第54話 貧民窟にて
フィンはふと、立ち止まった。
「……ここは?」
なんとなく人の流れに従いながら歩いていたところ、いつのまにか市壁がそびえる街のはずれまで来てしまったようだ。おそらくは、ザイオンの南の端だろう。
さきほどまでの神殿や寺院の立ち並ぶ一画とは様相を変え、周囲にはいまにも崩れるのではないかという、いかにも素人の手でつぎはぎされたようないびつな建築が所狭しと密集している。
どうやら、スラムに迷いこんでしまったようだ。
気づくと周囲から、見慣れぬ来訪者であるフィンを値踏みするような視線が向けられている。
こういうとき、まだ若く、なおかつ童顔のフィンは実力を見誤られがちだ。
フィンは大きくため息をついた。
さっそくフィンの進路をさまたげるように粗末な衣服をまとった数人の男があらわれる。
「にいちゃん、どこいくよ?」
男たちはにやにやと下卑た笑いとともに、やたらと甲高い声で問いかけた。その瞳は固く閉ざされ、特徴的な、乾燥してひび割れた大地のような肌をしていた。
アカメだった。
心のなかで舌打ちしながらも平静を装い、フィンはなにも答えず、周囲の状況を確認した。
前に二人、後ろに一人。
人数が少ないのは、よほどあなどられているのだろう。アカメたちの仲間かどうかわからないが、スラムに棲みつく無数の飢えた目が、好奇心いっぱいにフィンたちの騒ぎを見守っている。
フィンはアカメについては、ナタリアから聞いたくらいの知識しかない。あとは、さきほど目隠し鬼に興じる子どもを見た程度だ。
いざとなったら、その両目を開き、そこから放つという熱線にさえ気をつければよいと考えていた。
背筋を伸ばすふりをして身体を揺らし、視線を動かさずに、腰に下げている双剣の状態を確かめる。
位置は悪くなさそうだ。
「それで、なんの用だ?」
覚悟を決めたフィンは、落ち着いた口調で、目の前にいる二人のアカメに話しかけた。想像と異なるその毅然とした態度に、アカメたちは多少動揺を見せながらも、耳障りな笑い声を漏らす。
「なんの用じゃねえよ。俺たちはお前の持ち物に興味があんだよ。持ってるもん全部置いてきな」
フィンは鼻で笑った。
「冗談だろ? なんで?」
その一言にアカメたちは顔を真っ赤に染め、怒り出した。金切り声で何事かを一気にまくし立てる。癖の強い訛りのせいもあって、フィンにはすべてを聞き取ることはできなかった。そもそも聞き取るつもりもなかった。慎重に呼吸を整え、アカメたちの様子を見守る。
やがて、ひときわ荒々しい語気とともに、アカメの瞼がぴくりと痙攣する。
その瞬間、フィンは大量の吸気とともに異能を発動させた。ぬるりと時の流れが滞る。コマ送りにも似たスローな世界のなかで、アカメの見開いた眼窩が燃えるような赤に染まり、周囲の大気ごと地面を真っ赤に焼く。
フィンは、この世界でたった一人の時間の足枷を逃れた者のごとくすばやく身を翻し、凶悪な熱線を避けた。思った以上に攻撃範囲が広い。異能を使っていなかったらかわすことはできなかっただろう。軽く見積もっても、手足のどこかには酷い火傷を負っていたに違いない。
衣服から露出した肌の表面に、ちりちりと焦がすような熱さを感じながら、フィンは驚嘆した。
一方でアカメも明らかに動揺していた。
決して逃げられるはずのない必殺の一撃にもかかわらず、まるで空気に溶けてしまったかのようにその姿をくらませ、避けられてしまったのだ。
あわてて周囲を見渡す。
薙ぐように放たれたアカメの熱線が瞬時にしてスラムを構成する乱雑に組みあわされた建材を燃え上がらせる。野次馬していた住人のものと思われる悲鳴が複数、ぎゃあっと上がった。
炎は、傷んだ木材を容易に飲み込み、それを糧にさらに大きく成長しようとする。
スラムの住人たちがぱたぱたと駆け寄り、手にした布を幾度も叩きつけながら火を消そうと騒いでいる。周囲からはアカメを呪う怒鳴り声が投げかけられた。
熱線を放ったアカメは、あわてたように目を閉じ、焦りと畏れを共存させた表情でようやく見つけたフィンの方に向き直った。
他の二人のアカメも明らかな動揺に顔をにじませながら、フィンと対峙するアカメへ背後からなにごとかを叫び散らしている。
