第58話 発端
一時課の鐘がザイオンの朝の空気を震わせる。
冬の凍てついた空気は、夜に跋扈するすべての不浄を一掃したかのような清々しさをもって、暗いうちから起き出した者たちを歓迎していた。
寒さに震えながら身支度を終えた市民たちは、市内にある寺院や神殿、もしくは自宅の祭壇で、それぞれが信仰する神へ新たな一日への感謝を捧げる。そして仕事に向かう者もいれば、風呂で身を清めてから一日を始める者もいた。
市民たちが祈りを終えるころには、日没とともに閉されていた市門もふたたび開かれ、開門を待っていた近隣の農夫たちが朝市で売る商品とともにザイオンに集まってくる。広場では朝市が開かれ、あふれかえった人々の混雑のなか、威勢よく呼び込む声と行き交う市民のざわめきが混ざりあい、周辺でも有数の商業都市らしい活気ある賑わいを見せていた。
ザイオンは今日も変わらぬ朝を迎えていた。
そんな日常を守るべく自警団も朝早くから市内を巡回する。
ザイオンの東に位置し、多くの寺院や神殿が集まるオライア地区でも、早朝の礼拝に訪れた市民たちの心の平穏を守るべく二人組の男がゆっくりと見回っていた。
路地に面した庭で、放し飼いの鶏が高らかに鳴く。
その声に振り向いた自警団の男たちは、庭にいた修道女に気がつき、にこやかに挨拶した。
「シスター、おはよう!」
「おはようございます」
ミアは、慈愛に満ちた微笑みとともに挨拶を返す。その手には摘み取られたばかりの香草が握られていた。
修道女でもあるミアは、毎朝それこそまだ深夜と呼ぶのがふさわしい時刻から起き出し、敷地内にある小さな聖堂で礼拝を捧げている。やがて一時課の鐘とともに祭壇を離れ、これから起きてくるであろう子どもたちの世話をするべく、その事前準備に勤しむのだ。食事に用いる野菜や香草を庭の片隅にある小さな畑から収穫するのもその一つであった。
「子どもたちは、まだ?」
「ええ。そろそろ起きてくるとは思うのですが、いつもより遅いですね」
「今日はやたら寒いからなぁ。布団から出たくねぇんでしょうな」
そういうと自警団の男は野太い声でカラカラと笑った。もう一人の男も「俺も出なきゃよかった」とおどけて言い、すぐさま相棒に尻を蹴飛ばされる。
その喜劇的なやりとりを、ミアは修道女らしい慎ましさでもって静かに微笑んだ。
そのとき、こぢんまりとした石造りの建物の扉が開き、内側から小さな子どもの姿が現れる。寝巻きがわりなのだろう、だぼたぼのローブに身を包み、まだ幼いからなのかあるいは寝ぼけているのかわからないが、扉を開け放ったまま、ぎこちない足取りでふらふらと庭へと歩み出してくる。
「お、出てきたな。おはよう!」
笑顔を浮かべたまま、軽い調子で声をかけた男は、その子どもの顔を見て、凍りついた。
「……ゴ、ゴブリン⁉︎」
まだ子どもなのか、やたらと小柄ではあるものの、その醜悪な皺だらけの顔つきと、顔のサイズに比べて大きすぎる眼球は間違えようがない。生きたゴブリンと対峙するのは初めてだったが、若いころ、駆除された死骸を片づける仕事についたことがある。呼吸することすら諦めたくなるひどい悪臭のなか、厭というほど見つづけていたあの顔を忘れるはずもない。
男は全身を震わせた。
「シスター! 逃げろ!」
ひとりがそう叫び、腰に下げた剣を一気に抜き放つ。わずかに遅れてもう一人の自警団も剣を抜いた。
若い頃から腕っぷしの強さで一目置かれ、周囲の勧めもあって自警団の仕事を請け負うことになったが、ふだんは石工として働いており、訓練以外で剣を抜き命を賭けて戦った経験はなかった。それは一緒に巡回する相棒も同じだった。
初めての実戦という緊張感からか、意識せずとも良くない噂話が脳裏によみがえってくる。鋭い爪には毒があり、切り裂かれた者は、たとえ逃げ切れたとしても重い病にかかってしまうとか、貧相な見た目に反して強靭な筋力を持つとか、いちいち思い出される話が、男たちの心に重くのしかかり、意図せずともその動きを鈍くする。
それでもゴブリンがよたよたとミアに近づいてくるのを見ると、自警団の男たちは、職務への責任感からか、ほぼ同時に駆け出した。
「きゃっ!」
近づいてきた男の一人に突き飛ばされ、ミアは勢いよく地面に転倒する。
「早く逃げろ!」
突き飛ばした男は鋭く叫んだ。
もう一人の男とともに倒れたミアをかばうようにゴブリンの前に立ちはだかり、抜き放った剣尖をその小柄すぎる怪物に向ける。
緊張からか、その先端は小刻みに震えていた。
幼いゴブリンは、焦点の合わない目でぼんやりと揺れる剣先を見つめる。そこにはなんら一切の感情も認められなかった。ただ動くものを目で追っているだけにも見える。
ミアの悲鳴や男たちの叫び声もまるで聞こえていないのか、ただひたすら恍惚とした表情を浮かべるままで、やがてゴブリンは急に興味をなくしたように振り返ると、あまりにも稚拙な足取りでふらふらと孤児院の建物へと戻っていこうとする。
「待てっ!」
