第36話先にいる人
「……ある」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。
「……ここに」
壁の隅。
何もないはずの場所。
けれど、確かに違和感がある。
見えない何かが、そこだけ空気を歪めているみたいだった。
玲花はゆっくりと手を伸ばした。
今度こそ、触れるために。
指先が近づく。
ほんのあと少し。
心臓がうるさい。
怖い。
でも、確かめたかった。
触れようとした、その瞬間。
「やめたほうがいいよ」
背後から声が落ちた。
「……っ!!」
体が跳ねる。
勢いよく振り返ると、ドアの前にシオンが立っていた。
さっき、部屋を出ていったはずなのに。
静かに。
何事もなかったみたいな顔で。
「……なんで」
思わず声が漏れる。
「……まだいたの?」
確かに扉の閉まる音を聞いた。
足音だってした。
なのに。
シオンは少しだけ首を傾げた。
「何してたの?」
穏やかな声。
けれど、その視線は玲花の手元に向いていた。
そして、その先。
壁の隅。
玲花の呼吸が止まる。
「そこ」
シオンがぽつりと言う。
「気になる?」
優しい声だった。
責めるような響きはない。
なのに、逃げ場がなかった。
玲花は視線を逸らす。
「……別に」
苦しい言い訳だった。
シオンは静かに頷く。
「そっか」
それだけ言って、ゆっくりと近づいてくる。
一歩ずつ。
音もなく。
「……玲花」
名前を呼ばれる。
「触ろうとしてたよね」
事実だけを、静かに指摘される。
玲花の喉が詰まった。
否定できない。
シオンは責めなかった。
ただ、静かに距離を詰める。
「それ、触らないほうがいい」
やわらかな声。
本当に心配しているみたいな顔で。
「……なんで」
玲花は小さく聞き返した。
シオンは迷わず答える。
「危ないから」
即答だった。
その自然さが、逆に怖い。
「……何が?」
玲花の問いに、シオンは少しだけ目を細めた。
「玲花には関係ないこと」
穏やかな言葉。
でも、その響きははっきりと線を引いていた。
これ以上は踏み込むなと。
玲花の胸がざわつく。
シオンはそっと手を伸ばした。
玲花の手首に触れる。
ひやりとした指先。
「触らなくても、困らないでしょ?」
優しく引かれる。
壁から遠ざけるように。
玲花は抵抗できなかった。
「怖いことは、俺がどうにかする」
静かな声。
「玲花は知らなくていい」
その言葉は優しい。
優しいのに、どこか重かった。
玲花は思わず壁の隅を見る。
距離は離れたのに、違和感だけは消えない。
むしろ、さっきより強くなっている。
何かがある。
隠されている。
そんな確信だけが残る。
「……玲花」
再び名前を呼ばれる。
顔を上げると、シオンがじっとこちらを見ていた。
「さっきの」
少しだけ間を置く。
「紙」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
玲花の指先に力が入る。
シオンは穏やかなまま続けた。
「まだ持ってる?」
逃げ道を残しているようで、実際は残していない声。
玲花は答えられない。
シオンはさらに一歩近づく。
距離が近い。
逃げられない。
「見せて」
静かな声。
けれど、重かった。
玲花は手の中の紙を強く握る。
どうする。
渡す?
隠す?
視線が揺れる。
シオンは急かさなかった。
ただ、待っている。
静かに。
逃がさないまま。
――第36話 終――




