第29話踏み込む
静まり返った部屋。
玲花はソファに座ったまま、
ぼんやりと時間を過ごしていた。
さっきの違和感は、
もうほとんど消えている。
「……」
考えようとしても、
うまく思い出せない。
そんなとき——
「……玲花」
声。
すぐ近く。
「……っ!?」
顔を上げる。
そこにいたのは——
元カレだった。
「……なんで」
息が詰まる。
ドアの音なんて、聞こえなかった。
「……また来た」
低い声。
前よりも、迷いがない。
一歩、踏み込んでくる。
「話すまで帰らない」
はっきりとした意思。
「帰って」
反射的に言う。
でも、声が弱い。
「無理」
即答だった。
迷いがない。
「……お前、このままでいいのか」
さらに距離が縮まる。
逃げ場がない。
「ここ、おかしいだろ」
言葉が刺さる。
「気づいてるはずだ」
「……」
何も言えない。
さっきの違和感が、
一瞬だけ蘇る。
「ほらな」
元カレが一歩近づく。
「思い出しかけてる」
手が伸びる。
「来い」
強くはない。
でも、逃がさない距離。
「やめて」
玲花が一歩下がる。
でも、すぐに距離を詰められる。
「俺はお前を——」
言葉が途切れる。
代わりに、
手を取られる。
「……っ」
振り払えない。
力じゃない。
迷いで、動けない。
「ここから出るぞ」
その一言。
強く、引く。
「……」
足が動きかける。
ほんの一瞬だけ。
外に出るイメージが浮かぶ。
「……外」
小さく呟く。
その瞬間——
胸がざわつく。
怖い。
理由もなく。
「……っ」
足が止まる。
「どうした」
元カレが焦る。
「行こう」
もう一度引く。
でも——
玲花は動かなかった。
「……無理」
小さく、首を振る。
「ここでいい」
その言葉。
はっきりしていた。
「……は?」
元カレの表情が変わる。
「なんでだよ」
「……わかんない」
正直な答え。
「でも」
少しだけ、息を整える。
「ここが落ち着く」
それが全部だった。
元カレが、言葉を失う。
理解できないという顔。
「……洗脳されてんのかよ」
絞り出すような声。
「……違う」
すぐに否定する。
でも、
理由は説明できない。
沈黙。
重い空気。
「……っ」
元カレが歯を食いしばる。
「絶対、連れ出す」
低く言う。
「こんなのおかしい」
その言葉だけ残して、
手を離す。
一歩、下がる。
視線は外さない。
でも、
これ以上は踏み込めない。
「……また来る」
それだけ言って、
背を向けた。
ドアが閉まる。
音が響く。
静寂。
玲花はその場に立ったまま、
動けなかった。
「……なんで」
小さく呟く。
さっき、
少しだけ外に行こうと思った。
なのに、
怖くなった。
理由はわからない。
「……」
ゆっくりと座る。
考えるのをやめる。
その方が楽だった。
――第29話 終――




