第19話 地上へ
「フアナ」
宏基の胸中のざわめきなどには気づかぬそぶりで、燐は真面目そうな細身の女性の名を呼んだ。
フアナは「はい」と静かに答えた。
「地上に降りて、宏基くんが転生したあとのサポートをお願いできる?」
「はい」
フアナは深々と頭を下げて主人への恭順の意を示した。だが、その一方で、
「え?」
という驚きの声が、宏基とアーシアそれぞれの口から同時に漏れた。
「……ちょ、ちょっと、地上に降りるって……?」
なにも聞かされてなかったのであろう、アーシアがあたふたと狼狽しながら燐に尋ねる。
フアナは苦々しげに顔をしかめながら、隣にいる同僚を睨みつけた。まるで幼な子が駄々をこねるのを叱る母親のような表情。主人である転生神に対して本来、許される態度ではないのだろう。
だが、当の燐は気にとめる様子もなく、さらりと答えた。
「うん。フアナには神使をやめてもらう」
「……⁈」
告げられた内容のあまりの衝撃にアーシアは継ぐべき二の句を失った。
その沈黙に対して燐がさらに言葉を続ける。
「地上で暮らすには、神使としての能力はあまりに強大すぎるから。いったん預からせてもらうね」
フアナは素直に「はい」と頷く。燐はにこやかに微笑み返した。
「もちろん能力を失ったといえども、フアナはこの転生神の眷属。どんな危険が迫ったとしても並大抵のことは乗り越えられると思う。だからこそ隣にいて、宏基くんが成長するまでは、きちんと見守ってほしい」
「かしこまりました」
「な……なんで、そこまで……してくれるんだ?」
燐とフアナのやりとりを呆然と眺めていた宏基は、そもそも抱いていた疑問について尋ねてみる。
自分のためにフアナが神使としての能力を失い、地上に下ろされる。
神使の価値観はよくわからないが、きっと左遷されるようなものなのだろう。
罪悪感を感じずにはいられなかった。
だが、燐はこともなげに言う。
「転生神としても重要な問題でね。宏基くんのように魂の内容がほぼ変わらずに転生するケースは、正直、なにが起こるかわからない。だからこそ身近なところで見守っておきたいってのもあるんだ」
そして、燐は少し顔を背けて「それに」と口ごもった。
「……宏基くんは、私にとって誰よりも大事な人だから……」
その言葉とともに、女神に生まれ変わった燐の、きめ細かな白い肌がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。あまりに恥じらう燐の態度に、宏基まで恥ずかしくなってくる。
「じゃ、じゃあ、フアナさん、よろしくお願いします」
話題を変えようと宏基は、燐の傍らで微笑みを貼りつけたままの金髪ロングボブの神使に挨拶した。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
フアナは柔らかく微笑み返した。どことなくぎこちない態度。
だが、その一連の応対からも、フアナが冷淡なわけでも、感情に乏しいわけでもなく、ただ単に人間に不慣れなだけだということがわかった。そして、なんとか宏基と良い関係を築こうと努力していることも。
その優しげな表情と謙虚ながらも諦めない健気さに、宏基は好感を抱いた。それは彼女の精巧な硝子細工のような儚い美貌だけが理由ではなかった。
「さて」
宏基と部下の会話を聞いていた燐は、満足そうに笑みを浮かべて言った。
「……宏基くん、そろそろ行こうか?」
「あ、ああ……わかった」
そうは言いつつも思わず生唾を飲み込む宏基。恐る恐る尋ねた。
「ちなみに……これから俺はどうなるんだ?」
「ん? 転生するんだから、赤ちゃんからやり直してもらうよ」
燐はにっこりと笑った。
「そのためにも、いままさに地上で身ごもろうとしている女性の胎内へと宿る必要がある」
こともなげに言う。
「……た、胎内?」
不穏なキーワードに反応して、宏基がなんともいえない表情を浮かべたのを燐は見逃さず、卑猥な笑みを浮かべた。
「……なにを期待してるのか知らないけど、胎児に宿るってことは、身体機能もその肉体に依存するってことだからね。産まれてしばらくは、視力なんかほぼ皆無だし、自分自身と外界の区別もつかない未分化な状態だから、なんの感想も抱けないと思うよ」
そう言うと、燐は笑い声を漏らした。
「ち……違う! 期待なんかしてないって!」
あたふたと弁明する宏基。
神使であるフアナとアーシアには、弁明する理由がわからないようで、二人ともきょとんとした顔で宏基を見つめていた。その視線にますます宏基は顔を赤らめる。
なんとか窮地を脱しようと、半ば強引に質問を投げかけた。
「そういえばさっき、身体機能も肉体に依存するって言っていたけど、ってことは言葉なんかもわからなくなるってこと?」
