第六十五話 次元を超えた竜が放つ力
荒野が果てしなく広がる空間。
その静寂を――
黒い靄が、突如として切り裂いた。
渦を巻くそれは、まるで“何か”を押し出すかのように膨れ上がり――次の瞬間、弾け飛ぶ。
「グガァァァァァァッ!!」
大地を震わせる咆哮。
現れたのは、漆黒の巨躯。
十メートルを優に超える体躯に、広げれば空を覆い尽くすほどの翼。光を呑み込むような鱗が、不気味な光沢を放っていた。
「な、なななななな何なのあれぇぇぇっ!!」
美沙の喉から、これまでにない悲鳴が弾ける。
その隣で、悠真も目を見開いたまま動けない。
「ど、ドラゴン……!? 嘘だろ……っ!」
理解が追いつかない。
現実が、脳の許容量を軽々と踏み越えていく。
――だが。
そんな二人とは対照的に、異世界組は静かにその存在を見据えていた。
「……あれが」
ぽつりと、ルシアが呟く。
「あれが、先程厨房にいた男、竜王ヴァイゼンの“本来の姿”じゃ」
「厨房に……いた男……? 本来って……え?」
美沙の思考が一瞬止まる。
そして、次の瞬間。
「えええええっ!? あれ、厨房にいた大きいおじさんなの!?」
叫びが、もう一度荒野に響いた。
あまりにも現実離れした事実に、頭がついていかない。
「た、確かに……普通の人じゃないとは思ってたけど……」
悠真も引きつった笑みを浮かべながら、目の前の黒竜から視線を外せない。
理解するには、あまりにも規格外すぎた。
「まさか……こんな形で竜王が現れるなんて……」
セリシアの声には、わずかな緊張が滲んでいた。
脳裏に蘇るのは――かつての死闘。
竜王ヴァイゼン。
勇者だった頃、幾度となく刃を交えた宿敵。
中でも、“本来の姿”を解放したヴァイゼンは別格。力だけなら、ルシアをも上回る。
そんな規格外の存在が、今この世界に現れている。
セリシアは驚愕を押し殺しながら、視線を逸らさずに構えを崩さない。
「……竜王が纏う、この魔力……一体……」
シェリアが戸惑いを隠せず呟く。
黒竜の周囲には、なおも黒い靄が絡みつき、まるで生きているかのように蠢いていた。
その内側から、赤い稲光が断続的に弾ける。
「……尋常ではないの」
ルシアが低く言い放つ。
その声音には、わずかな警戒と――興味。
「竜王って……こんなに力、あったっけ?」
リアの疑問は、場の違和感をそのまま言葉にしたものだった。
「……ううん」
セリシアが即座に否定する。
「あの時は……ここまでじゃなかった」
かつての記憶と、今目の前にある現実。
その差は、あまりにも大きい。
「……なら、この力は何だ」
グレイが静かに問いを落とすが、視線は一瞬たりとも黒竜から外さない。
重く張り詰めた空気の中、確信に近いものを掴んだようにルシアが口を開いた。
「……恐らく」
ルシアの紅い瞳が、黒い靄を射抜く。
「次空間の影響じゃろうな」
その一言が、この場の脅威を、さらに一段引き上げた。
「次空間……?」
悠真の口から、戸惑い混じりの声が漏れる。
「ああ。恐らく――」
ルシアは視線を黒竜から外さぬまま、静かに続けた。
「あやつは、えにし屋の厨房に生じていた“次元のトンネル”を通って、この地へ現れたのじゃろう」
居酒屋えにし屋の厨房に現れた、世界を繋ぐ歪み。
本来、それは“通れるもの”ではない。
時間、事象、重力――
あらゆる法則が混在し、絶えず揺らぎ続ける不安定な空間。
生身で踏み入れれば、存在そのものが保てない。
たとえ――竜であろうと。
「普通ならば、術式で空間を安定化させながら固定し、干渉を防ぐ障壁を張り続けねば通過は不可能じゃ」
ルシアの声が、わずかに低くなる。
「じゃが、あやつは違う」
一瞬の間。
「あの竜は……己の膨大な魔力で、次元そのものをねじ伏せて通ってきおった」
その言葉に、空気が重く沈む。
「む、無茶苦茶すぎるだろ……」
