第42話 旅立ちの日
十四歳の春に、フィンは、初めてクレイディア伯領の自由都市ハント市の門をくぐった。
自由都市そのものをフィンは他に知らない。
高くそびえたつ堅牢な市壁の内側に、見上げるような高さの家々が密集するかのように軒を並べる光景に、思わず「うわぁ」と感嘆の声をもらしてしまう。
そんなフィンの反応に、いかにも都市育ちといった様子の青年が鼻で笑いながら傍らを通りすぎていく。やがて誤解されたことに気がつき、フィンは思わず顔を赤らめた。
東京で生まれ育ったフィンにとっては「都会」といえば、西新宿や品川といった最先端の超高層ビルが集中するオフィス街か、あるいは渋谷や原宿、もしくは浅草のような買い物客や観光客で賑わう繁華街の雑踏の様子が思い浮かぶ。
さきほどの感嘆の声は、おのぼりさん的なものではなく、単純に「ゲームやマンガで見た中世ヨーロッパの街並みだ!」という感動にすぎなかったのだが、どうやら誤解されてしまったらしい。
いまさらながら青年の背中を追いかけ、それを説明するわけにもいかず、フィンはため息をつきながら、田舎村出身であることは事実なんだからと自らに言い聞かせた。
それに東京は知っていても、自由都市が初めてなのは事実である。
自転車に乗った警官がいつもうろうろしているような東京とは違い、さまざまな人種や民族、種族が集まった自由都市においては、住人の粗暴さも治安の悪さもおよそ比較にはならないだろう。
多少の暴力であれば対応する自信はあるが、スリや詐欺といった、剣の腕だけではどうにもならない犯罪に巻き込まれる危険性もある。
フアナにもらった貴重な路銀を盗られないよう、フィンは衣服の中に隠した革袋をぎゅっと握りしめた。
出立の日の朝を思い出す。
フィンとして生まれ落ちてから、大半の時間を過ごしてきた水車小屋で、フアナはフィンにひざまずき、深々と頭を下げた。
「我が主からあなた様を見守るように命じられた十四年の歳月。とても楽しい毎日でした。か弱き赤子の頃から、これほどまで立派になられて、私の役目も十分に果たせたものと自負しております」
そういうとフアナは美しく整った顔をあげ、にっこりと微笑んだ。
「これからも私は、あなた様の母として、この地で無事を祈っております」
地上での生活が長くなろうとも、そこは神の眷属。溢れんばかりの感情すらも制御する強力な理性が、別れの涙など許そうとはしない。しかし、その表情には、制御しきれない別れの寂しさがにじみ出ていた。
フィンは、そんなフアナの手を取って立たせると、思慕の念を込めて強く抱きしめる。
その頬は、流れ落ちる涙でぐっしょりと濡れ、顔を埋めたフアナの服をひどく湿らせた。
「フアナはいつまでも僕の育ての親だし、いつまでも僕の帰る場所であってほしい——」
思わぬ言葉に目を丸め、顔を赤らめるフアナ。だが、すぐに冷静沈着な表情に戻り、「そのご命令、謹んでお受けいたします」と深々と礼をした。
フィンが村を出ることを決めたのは、野盗の襲撃からまもなくのことであった。
前世で死に別れ、転生したのちにふたたび出会えた無二の親友が、反社会勢力である野盗団の一員にその身を落としていた。救い出そうと剣を振うも、思わず傷つけてしまい、そればかりか一瞬の隙を突かれて、倒れたまま強引に連れ去られてもいる。
今度は僕の番だ。必ず救い出す……!
