第21話境界線の内側
夜の屋敷は、不気味なくらい静かだった。
風が、木々をわずかに揺らす。
その暗闇の中を、一つの影が進んでいく。
元恋人だった。
足音を殺しながら、塀の近くまで近づく。
「……ここか」
低く呟く。
昼間に見た時よりも、ずっと異様に見えた。
高い塀。
無駄のない構造。
外から中を見せない作り。
「ただの屋敷じゃないな」
小さく息を吐く。
周囲を確認する。
人の気配はない。
けれど——
「……見られてる感じがする」
直感だった。
確証はない。
でも、身体が警告している。
それでも、止まらない。
元恋人は、一歩踏み出した。
塀に手をかける。
その瞬間。
屋敷の中で、シオンがゆっくり顔を上げた。
「……来た」
小さな呟き。
机の上のモニター。
その端に、一瞬だけ映った影。
確信はない。
でも、十分だった。
「やっぱり」
口元が、わずかに歪む。
シオンは静かに立ち上がった。
「いいよ」
穏やかな声。
「どこまで来れるか、見てあげる」
外。
元恋人は塀を乗り越える。
音を立てず、地面へ着地する。
「……っ」
一瞬だけ息を止める。
何も起きない。
静寂。
「……」
慎重に歩き出す。
庭は広かった。
灯りは少ない。
影だけが濃い。
「玲花……」
小さく名前を呼ぶ。
届くはずもない声。
そのとき。
カチ、と。
小さな音が鳴った。
「……?」
足を止める。
周囲を見る。
何もない。
けれど、違和感だけが残る。
屋敷の中。
シオンは、モニターを見つめていた。
複数並ぶ映像。
その一つに、元恋人の姿。
「そこ、感知範囲だよ」
小さく笑う。
指先が、静かに画面を操作する。
「でも、まだ大丈夫」
今すぐ止めることもできる。
捕まえることも。
それでも、しない。
「玲花を迎えに来たつもり?」
その声は穏やかで。
少しだけ冷たい。
外。
元恋人は、さらに奥へ進む。
屋敷の窓が見えた。
一つだけ灯る明かり。
「……あそこか」
直感だった。
自然と足が向く。
その瞬間。
背後で、風が揺れた。
「……!」
反射的に振り返る。
誰もいない。
けれど。
「……くそ」
確信する。
「完全に見られてるな」
歯を食いしばる。
それでも、目は逸らさない。
屋敷を見る。
「……もう少しだけ」
一歩、踏み出す。
その頃。
玲花は何も知らず、眠っていた。
静かな部屋。
規則正しい寝息。
そのすぐ外で。
見えない攻防が、静かに始まっていた。
――第21話 終――




