第64話 伯爵の避難
レティシアが伯爵の屋敷から戻ると、赤錆の大鴉団は新たな仕事に向けて動きはじめることとなった。
「ルーファスとモイラは?」
そう尋ねる幹部”鷹の目”ノーマに対して、伯爵の依頼で出かけているとレティシアは説明する。
「なんだよ、二人だけでか?」
「いや、伯爵の騎士も数人同行している」
「ふーん」
白い肌を惜しげもなく晒す装いのノーマは、同性のレティシアからしても扇情的で、思わず目をそらしたくなる。だが、ノーマはそんな視線には慣れているのだろう、特に気にする様子もなく、一定の間隔で結ばれた長い黒髪を揺らしながら小さく頷いた。
「ルーファスからはザイオンにおける指揮を任されている。——いいな?」
レティシアの念押しに、ノーマはにっこり微笑みながら大仰にお辞儀する。
「仰せのままに。副団長殿」
からかうようなノーマの態度に、レティシアは顔をしかめ、フンと鼻を鳴らした。
だが、それからのレティシアの指揮ぶりは、副団長という肩書きでも彼女には役不足であることを思い知らせるものであった。
まず伯爵の避難計画を立てるため、現状の街の状況を調査することから始めた。
とはいえ、いきなりのことだ。自由に動かせる傭兵の数にも限りがある。だがレティシアは躊躇なくすべての傭兵をザイオンの調査に投入した。
状況把握を最優先とし、もしも“黒躯”に遭遇したとしても戦闘は極力避けるよう傭兵たちに指示する。どうしても戦わねばならない場合は「移動速度を遅くするため足を狙え」と伝えた。
やがて二、三名ずつの班に分かれた傭兵たちは、あらかじめ定められた調査ルートを基づいて一斉に偵察網を広げていった。
屋敷で待機するレティシアのもとには、随時、調査結果が報告される。
火災の発生地点も、黒躯の目撃情報も、いずれもオライア地区を中心に集中していた。
それらの情報を総合し、レティシアは黒躯の発生源を火災と同じくオライア地区と推察した。
「オライア地区周辺を念入りに調査するように伝えろ。不審な奴がいたら拘束して連れてこい」
レティシアは、机の上に広げた地図を睨みつけながら、そう伝令役に厳命した。
それだけではない。集めた情報から領主の安全な脱出経路を洗い出し、さらに領主一家が逃げ出すための荷造りなどの準備も急ピッチで進めさせた。
なにを思ったのか、伯爵の姫君が屋敷に残ると駄々をこねはじめるというアクシデントもあったが、父親である伯爵の命で強引に連れ出されることになり、おおむね予定どおりに計画を進めることができた。
「ノーマ」
レティシアは、領主の荷造りや荷車への積み込みを終えて大鴉団の屋敷に戻ってきたノーマを呼び止める。
「なんだよ? レティ」
「領主が脱出するときの護衛団は、おまえに指揮してもらいたいが、いいか?」
「いいぜ。任せとけ」
ノーマは快諾した。
やがて避難当日を迎え、厳しい声で部下に指示を飛ばすノーマの隣で、レティシアは「まずは第一歩……」と険しい顔のままつぶやく。
目の前をガラガラと音を立てて家財道具を載せた荷車が通り過ぎていく。衣服や食料だけでなく、豪華な調度品や宝物、さらには剣や鎧といった武具や、攻城兵器である固定式投石機や大型弩砲も解体されて荷車に積み上げられている。
避難するにはあまりの大荷物だったが、ダンクルト伯爵は頑として譲らず、やむなく搬出を許可したという経緯がある。
「ん? なんか言ったか?」
聞き返すノーマに向けて、レティシアは小さく微笑むと、首を横に振りながら言った。
「頼んだぞ、ノーマ」
「わかってるって、任せときな」
ノーマは面倒くさそうに答えると、そのままレティシアの尻を掌で引っぱたいた。スパーンッと小気味良い音が鳴り響く。
「……ッ!?」
声にならない悲鳴をあげたレティシアに対して、ノーマは高らかに笑いながら片手を上げて別れを告げ、領主たちを乗せた馬車を囲む隊列に合流した。
領主は、傭兵と騎士たちに守られながら、大きな問題もなくザイオンから脱出することに成功した。
「閣下、私どもはザイオンに戻ります」
「鷹の目よ、ご苦労であった」
ザイオン郊外の街道沿いの平地で馬車の横に跪いて報告するノーマへ、領主はねぎらいの声をかける。そして、ふと思い立ったように尋ねた。
「そういえば、ルーファスは戻ったか?」
「ルーファス? いや、まだですが……」
「そうか。おまえたちには苦労をかけるな」
「いえ」
どことなく意地の悪そうな顔つきの伯爵に違和感を抱きつつ、ノーマは歯切れ良く答えた。
「このあとは市民を逃がすのか?」
「はい。黒躯を排除しつつ、避難経路を確保してから一気に逃がす予定です」
「それは、このヴィード門からか?」
美丈夫卿は、さきほど通り抜けたばかりの小ぶりな市門を指差す。ザイオン北東に位置するヴィード門は、ネヴィア侯爵領にも通じる街道にも近く、ザイオンで最も古く、最も豪華に飾られた市門であった。
市壁に近づけまいと取り囲むように掘られた空堀には、シンプルな作りの跳ね橋もかけられている。ザイオンがまだ城塞都市だったころの面影をいまだ色濃く残していた。
「はい。閣下が利用された道がいちばん安全ですから」
ノーマは、さらりと答えた。
「そうか。頼んだぞ」
伯爵は、突如として興味を失ったかのような表情で淡々と言った。
ノーマは、怪訝そうな表情で首を傾けながら「はい」とだけ答えた。そして部下を引き連れ、ザイオンに戻っていく。
領主とその騎士たちは、領主の馬車を取り囲みながら、今後について協議しているようであった。ときおり叱責するような伯爵の罵声を聞きながら、ノーマはヴィード門を通り抜けた。