前世で親友に救い出された記憶を思い起こし、フィンは生まれ育ったコルト村を後にする決意を固めた。
フアナにその思いを打ち明けたとき、さも当たり前のように、フアナもついてきてくれると考えていた。だが、それが勝手な思い込みであったことに気づかされた。
神の御使ながら、フィンを育てるために受肉し地上に降りたフアナは、これからもコルト村に残り、水車小屋で粉挽きの仕事をつづけていくと答えた。すべてはフィンが命をかけて野盗から守り抜いた、このコルト村の人々を守るためだという。
「——それに」
フアナはどことなく寂しそうな様子でつぶやくように言った。
「いつまでも私が一緒では、かえって宏基様の可能性を潰してしまうことになるでしょう。私の役目は、ここまでです」
そして、そっと微笑んだ。
その悲しげな笑顔に、フィンは幼き守られる日々が終わったことを自覚した。
これから運命を切り拓くのは自分自身なのだ。前世では感じることのなかったその重圧に、フィンは呼吸が浅くなるのを感じていた。
フィンは水車小屋のすぐ近くにある鍛治工房を訪ねると、こちらの世界での剣術の師となるエリックにも別れを告げた。
転生前の友人の話をするわけにもいかず、ただ村を出て世界を見たいとだけ伝えたが、それを聞いたエリックは、なんとも感慨深そうな表情を浮かべた。
「……懐かしいな。俺もお前くらいの年に村を飛び出して傭兵になったんだよな」
それから先のことは語ろうとしないエリック。
長い付き合いのフィンですら、エリックが傭兵時代にどこでなにをしていたのかは聞いていない。ただ、襲ってきた盗賊団の傭兵崩れたちと比較しても尋常ならぬその強さから、それなりに名うての傭兵として活躍していたのではないかと想像していた。
「それで、お前これからどうするんだ?」
「とりあえず、ハント市に行くつもり」
「仕事はどうすんだ?」
「傭兵でもやろうかと思ってる」
「そっか」
そういうと、エリックはおもむろに壁へと歩いていき、そこにかけられていた短剣を手に取った。
「これ、やるよ。餞別だ」
フィンに手渡しながらも、エリックはひとつだけ念を押した。
「……いいか、大切にしろ。絶対に投げるなよ。手裏剣じゃねぇぞ?」
いまだ衰えぬその迫力に目を白黒させながらフィンは大きくうなずいた。
「見てみろ」
エリックの声に促され、質素ながら重厚な造りの鞘から短剣を抜き払う。
いきなり鋼にはあるまじき真っ白な剣身が姿を見せる。フィンはその神秘的な様子にすっかり目を奪われてしまった。白濁しながらも透きとおる石のようでもある。その濃厚な濁りは角度を変えると内部で渦巻きながら動いているようにも見えた。
現世でも前世でも見たことのない物質だった。
しいていえば乳白色の半透明のガラスやアクリルだろうか。触った感触が伝えてくる金属のような冷たい質感とは異なる柔らかな外観に、違和感を抱かずにはいられなかった。
「……エリック、これは?」
「すげえだろ? ティリス鋼ってやつだ。こう見えてそのへんの金属よりはるかに硬い。言っとくが、めちゃくちゃ貴重なんだぞ?」
「へえ」
フィンは感心したように声を漏らしつつ、目の前に短剣を掲げてみる。
柄には意匠を凝らした繊細な装飾が刻まれ、それが並大抵の職人の手によるものではないことを語らずとも雄弁に物語っていた。
「こいつの研ぎ方は?」
並大抵の金属よりも硬いということであれば、砥石で刃をつけるのも容易ではないだろう。だが、フィンの問いにエリックは鼻で笑って答えた。
「なに言ってんだ? 研ぐ必要なんかねえぞ? 刃も欠けねぇし、切れ味だってずっと変わんねぇからな」
そういうと豪快に笑い出し、言葉を続けた。
「まあ、そもそもティリス鋼なんか研げるやつは、そうそういねぇだろうな」
エリックによれば、どうやらティリス鋼を加工できるのは、現在では数少なく、おそらく北方の山脈に暮らす、とあるドワーフの一族だけがその技術を有しているらしい。この短剣も彼らの手で打たれたものだという。その素材の希少さのみならず、加工できる職人の少なさもティリス鋼の貴重さをさらに高めている要因となっているようだ。
