第37話知らないふり
「……」
沈黙が続いていた。
シオンは急かさない。
ただ静かに待っている。
玲花の手の中には、くしゃくしゃになった紙。
逃げ場なんて、もうなかった。
ゆっくりと手が動く。
差し出す。
「……これ」
小さな声だった。
シオンの視線が紙へ落ちる。
「……」
何も言わず、それを受け取る。
指先が、ほんの少しだけ触れた。
その瞬間、玲花の肩がわずかに強張る。
「……ありがとう」
シオンは柔らかく笑った。
まるで、何でもないことみたいに。
そのまま紙を開く。
静かに目を通していく。
何も言わない。
玲花は、ずっとその顔を見ていた。
反応を探すみたいに。
でも——変わらない。
表情は穏やかなままだった。
最後まで読み終えると、紙を閉じる。
少しだけ間が空く。
それから、ふっと笑った。
「……これ、信じるの?」
軽い声だった。
玲花の呼吸が止まる。
「だって」
シオンは紙を軽く振る。
「誰が書いたかもわからないし、証拠もないよね」
やわらかい口調。
否定できない正論。
玲花は言葉を失う。
「怖がらせるための、ただのいたずらかもしれない」
心配するみたいに続ける。
「玲花、こういうの苦手でしょ」
揺れる。
確かに、そうかもしれない。
でも。
黒い点。
壁に触れた感覚。
あれだけは、消えなかった。
シオンはもう一度だけ紙へ視線を落とす。
指先で文字をなぞるように。
そのとき、一瞬だけ目が鋭く細まった。
けれど、すぐにいつもの表情へ戻る。
「……変だね」
ぽつりと呟く。
「この家に、こんなの入るはずないのに」
優しい声だった。
でも、その言葉は妙に引っかかった。
玲花は何も言えない。
シオンは少しだけ黙り込む。
考えるみたいに目を伏せて、それから静かに口を開いた。
「……また来たんだね」
「……え」
思わず声が漏れる。
「前にもあったから。こういうの」
さらりと言う。
当たり前みたいに。
玲花の頭が追いつかない。
シオンは紙を軽く持ち上げた。
「玲花を不安にさせるためのものだよ」
穏やかに言う。
「気にしなくていい」
そのまま自然な動作で、手紙を折る。
慣れているみたいに。
玲花の胸がざわついた。
「……捨てとくね」
軽い声。
まるで価値なんてないみたいに。
「……待って」
気づけば、言葉が漏れていた。
シオンの手が止まる。
「……どうしたの?」
振り返る。
穏やかな顔。
「……それ」
言葉が続かない。
返して、とは言えない。
でも、手放したくなかった。
沈黙が落ちる。
「……玲花」
静かな声で名前を呼ばれる。
「怖いなら、見ないほうがいいよ」
優しく言う。
「余計に不安になるだけだから」
正しい言葉だった。
反論なんてできない。
それでも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
シオンはしばらく玲花を見つめ、それから小さく笑う。
「大丈夫」
いつもの声。
「俺がいるでしょ」
その一言に、玲花は頷くしかなかった。
「……うん」
小さな声。
「これは処理しておくね」
軽く振る。
手紙を。
玲花は何も言えない。
ただ見ていることしかできなかった。
その紙が、自分から離れていくのを。
シオンは背を向ける。
何事もなかったみたいに、ドアへ向かっていく。
静かに扉が閉まる。
その瞬間、玲花の口から小さく息が漏れた。
視線が壁へ向く。
あの隅。
何もないはずの場所。
でも——
さっきより、はっきりしている。
「……ある」
小さく呟く。
「……絶対に」
――第37話 終――




