第33話優しい檻
夜の空気は静かだった。
「……大丈夫だよ」
さっきの言葉が、まだ耳に残っている。
シオンの手が、ゆっくりと離れる。
けれど、距離は変わらない。
近い。
逃げる余地がないくらいに。
「今日はもう、外には出なくていい」
やわらかい声だった。
命令じゃない。
ただ、当たり前のことを言うみたいに。
「……うん」
玲花は自然に頷いていた。
考えるより先に。
「冷えてる」
シオンがそう言って、そっと手を取る。
指先は少し冷たかった。
視線を向ければ、部屋の奥では暖炉の火が静かに揺れている。
ぱち、と小さな音。
その音を聞いていると、少しだけ安心した。
——はずなのに。
胸の奥は、まだ落ち着かない。
「座ろ」
軽く引かれるまま、ソファへ向かう。
拒めないまま腰を下ろすと、シオンもすぐ隣に座った。
距離は近いまま。
「ね」
少しだけ声が落ちる。
「今日は、誰かに会った?」
その瞬間、心臓が跳ねた。
元カレの顔が浮かぶ。
親友の言葉が重なる。
——普通じゃない。
「……別に」
玲花は視線を逸らしたまま答える。
「そっか」
シオンはあっさり引いた。
追及はしない。
けれど——
「何かあったら、言ってね」
やわらかい声。
逃げ道を残しているみたいなのに、なぜか逃げられない。
「……うん」
また、小さく頷く。
「玲花が怖い思いするの、嫌だから」
正しい言葉だった。
否定なんてできない。
「守るから」
その一言が、静かに落ちる。
暖炉の火はあたたかいのに、胸の奥だけが少し寒い。
「……ありがとう」
それでも、そう返してしまう。
シオンは満足そうに目を細めた。
「しばらくは、家でゆっくりしよ」
穏やかな提案。
でも、その言葉の中には、ほかの選択肢がなかった。
「外は、あまりいい空気じゃないから」
さらりと付け足される。
理由は曖昧なのに、否定できない。
「……うん」
また頷く。
「いい子」
ぽつりと落ちた声と一緒に、頭を撫でられる。
その感触に、少しだけ力が抜けた。
安心している自分に、気づいてしまう。
シオンの手が離れる。
けれど次の瞬間には、今度は手首に軽く触れていた。
逃がさないように。
強くはない。
でも、離れない。
「部屋、戻ろうか」
静かな声。
「……うん」
立ち上がる。
手は、そのままだった。
引かれるように廊下を歩く。
静かな空間に、足音だけが響いている。
窓の外は暗く、街の灯りも遠かった。
ふと、玲花は振り返る。
玄関。
重たい扉。
外へ続くはずの場所。
ほんの少しだけ、足が止まった。
「どうしたの?」
すぐに声がかかる。
振り向けば、シオンが変わらない表情でこちらを見ていた。
「……なんでもない」
慌てて答える。
「そっか」
それ以上は何も言わない。
ただ、もう一度だけ軽く手を引く。
玲花はそのまま歩き出した。
引かれるままに。
もう一度だけ、玄関を見る。
扉は閉じたままだった。
鍵の音なんて聞いていないはずなのに、なぜか開く気がしない。
「……いい」
小さく呟く。
「ここでいい」
自分に言い聞かせるみたいに。
視線を戻す。
前にはシオンの背中。
その先には、部屋の灯り。
玲花はもう、振り返らなかった。
――第33話 終――