悠真が思わず呟く。
「出来る者など、ほぼおらん芸当じゃ。……じゃが、その代償は大きい」
ルシアの視線が、黒い靄へと向けられる。
「あの様子……次元の干渉を受け、力が暴走しておる。
あやつの身体に“何か”が、流れ込んでおるな」
「ええ……」
静かに頷いたのはフェリシアーナだった。
その表情に、いつもの軽さはない。
「その為か……魔力が溢れ、暴走し彼の身体そのものを蝕んでいます」
「グ……ガッ……!」
苦しげな唸りが、荒野に重く響いた。
黒竜の巨体がわずかに軋む。
その全身を覆う禍々しい靄が、まるで暴れるように激しく揺らいでいた。
「よ、よく分かんないけど……」
美沙が小さく声を漏らす。
その声は怯えを含みながらも、どこか迷いを帯びていた。
「あのドラゴン……苦しそう、だよ……?」
竜王――そう呼ばれている存在。
だが、美沙にも悠真にも、その言葉の本当の意味は分からない。
それがどれほどの存在なのか、どれほど恐れられているのか――実感としては何一つ。
あるのは、地球で語られる“ドラゴン”のイメージだけだ。
そしてそれは決まって、人に牙を剥く存在だった。
だからこそ――危険な相手だという理解はある。
それでも。
「……」
脳裏に過るのは、つい先程見た“人の姿”。
えにし屋の厨房で膝をついていた、あの姿。
それがあるせいで、目の前の黒竜を――
ただの“敵”として割り切ることが、どうしても出来なかった。
「そ、それで……どうするんだ? 一応、ルシアの部下なんだろ?」
悠真の問いに、ルシアはわずかに目を細める。
「そうじゃな……まずは、あの暴走を――」
言いかけた、その時だった。
「待って!」
鋭い声が、会話を断ち切る。
セリシアの視線は、黒竜へと釘付けになっていた。
「竜王の様子が……おかしいわ!」
その言葉に、全員の意識が一点へと集まる。
黒竜を覆っていた禍々しい靄が――
ゆっくりと、しかし確実に。
一点へと、収束し始めていた。
向かう先は――口腔。
「……力を、集めているようですね」
玉藻が静かに呟く。
魔力の知識はなくとも、“流れ”そのものは感じ取れる。
「ね、ねぇ……あれ……」
美沙の声が震える。
「嫌な予感しかしないんだけど……!」
「来るぞ!」
グレイの一喝が、空気を裂いた。
次の瞬間。
黒竜の顎が、ゆっくりと開く。
内側で渦巻くのは――圧縮された“破壊”。
「あれを止めるのは……間に合わんかっ!」
ルシアが即座に魔法障壁を展開しようとする。
「ルシア、私も――!」
セリシアの手に、光が収束する。
聖剣が具現化し、結界の構築に入る――
だが。
「いえ」
その一言が、二人の動きを止めた。
一歩、前へ。
風もなく、ただ静かに踏み出す影。
フェリシアーナだった。
「ここは――私が防ぎます」
その声音に、揺らぎはない。
直後――
「グガァァァァァァッ‼︎」
咆哮。
そして放たれる、黒き奔流。
――黒旋竜砲。
圧縮された力が解き放たれ、渦を巻きながら一直線に大地を薙ぐ。
空間が軋み、空気が悲鳴を上げる。
それはもはや“魔法”ではない。
ただの――暴力。
フェリシアーナは、静かに手を翳した。
「――聖域結界」
展開された光が、迫り来る黒を迎え撃つ。
――衝突。
次の瞬間、世界が揺れた。
光は一瞬で呑み込まれ、凄まじい衝撃が全てを押し潰す。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!!」
「きゃああああああっ!!」
悠真と美沙の悲鳴が重なる。
大地が裂けるように震え、衝撃波が身体を叩きつける。
立っていられない。
二人はその場に膝をつき、必死に耐えるしかなかった。
轟音。
閃光。
そして――
すべてを呑み込む、破壊の嵐。
やがて、その暴威が、ゆっくりと静まっていく。
残されたのは――
静寂だけだった。