ふーん、とフィンはふたたび感嘆の声を漏らした。
「なんでそんなすごい短剣をエリックが持ってるの?」
「……ああ、こいつか? まあ、そうだな……傭兵してた頃にな、雇い主にもらったんだ」
「ふーん」
事情を知らぬフィンには、その雇い主が誰で、王位継承者に代々伝わるこの短剣がどのような気持ちで授けられ、それから主従がどれだけ熾烈な戦いに巻き込まれたのか、なにひとつとして知る由もない。エリックのありがちな回答に、さほど興味がなさそうに生返事を返した。
「それが……まあ、いってみれば、お前が俺の弟子である証みたいなもんだ」
優しい眼差しでフィンを見守りながら、エリックは少し寂しげに微笑んだ。
その態度に戸惑いつつ、フィンは「……ありがとう」と礼を伝える。
いままさに旅立たんとする教え子からの改まった感謝の言葉に、エリックは少し照れながらも、それを隠すかのように慌てて「ああ、そうだ! 頼まれていたやつがあったな!」と言いながら、逃げ去るように工房の奥へと消えていった。やがて少しの時間をおいて「わりぃ、わりぃ、待たせたな!」と言いながら抜き身の小剣を二本ぶら下げながら戻ってくる。
「頼まれていた双剣だ。ティリス鋼にはかなわねえが、鉄としてならまずまずの出来だと思う」
「ありがとう!」
フィンは、礼とともに双剣を受け取ると、さっそく諸手に握ってみる。いままで愛用していた双剣に見た目こそ酷似しているが、フィンの希望を取り入れ、握る柄はわずかに細く、重心の位置をわずかに剣身の根元あたりに寄せるなどの繊細なカスタマイズが施されていた。
試しに軽く振ってみるが、イメージどおり、肩や肘、手首の動きに連動して、まるで鞭でも振りまわしているかのように剣先がしなやかに動く。貫通させるための剛性と、俊敏であるがための軽量化という、通常であれば相反する二つの要素が絶妙なバランスで共存していた。その一体感に思わずフィンは笑い出してしまった。
「エリック、最高じゃん! ありがとう、大切にするよ!」
「いいってことよ。それと、ハント市に行くなら、こいつを魔術学院にいるダーシーに渡してくれないか?」
そういうと亜麻布に包まれた短い棒のようなものを渡してきた。
「なにこれ?」
「あいつに頼まれていた儀式用の短剣だ。やたら神経質に細工やら素材やらが指定されてて、クソ面倒だったんだが、ようやくできあがったんだ。是非おまえから渡してほしい」
それなりに自信作なのだろう、エリックは職人らしい自負に満ちた笑顔を浮かべつつ、嬉しそうに巻きつけられていた布を開けていく。
中には、繊細な彫刻がいたるところに施された少し長めの短剣が収められていた。細身の剣身にすら銀や金をあしらった丁寧な彫刻が刻まれている。硬いものを思いっきり叩けば、そこから簡単に折れてしまうだろう。
だが、魔術師にとっては、それでいいらしい。肉や骨を切り裂くための道具ではないのだ。
「わかった。渡しておくよ」
ダーシーへの受け渡しを約束すると、ふたたび亜麻布で包まれた短剣をフィンは受け取った。
いよいよ別れのとき、エリックとフィンは固い抱擁を交わす。育ての親であるフアナの包み込むような柔らかさとは真逆の、筋肉と骨が強く押しつけられる痛みをともなう抱擁。だが、そこにはフアナにも負けぬ愛情とぬくもりがあった。
「……エリック。フアナを頼む」
「ああ、もちろんだ」
フィンの唯一の心残りは、転生神の命でフィンのためだけに地上に降りたフアナを、ひとり、このひなびた農村に残していくことだった。信頼おける隣人にそれを託そうとするのは、フィンにとっては罪滅ぼしにも似た心の働きだったのだろう。
だが、それにつづくエリックの一言にフィンは発言を後悔した。
「フアナさんのことは俺に任せておけ。なんなら夫婦として面倒みてやるさ」
顔を赤らめながら、照れ隠しとばかりに豪快に笑うエリック。フィンは露骨に顔をしかめて、即座に言い放った。
「それは、いいから」