それが「逃げろ」なのか「さっさと倒せ」なのか、フィンには聞き取れない。
どちらでもいい。
次の熱線が放たれる前にしとめるべく、フィンはひきつづき呼吸を整えながら、双剣を抜き、アカメの足元へと駆け込んでいく。
沈み込みながら低い位置から喉元を斬りあげる一撃を放つ、フィン得意の形だ。
獲った——そう思った瞬間、攻撃目標であったアカメの身体が一気に燃え上がった。
突然の事態に、フィンは激しい呼吸を繰り返しながら、急遽方向転換を行い、元いた場所から十分に距離を取る。
吸い込んだ熱風が気道、そして肺を焦がす。
たまらずフィンは異能を解除した。しゃがみ込んだまま、荒い息遣いとともに血が出るのではないかというくらい激しく咳き込む。
喉がそのまま飛び出してしまいそうな咳を繰り返しながら、なんとか次の攻撃を警戒するべく、歪んだ顔を上げる。
どうやら背後にいた二人のアカメが、仲間がいるのも構わずに熱線を放ったらしい。
全身を焼かれ、乾いた皮膚を真っ黒に焦がしながらアカメは断末魔の叫びを上げ、激しく地面を転がりながら暴れる。そしてすぐに動かなくなった。周囲にはおぞましいほどの悪臭がたちこめる。
顔をしかめながら、フィンは大きく息を吐き出した。
「くそっ!」
幸い、犠牲となったアカメの身体が遮ってくれたおかげで死にいたる熱線の直撃は免れている。
しかし、異能を使った反動と、熱された空気を吸い込んだことによる呼吸器のダメージが、フィンの身体の自由を大きく損なっていた。
ためらいなく仲間を葬ったアカメたちは、たぶん怒っていると思われるのだが、相変わらずの表情の読み取れない陰気な顔つきで、ゆっくりとフィンの方へと近づいてくる。
「てめえ、俺たちの仲間を、よくも!」
耳障りな声がフィンに毒を吐く。
自分たちが仲間を殺したことなど本気で忘れているようである。驚くべき責任転嫁能力だ。
フィンは自己弁護する気も起こらず、ただ黙っていた。
異能は、使えない。
全身を襲う倦怠感と戦いながら、なんとか身体を起こし、荒い息づかいとともにアカメらを睨みつける。
不用意に近づけば、熱線の餌食となるだけだろう。
ダーシーもジーンもいない戦闘は、久しぶりだった。いてくれたらどれだけ良かったことか。
いざとなったときに頼れる者がいないということが、こんなにも不安だとは思いもしなかった。
転生して以来、命のやりとりの場には、常に誰かがそばにいてくれた。フィンにとっては、初めての孤独な戦いだった。自分という人間が、この世界ではたったひとりしかいないということの意味を改めて突きつけられたような気がした。
——なにかいい方法はないか。
フィンは焦燥に駆られながら周囲を見渡した。
場末という言葉がこれ以上似合う場所のないスラムの一角である。衛兵や自警団など助けてくれそうな人がいるはずもない。ただ、いまにも崩れそうな建物と、そこで燃え上がる火を早く消そうと大騒ぎする住人たちの姿があるばかりであった。
住人たちは顔を煤で真っ黒に汚しながら、燃え移りそうな周囲の建物を叩き壊したり、ボロ布などをバサバサと叩きつけている。その懸命な消火活動の甲斐もあって、燃え上がった火は次第に小さくなってきているようだ。
住人たちの顔は、疲労と怒りに満ちていた。
「おい、テメェら! こんなところで喧嘩してんじゃねぇよ! 灰になっちまうだろ!」
ひとりの中年男が、アカメとフィンに向かって怒鳴りつけた。
アカメはその声に一瞬びくりと身体を震わせる。眉間に皺を寄せ、困ったような表情で仲間同士、顔を見合わせた。
その様子にフィンはふと不思議に思う。
あれほどの強力な殺傷能力を持っているにもかかわらず、アカメという種族そのものが、各地を転々と放浪しながら生きている。なぜ、こんなにもビクビクしているのだろうか。
それこそ、こんな通り魔のような小銭稼ぎをせずとも、野盗のように暴力にものを言わせ、傍若無人に振る舞うこともできたはずだ。
それがスラム街の住人に怒鳴られただけで明らかに怯えている……。
——なるほど、そういうことか。
フィンは、一つの仮説にたどり着いた。
気を取り直したアカメたちが、ふたたびフィンとの距離を詰めようとするのを、むしろ迎え撃つようなそぶりを見せて牽制する。そうして相手を足止めしつつ、ぐるりと回り込むようにアカメと住人たちが集まる火災現場とのあいだに移動した。