「そうだね。なにせ赤ちゃんだから。しばらくは涎を垂らしながら、だぁだぁ言ってるだけだと思うよ。ちなみに記憶なんかも高度な言語能力に依存してるし、脳内に記憶の痕跡が再生されるのにも時間がかかるから、前世の記憶が蘇るのはたぶん三歳くらいなんじゃないかな? ——フアナ、覚えておいてね」
燐は、転生後の宏基の後見人となる小柄な金髪の神使に向かって言った。フアナは几帳面な声で「かしこまりました」と答える。
「さて、他に質問は?」
小首を傾げながら、燐は生前の恋人に向かって尋ねた。
女神に生まれ変わり、その外見も洗練されたせいか、そうしたなにげないしぐさがたまらなく可愛いかった。内に湧き上がる衝動に背中を押され、宏基はもうひとつだけ質問を加えた。
「また、すぐに会えるかな?」
その問いに、燐は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「……そうだね。会いたいね」
「なにか問題でも?」
煮え切らない燐の態度に不思議そうに尋ねる宏基。その言葉に乾いた笑いを漏らす燐。
俯きながら呟くように返答した。
「私が地上に降りるのは許されていないんだ」
それは神使であるフアナですら、地上で暮らすにはその能力を奪わなければならなかったのと同じ理由からだという。それほど神や神使の能力は強大であり、逆に言えば地上世界がそれほど脆弱だということらしい。
要するに、転生してしまえば、次にこの転生の間を訪れるときまで燐には会えないということだ。そして、それはすなわち再び死ななければ再会できない、ということになる。
「私はいつでも宏基くんを見ているし、なにかあれば、そこにいるアーシアを派遣するから」
名前を呼ばれた豊満な曲線を持つ赤毛の神使は、にっこりと微笑む。
「あとは、フアナを頼ってくれれば、きっと大丈夫」
燐はそう言いながら、宏基へと慈愛に満ちた笑みを向けてきた。
「元気でね」
「うん。燐も」
宏基も晴れやかな笑顔でそう答える。しかし、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、転生神って地上ではなんて呼ばれてるの?」
「私の名前……?」
不意を突かれ、驚いた燐は目を見開いた。
宏基たちが命を落とすきっかけとなった忌々しい先代の転生神であるが、その神格を継いだというからには、落語や歌舞伎の名跡のようにその名前も継承しているのだろうと思った。だが、なぜか燐は真っ赤な顔で、若干恥ずかしそうに口ごもって聞き取りにくい声で言い訳を漏らしつづけていた。
明瞭な声で告げたのは、アーシアである。
一点の曇りもない純真さで「リィン」と発音した。
「……燐?」
「いいえ。リィン。それが我があるじ、転生神の御名です」
純粋無垢な笑顔で満足そうに微笑むアーシアに対して、名前を呼ばれた当の本人は、やれやれといった雰囲気で苦笑いを浮かべる。
宏基は「……え、そのまんまじゃね?」と呟いてしまった。
「……宏基くんも、そう思うよね……」
ため息とともに燐も漏らした。
「転生神になってわかったんだけど、この世界、意外に名前ってのが重要で、存在をつなぐ糸のような、そんな役割を果たしていたりもするんだ。どうやら私が選ばれたのもそういう理由もあるみたい」
「……なんか言霊みたい」
「たぶん、そうなんじゃない? 知らないけど」
燐は半ば笑いながら適当な答えを返す。そんな転生を司る女神の雑な態度に思わず宏基は吹き出した。
「リィン……か。呼び慣れないな〜」
「宏基くんは、前のままでいいよ」
「じゃあ、燐、で」
「うん」
燐は満足そうに微笑み返すと、
「それじゃあ、行こっか」
と告げる。
無言で頷いた宏基に向けて燐は掌を上に差し出すと、そこに青白い仄かな光を生み出した。次第に強まっていく光は、燐を中心に優しく空間を満たしていき、やがて宏基の存在もその領域に飲み込んでいった。
「……これは?」
青い光に包まれ、不思議そうに自身の手を見つめながら宏基は尋ねた。
痛みや不快感はないが、全身の細胞が強制的に希薄にさせられるような違和感があった。
「これは魂糸を操る光。いまから宏基くんを宿るべき胎芽へと結合させるから」
そう言いつつ、側に控える小柄な神使へと顔を向けた。
「フアナも下界に降りる準備してね。宏基くんは十月十日後には生まれるし」
そんなやりとりを聞きつつも、宏基の瞳に映る光景は次第にその輪郭を失っていく。転生が進んでいるようだ。白みがかったように薄れていく視界のなかを、ゆったりと人影が歩み寄ってくるのが見えた。
燐だった。
「宏基くん。会えてよかった」
燐はその姿のほとんどを青白い燐光に溶け込ませた宏基へと近づくと、そっと唇を寄せた。
もはやその感触すらわからなくなっていた。ただ、宏基は微笑むことしかできなかった。
そして、世界が暗転した。




