第六十四話 居酒屋に訪れし異変
微睡む意識の底でヴァイゼンは、なおも流転する空間を進み続けていた。
(……魔王様の……力……確かに……感じる……あと、少し……)
途切れかける意識を、無理やり繋ぎ止める。
今ここで倒れれば、すべてが終わると理解しているからだ。
歪む視界。遠のく感覚。
それでもなお、彼は進む事を止めない。
(今……直ぐに……参りますぞ……魔王様……!)
その執念だけが、彼を前へと押し出していた。
──
開店前の「えにし屋」。
店内は、いつにも増して“惨状”と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
カウンター席では、怒りに満ちた声を上げるシェリアとリア。
「ルシアさ〜ん? 貴女、自分が何言っているのか分かってるんですかぁ?」
「私だって……好きでこうなったんじゃないもん……!」
二人からの文句を、どこ吹く風といった様子で受け流しルシアが肩をすくめる。
一方で――
「姉様! 取り敢えずズボンは穿いて下さい!」
「え〜? もう穿かなくてもいいじゃないですかぁ」
フェリシアーナに詰め寄る玉藻と、まったく悪びれない本人。
「フェリシアーナ様! いい加減穿いて下さい!!」
「……また、このパターン……」
慌てて悠真の両目を覆い隠すセリシア。
最早、諦めが入っている悠真。
まさに、収拾不能。だがそれが、この店の日常でもある。
「……ほんと、このお店って飽きないよねぇ」
苦笑いを浮かべながら、美沙はその光景を眺める。
「開店前だというのに、この有様とはな……」
グレイは額に手を当て、深くため息を吐いた。
だが、その声にはどこか諦めと――わずかな安堵も混じっている。
騒がしさこそ、この場所の証が、それが崩れていないことに、気づいているからだ。
その時だった。
不意にピタリと、空気が止まる。
ルシアとセリシア。そして、グレイ、シェリア、リアも。
フェリシアーナや玉藻までもが、同時に動きを止めた。
まるで、何か“異質な気配”を捉えたかのように。
ざわついていた店内に、静寂が落ちる。
「え、みんな……どうしたの……?」
あまりにも不自然な静止。先ほどまでの喧騒が嘘のように消え失せた空気に、美沙は思わず声を震わせた。
「……セリシア……?」
視界を塞がれたままの悠真もまた、肌で“異常”を感じ取っていた。
言葉にできない圧のようなものが、確かにそこにある。
次の瞬間。
ガシャァァンッ!!
店の奥――厨房から、けたたましい破砕音が響き渡る。
「悠真はここにいてっ!」
「美沙、君はここで待て!」
即座に飛ぶ指示。
張り詰めた声に、ただ事ではないと分かる。
「えっ……! ちょ、グレイさん!?」
制止の声も虚しく、異世界組――そしてフェリシアーナや玉藻までもが、一斉に厨房へと駆け込んでいく。
取り残された二人の、はずだった。
「っ……!」
足が、勝手に動いていた。
理屈ではない。反射的に、悠真は厨房へと向かっていた。そして、美沙もまた釣られる様に悠真の後を追う。
(こ、この感じ……っ……)
胸の奥をざわつかせる、この“気配”。
(セリシアやルシアが来た時と……同じだ……!)
確信に近い直感が、背筋を走る。
二人は、ほぼ同時に厨房へと踏み込んだ。
――その場の空気は、完全に変わっていた。
重く、息が詰まるような圧迫感が、空間そのものを支配している。
誰一人、軽々しく声を発せずにいた。
そして、目の前の“存在”に意識を集中させていた。
厨房の中央、そこに“それ”はいた。
大柄な男。
だが、“人間”ではない。
膝をつき、荒く息を吐いているその男の頭には、禍々しく湾曲した二本の角。
纏う衣は、この世界のものではない異質な意匠。
肩には、戦場を思わせる重厚な甲冑。
そして何より、その全身から滲み出る、黒い靄。
揺らぎ、蠢き、まるで生きているかのように男に絡みついている。
「……なに、あれ……」
思わず、美沙の口から掠れた声が漏れる。
悠真もまた、言葉を失っていた。
ただ一つ、はっきりと分かることがある。
“あれ”は、普通じゃない。
異世界組の面々が、これほどまでに警戒する理由が、嫌でも理解できた。
異世界組は、反射的にその男を取り囲むように距離を取っていた。
誰もが警戒を解かない中、ただ一人。
ルシアだけが、静かに一歩、前へと踏み出す。
「……お、お主……ヴァイゼンか!? 何故……何故ここにおるのじゃ……!」
その声には、明らかな動揺が滲んでいた。
「ルシア……知ってるのか?」
状況を呑み込めないまま、悠真が問いかける。
「……竜王ヴァイゼン」
答えたのは、セリシアだった。
