ち身支度を始めたフィンを、ジーンとダーシーは取り囲む。
「そうだけど、嫌な予感がする」
「はあ?」
「ひょっとして、昨日の孤児院?」
ダーシーの問いかけにフィンは頷く。
二人は同時にため息をついた。
「……わかったって。俺たちも行くよ」
ハント市で傭兵団を結成してから早三年。数々の任務で生死をともにした絆によって、彼らは、こういう状態のフィンが絶対に折れないことを理解していた。
「ナタリアは?」
「客室で瞑想しているけど?」
なにげないジーンの問いに、ダーシーがとても嫌そうに答える。次の展開が読めているのだろう。明らかに迷惑そうな表情であった。
「瞑想かよ……邪魔したらすっげえ怒られるやつじゃん……」
ゲンナリしたようにジーンは言う。
魔術師にとって呪文を魂に刻みなおす儀式でもある朝の瞑想が大事なことは、ダーシーとともに旅した日々から痛いほど理解していた。
そして二人は振り返ってフィンを見つめた。
「どうする?」
「……わかったよ」
フィンはため息をついた。
やがて意を決したフィンが、客室で瞑想にふけるナタリアに声をかけ、事情を説明する。
不機嫌をその顔に貼りつけたナタリアに語気荒く説教されながらも、なんとか説得すると一行は身支度を整え、宿を出た。
「火事なんか見に行くなんて、よっぽどの物好きだな」
落ち着いたのか、いつもどおりの少し斜に構えた態度で嫌味を言うナタリアをあえて無視しながらフィンは道を急ぐ。
すぐに、いたるところから立ち上る黒煙を見ることとなり、思った以上に火災の規模が大きいことを全員が理解した。
「なんか、やべえな」
ジーンは皆の思っていることを代弁する。知らず知らずのうちに、歩みの速さは加速していく。
一行は中央広場の南にある市庁舎通りに出て、東のオライア区を目指す。やがて進行方向からこちらに向かって逃げてくる市民たちを見かけるようになった。ナタリアがそのうちのひとりを捕まえる。
「どうした?」
「なんか黒いバケモノが襲ってくるんだよ! あんたらも逃げた方がいい!」
「黒いバケモノ?」
「真っ黒な人間みたいな見た目でな、衛兵が剣で切りつけても死なねぇんだ! そんなやつらがうじゃうじゃしてやがんだよ!」
フィンよりも少し年長らしき若い男は、気が狂ったようにわめき散らした。
「火事は?」
「どこのどいつが火をつけたのか知らねえが、俺の家もやられた! あちこちで燃えてやがる!」
男は、煤と涙で真っ黒になった顔を歪めながら叫ぶ。これからどうしていいかわからないが、とにかくいつ襲ってくるかわからない黒いやつらから逃げているのだという。
ナタリアは、中央広場に避難することを勧めた。
「まだ騒ぎにもなっていないし、他の地区よりも衛兵が多いから安全だろう」
男は泣きじゃくりながら礼を言った。
やがてナタリアから解放された男が涙を拭いながら走り去っていくのを眺めつつ、ナタリアは、後頭部をぼりぼりと掻いた。
「……フィンの予感が珍しく当たったみたいだな。先を急ごう」
一行は市庁舎通りを進み、市内を流れるオルトリア川に架けられた橋を渡り、オライア区に足を踏み入れる。
すでに周囲はいたるところで火の手が上がり、市庁舎通りにも燃え盛る建物から火の粉が間断なく降り注いでいた。
「……ひでえ」
容赦なく襲ってくる熱波に顔を押さえながら、周囲を見回す。すでに心ある者たちは逃げ出したのか、本来ならば往来を行く人影の絶えない通りにもかかわらず、人っこひとり見当たらない。
逆にフィンはそれに安堵した。
だが、そんなフィンの肩をダーシーが叩く。
「ねえ、あっち」
ダーシーの指差す方に目を向ける。
そこには、火の粉の舞い散る大通りを、熱に浮かされた夢遊病者のようによろめき歩く黒い人影があった。
一瞬、逃げ遅れて業火に焼かれてしまった市民かと思い、緊張がフィンの全身を貫いた。だが、その身を黒く焦がすまでに焼かれながらも平然と歩く姿に、すぐに違和感を抱く。
やがて、それがさきほどの男が言っていた黒いバケモノだということに気がついた。
「……ゾンビじゃないか」
「え?」
その姿から思わずつぶやいてしまったフィンの言葉をダーシーは聞き返す。あわててフィンは「なんでもない」とごまかした。
「あいつらが例の黒いバケモノか」
幼なじみ二人の背後からナタリアが鷹揚と言った。
どこに隠れていたのか、黒い人型の存在は、次から次へと市庁舎通りに姿を見せ、建物から噴き出す炎を避けながら、よたよたとフィンたちのもとへ近づこうとしている。
彼ら、もしくは彼女らのなかには、すでに腕や足、首などを失った姿のものもいる。そのおぞましさは、冒険慣れした一行の言葉すらも失わせた。
ただ一人、ナタリアだけは依然平然としている。
「生ける屍だな」
「知ってるのか?」
「ふっふっふ。学院講師をナメるなよ。文献で読んだことがある」
ナタリアは、生ける屍についてざっくりと説明した。
簡単に言えば、冥界行きをなにかしらの理由で拒んだ迷える魂が、悪霊となって死んだ肉体に取り憑いて動き出したものをそう呼ぶらしい。だが、厄介なのは、それが悪霊の仕業だけでなく、邪悪な魔術によっても生み出されるということだという。
「なんで厄介なの?」
「死体の数だけの軍団ができる」
ナタリアによれば死霊魔術は、死体だけでなく、すっかり肉も腐り落ちた骸骨であっても使役することができるらしい。
ジーンはそれを聞くと、嫌そうに顔をしかめた。
「……なんか気分悪いな」
「理解できぬ異質な存在に対する純然たる恐怖だな。当然の感情だ。恥じることはない」
そういうとナタリアはからからと笑った。
「先生。だとすると、あれは死霊魔術によるものだということですか?」
「わからない。でも、死霊のしわざにしては数が多すぎるし、その可能性はあると思う」
教え子であるダーシーの質問に、ナタリアは少し真剣な表情で答えた。
「すると、どこかに死霊術師が?」
ダーシーは素直に怯えた表情を浮かべる。
魔術学院では、禁忌なくあらゆる知識を学ぶことを重視するが、死霊魔術だけはそれを知る者がいないという事情もあり、得体の知れぬ闇の魔術として恐れられていた。
ナタリアは曖昧な表情で首をひねる。
「それにしては死体たちの統制が取れてないんだよね。ちょっと意図がわかんない。ま、現時点では断定せず、可能性だけ残しておこうか」
ダーシーは「はい、先生」と滑舌良く答えた。