「おい、にいちゃん、こっち来んなって! 迷惑だよ!」
住人たちが近づいてきたフィンに気づき、心底嫌そうな声で毒づく。
フィンは視線だけはアカメに向けたまま、右手の剣を収めつつ、不敵に微笑んだ。
「心配なく。すぐに片づけるから」
その言葉にアカメたちはふたたびムッとしたように、乾燥してひどく荒れた眉間に大きく縦皺を刻んだ。
「なに言ってんだ、てめえ! お前に俺たちが倒せるわけないだろ?」
背の若干高い方のアカメが甲高いかすれた声で叫ぶ。その声にフィンは無言で、おどけるように肩をすくめた。そのしぐさがアカメたちの怒りを誘う。
「このやろう!」
感情に任せたうわずった声で叫ぶと、フィンに強烈な熱線を浴びせようと足を踏み出す。
そこに、フィンの右手が一閃した。
間髪入れず背の高いアカメの右目に一本の棒手裏剣が突き刺さった。たまらず足を止め、身体を折るように曲げると割れんばかりの悲鳴をあげる。
突然のことに、もう一人のアカメがうろたえるなか、フィンはさらに腰から棒手裏剣を抜き取り、よく訓練されたしぐさで二投目を放つ。アカメは恐怖に顔を歪めながら、凶悪な瞳をその奥に隠す瞼をこじ開け、一瞬で大気すらも焦がす高温の熱線を眼前に解き放った。
しかし、無慈悲にも重量のある鉄の塊である棒手裏剣は、その勢いを削がれることもなく、むしろ真っ赤に熱された状態で、もう一人のアカメの開かれた瞼の下へと吸い込まれていった。
同じく激痛への絶叫を大きく放ち、たまらず転がるように地面に倒れこむアカメ。
フィンは用心しながら近づいていくと、あとは無慈悲に小剣をアカメの身体へと順に突き立てていくだけであった。
「ふうっ」
声に出してため息をつきながら、血で汚れた小剣をアカメのボロボロの衣服で拭うと鞘に戻した。さらにアカメの眼窩に深く突き刺さった手裏剣も抜き取って回収する。剣とは違って血以外の謎の体液も付着するそれを同じようにアカメの服にこすりつけ、きれいにした。
やっぱり遠距離攻撃に弱かったか。
自分の仮説が間違いではなかったことに、フィンは安堵する。
それとともに、いままで緊張が押しとどめていた疲労感が一気に襲ってくる。
久しぶりに身の危険を感じる相手であった。
ナタリアが以前言っていたように、アカメは厄介であった。ひとつ対応を誤れば、その強力な熱線によって灰燼に帰すこともふつうにありうる危険な相手だ。
だが、これまでの歴史で、アカメの一族が他の種族たちから嫌悪され、迫害や排斥によって各地を流転せざるをえなくなったことを考えると、なにかしらの弱点があると考えた。
そして、フィンはそれが飛び道具への耐性ではないか、と推察したわけだ。
さらにいえば、飛び道具を苦手とするからこそ、いろんなものが投げつけられるような群衆との集団戦にも弱いはずだ。それゆえ、スラムの住民すべてを敵に回すことは本能的に避けるはずだと考えた。
案の定、フィンが住民たちを背にしたことで、アカメの攻撃は控えめになり、十分にフィンが体制を整える余裕ができたというわけである。
……なんとも悲しい種族だな。
フィンは、倒れるアカメたちの死体を見下ろしながら憐れむような気持ちになっていた。
背後ではどうやら消火に成功したらしくスラム住民たちの歓声が聞こえてくる。彼らにとっては嫌われ者のアカメの死などは大したことではなく、それよりも生活の場である住居がこれ以上あばらやにならずに済んだことのほうが大切らしい。
フィンはたくましく生きる住民たちの姿に小さく微笑むと、誰かに別れを告げるでもなく黙ってその場を後にした。
不穏なよそ者であるフィンの姿が消えると、すぐに住人たちは様子をうかがいながら倒れたアカメのまわりに集まりはじめ、やがて身につけていた衣服や荷物などの奪い合いがはじまった。
男女も老人も子どもも関係なく、全員が相手を殴りつけ蹴飛ばしながら目当ての代物を手にしようと躍起になる。たちまちのうちにアカメはみすぼらしい裸体を寒空に晒すこととなった。
やがて遺体はザイオンの市壁内を流れる川の流れへと放り込まれ、なにごともなかったかのようにスラムはその日常を取り戻した。