その眼差しは鋭く、目の前の存在を見極めるように細められている。
「竜王……?」
悠真の呟きに、ルシアが短く答える。
「――我の、部下じゃ」
振り返ることなく、目の前の男から視線を逸らさずに見つめる。
そして膝をつき、苦しげに息を吐くヴァイゼンへと、鋭く言い放つ。
「答えよ、ヴァイゼン!何故、お主がこの世界に――」
その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
「ま、魔王……様……!」
掠れた声が、空気を震わせる。
「ぐ……あ……ああぁぁぁぁぁッ……!!」
次の瞬間、ヴァイゼンの全身が、激しく痙攣した。
まるで内側から何かに引き裂かれるかのように、苦悶に歪む表情。
その異変に、ルシアの目が見開かれる。
「……っ、この気配……まさか――!」
ざわり、と。
ヴァイゼンの体にまとわりついていた黒い靄が、意思を持つかのように蠢いた。
いや――違う。
それは“纏っていた”のではない。
内側から、溢れ出している。
ドロリ、と粘つくように滲み出たそれは、床を這い、空間を侵食していく。
空気が軋み、温度が、急激に下がる。
「いかんッ!! 全員、下がれ――!」
ルシアが叫ぶ。
だが一瞬、遅かった。黒い靄が、爆ぜるように膨れ上がる。
視界が、塗り潰され、光が消えた次の瞬間、その場は、完全な暗闇に閉ざされた。
──
「……う……ここは……?」
鈍く重い感覚の中で、悠真はゆっくりと目を開けた。
「悠真! 大丈夫!?」
すぐ傍で、切迫した声。
振り向けば、心配そうに顔を覗き込むセリシアの姿があった。
「せ、セリシア……?」
ぼやけた視界のまま、悠真は周囲へと目を向ける。
「ここ……どこだ……?」
そこに広がっていたのは、果てしない荒野。
地平線の彼方まで続く、乾いた大地。
空は不気味な赤紫に染まり、現実とは思えない異様な光景が広がっている。
風すら重く、どこか淀んでいて、言いようのない不安が、じわりと胸の奥に広がった。
「……どうやら、全員無事のようじゃな」
その声に、悠真は振り返る。
「ル、ルシア……」
そこに立っていたのは確かにルシア。
だが、その纏う空気は――いつもと明らかに違っていた。
軽口も余裕もない。
ただ、張り詰めた緊張だけがそこにある。
「……ん、うぅ……」
小さな呻き声。
「美沙!」
グレイがすぐに反応し、その声の方へと駆け寄る。
「大丈夫か」
「グレイ……さん……? って、え……?」
目を覚ました美沙は、自分の状況に気づいて固まった。
――グレイに、抱きかかえられている。
一瞬で顔が熱くなる。
「た、立てるか?」
「ぁ……う、うん……!」
慌てて距離を取り、平静を装う美沙。
だが、早鐘のような鼓動までは隠しきれない。
軽く息を整えながら、改めて周囲を見渡す。
「……何、ここ……?」
当然の疑問。悠真と同じく、理解が追いつかない。
その問いに答えたのは――
「ここは、我が作り出した空間じゃ」
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「作った……って……」
理解の範疇を超えた言葉に、二人は言葉を失った。
その時――
「もうっ、びっくりしたんだけど! いきなり何なのよこれー!?」
やや怒気を含んだ声と共に、リアがこちらへ歩いてくる。
「ルシアさん……彼が地球に現れた理由は……?」
続いて、落ち着いた声音で問いかけるシェリア。
真剣な表情で、ルシアの隣へと歩み寄る。
「……いや。我にも分からん……」
ルシアはゆっくりと首を振る。
「何故、あやつがこの世界に現れたのか……」
その声音には、珍しく迷いが滲んでいた。
「どうやら、正気を失っているようですね」
落ち着いた分析を口にしたのはフェリシアーナ。今は、きちんとズボンを履いている。
その後ろで、
「……やっと履いてくれた……」
そう言って玉藻が小さくため息をついた。
「確かに……あの様子、普通じゃなかったわ……」
セリシアが静かに続ける。
「ルシア。何か、心当たりはあるの?」
その問いに、ルシアは目を細める。
「……いくつか、思い当たる節はある……じゃが――」
そこで言葉を切った。そして、ゆっくりと視線を上げる。
「今はそれよりも……来るぞ」
ルシアの視線の先、荒野の彼方。
誰も何も見えてはいない。
だが、その場にいる全員が、同時に“何か”を感じ取っていた。
セリシアも。
グレイも。
シェリアも。
リアも。
フェリシアーナも。
玉藻も。
一斉に、同じ方向へと視線を向ける。
張り詰める空気。
静寂の中――
確実に、“それ”は近づいていた。