男は鋭い制止の声とともに、逃すまいと勢いよく剣を振るうが、実戦経験に乏しい石工の剣先は狙いを外して大きく宙を切り裂くだけであった。
最初の一撃を外したことでさらにうろたえた男は顔をひきつらせながら駆け出し、去りゆくゴブリンの背中に斬撃を加えようとする。
その背中にミアが必死の形相ですがりついた。
「違います! あの子はゴブリンじゃありません!」
修道服からはみ出た手首などから推測するに、決してたくましい肉体の持ち主ではないであろうミアだったが、ふりほどこうと暴れる男に死に物狂いでしがみつき、しばし揉み合うかたちになる。
「放せ! 邪魔だ!」
男の振りまわした腕が頭に当たり、ミアの頭巾が外れた。その下から長い黒髪がこぼれ落ちる。激しく争う二人に踏まれて、真っ白だった頭巾は、あっという間に泥に塗れて汚れてしまう。
その間隙をつくように、もう一人の自警団の男が抜き身の剣を構えながら、揉み合う二人の傍らを駆け抜けていく。
自警団の剣は、なにが起こったかもわかっていないような遅々たる歩みのゴブリンの背中に向けて突き立てられようとしていた。
「フローレンス‼︎」
ミアが涙を流しながら絶叫する。
そのとき、開け放たれたままの扉の向こうから数人の子どもたちが現れた。
自警団の男たちの雄々しい怒鳴り声と、いつも優しく穏やかなミアから発せられた絶叫によって目覚めたようだった。寝巻き姿のまま飛び出してきた子どもたちは、みんな不安そうな顔をしていた。
そして、ゴブリンの少女に剣を向ける男の姿を見る。
一人の少女が、パッと憤怒に顔を染めて飛び出してくる。その瞳は硬く閉じられていた。
「カ、カーレット族⁈」
ミアと揉み合っていた石工は唖然とする。
いまにも剣を突き刺そうとしていた男も、新たな乱入者の存在に気がつき、驚きの表情で構えたその手を止める。
アカメの少女は、近づいてきたゴブリンとすれ違うと、幼いゴブリンの娘をかばうように両手を広げて自警団員の前に立ちはだかり「フローレンスをいじめるな!」と怒りに震える声で一喝した。
「な……」
言葉を失う男。
次の瞬間、アカメの少女は瞼を見開き、真っ赤な瞳を男に向けた。
瞬時にして冷涼な朝の空気が焼け、なにかが焦げたようなジュッという乾いた音がする。
「うわぁぁああああ‼︎」
男は悲鳴を上げ、顔を押さえた。
アカメの少女が放った熱線は、寝起きだったということもあるのか、あるいはまだ子どもゆえの未熟さなのか、狙いを大きく外してしまう。しかし、直撃をまぬがれたとはいえ、顔にひどいやけどを負った男は、激しい痛みに絶叫する。
「貴様ぁ‼︎」
激昂した自警団の男は、焼けただれた顔面を片手で押さえながら剣を振りかぶり、熱線を放ったアカメの少女に向かって突っ込んでいく。
「ビビ‼︎」
ミアは涙を流しながら、喉がちぎれんばかりに少女の名を叫ぶ。
ビビと呼ばれたアカメの少女は、自分よりもはるかに大きな男が鬼気迫る表情で突進してくるその勢いに飲み込まれ、身動きが取れなくなっていた。いまこそ開くべき禁断の瞼もその存在を忘れたように固く閉じられ、ただひたすらにうろたえるばかりであった。
「ビビ、逃げろ!」
孤児院の子どもたちからも声が飛ぶ。
だが、そのときにはすでに時遅く、ビビの間近に迫った男が剣を振り下ろし、なんとか身をひるがえして逃げようとしたアカメの少女の太ももを大きく切り裂いた。
ぎゃあ、と手負いの獣のような叫び声が発せられる。
切り裂かれた衝撃で見開かれた瞳から熱線が放たれ、庭の片隅に生える草木を燃やす。
「ビビー!」
ふたたびミアは絶叫した。
ゆっくりとただよう白煙。剣を構えた屈強な男と、倒れる小さな子どもの姿。
幼き頃の忌まわしき記憶がよみがえる。
真昼のレンヌ村を襲った野盗の集団。燃え盛る炎のなか、なすすべもなく凶刃に倒れていく大人たち、そして幼い友人たち——。
修道院に幾度も嘆願し、ようやく開設にこぎつけたこの孤児院は、ミアにとっては聖域のような場所であった。フェリス神の愛情に優しく守られた幸福な家庭——それがミアの目指す孤児院の姿であった。
その幸せの姿が、ガラガラと脆くも崩れ去っていく。
脳裏で重なる忌まわしき記憶。
封印していた忘れ去ったはずの惨劇。
ミアはしがみついていた自警団の男から手を離し、崩れ落ちるように膝をつくと、虚ろな双眸からとめどなく涙を流しながら激しく咆哮する。
そのとき、汗と涙とで額に張りつく前髪の乱れた隙間に光が生じた。
最初は蛍火のようだったかすかな光は、みるみるうちに輝きを強めていき、やがてまばゆいまでの光を放つようになる。
次の瞬間、ミアの周辺の空間がぐにゃりと歪んだ。
たわんだ空間のなかから黒い汚泥のようなものが漏れ出てくる。複数生み出されたそれは渦を巻きながら、いびつな泥玉をかたちづくり、すぐに重力に引かれぼたぼたと地面に垂れ落ちていった。
よく見れば、単純な汚泥の塊ではない。漆黒の糸状のものが大量に、そして複雑に絡み合っており、常にとどまることなくうごめきあっていた。その生々しさは、見る者に根源的な嫌悪感を与えるものであった。




