第六十三話 その居酒屋、カオスにつき
「ほほぉ〜♪やっぱりこれは美味いのぉ〜♪」
まだ暖簾すら出ていない、開店前のえにし屋。
静かな店内に、不釣り合いなほど上機嫌な声が響いていた。
その主は――カウンターの隅、いつもの席に陣取るルシア。
片手には徳利と猪口。
もう片方の手で、こんがりと焼けた秋刀魚を器用につつきながら、完全に“出来上がった顔”で晩酌を楽しんでいる。
「もぉー、またこんなに早くから飲んでるー……」
店内の床を掃きながら、美沙がじとっとした視線を向けた。
開店準備の真っ最中だというのに、目の前の光景はあまりにも自由すぎる。
「本当にルシアさんって、だらしないよねー……」
呆れ半分、諦め半分。
そんなため息混じりの声にも、ルシアはどこ吹く風だ。
「何を言うか。これは“仕込みの味見”じゃ」
悪びれもせず、くいっと猪口を傾けるルシア。
――どう見ても、ただの晩酌である。
「悠真さん、少しルシアさんを甘やかしすぎじゃない?」
ぴしっと向けられたその矛先は、カウンターの奥――仕込みをしている悠真へと向けられる。
「ええ〜? そうかなー……?」
包丁を動かす手を止め、きょとんとした顔で振り返る悠真。
どうやら本気で自覚はないらしい。
「そうだってー!」
間髪入れず、美沙は言い切った。
日本酒片手に秋刀魚を堪能している居候の元魔王。
しかもその料理は、店主自らがせっせと用意したものだ。
――どう見ても、甘やかしている。
「いやぁ……だってさ」
ぽりぽりと頬をかきながら、悠真は苦笑する。
「いっつも、あんなに美味しそうに食べてくれるからねぇ……」
ちらりと視線を向ければ、そこには幸せそうに頬を緩めながら酒を煽るルシアの姿。
「……」
美沙は一瞬だけ言葉を失い――
「だからって限度があるでしょ!」
やっぱり、ツッコミはやめなかった。
「でも、悠真の気持ちは分かるわ」
カウンターの内側。
手際よく野菜の下拵えを進めながら、セリシアがふっと微笑んだ。
「ルシアって、本当に美味しそうに食べたり飲んだりするから……つい、与えたくなっちゃうのよね」
くすっと苦笑を漏らしながらの一言。
実際、その言葉は決して大げさではない。
ルシアはとにかく“食”に貪欲だ。特に酒に合う料理となれば、その反応は顕著で――
頬を緩め、目を細め、心から幸せそうに味わう。
あの顔を見せられて、料理人が何も感じないはずがない。
そして、それは店にとっても無関係ではなかった。
ルシアの豪快な飲みっぷりと食べっぷりに釣られ、同じものを注文する客も少なくない。
さらには、隣に座った客へ酒を勧め、そのまま一緒に飲み交わす――
そんな距離の近さが、自然と店の賑わいとリピーターを生んでいた。
いわばルシアは、自由気ままでありながら――
えにし屋にとっての“看板娘”でもあるのだ。
「そうは言ってもねぇ……」
そんな事情を理解しつつも、美沙は納得しきれない様子でため息をつき――
カウンターの隅で気持ちよさそうに酒をあおるルシアへと、再びじとっとした視線を向けた。
「こんな人が、本当に魔王だったのー?」
思わず漏れた、美沙の率直すぎる疑問。
セリシアやルシアたち――異世界組の事情は、一通り聞いている。
勇者と魔王、戦いの歴史、そしてこの世界へ来た経緯も。
けれど、それはあくまで“話”として知っているだけだ。
実際に異世界を見たわけでもなければ、
そこでの彼女たちの姿を、この目で確かめたこともない。
時折、武勇伝のように語られる過去。
それらはどれも現実離れしていて――
美沙にとっては、どこか“やけにリアルな作り話”の延長のようにも感じられていた。
……とはいえ。
その力の片鱗を、目の前で見せられている以上、否定はできない。
常識では説明のつかない出来事を、何度も目にしてきたのだから。
だからこそ、信じてはいる。
――信じては、いるのだが。
「くはぁ〜っ♪ やっぱり日本酒はたまらんのぉ〜♪」
カウンターの隅で、すっかり出来上がった様子のルシアが、上機嫌に杯をあおる。
「……いや、ほんとに?」
じとっとした視線を向けながら、美沙は小さく呟いた。
目の前にいるのは――
世界を恐怖に陥れたはずの“元・魔王”。
……どう見ても、ただの飲んだくれである。
それも、かなり上機嫌なタイプの。
魔王としての姿を一度も見たことがない分、なおさら実感が湧かない。
(……やっぱり、ちょっと信じられないんだけど)
そんな疑念が、胸の奥で小さくくすぶっていた。
「美沙が疑う気持ちも分かるなー。向こうでのルシアを知っている私も、最初は信じられなかったわけだしさー。ほんと、魔王がこんなのだって知ってたら、戦争なんて起きなかったんじゃないー?」
美沙の言葉に同意するように、テーブル席から声を上げたのはリアだった。
その向かいで、湯呑みに口をつけていたシェリアが、静かにそれを下ろす。
「そんな簡単な話ではありませんよ?」
やんわりと訂正しつつも、その表情はどこか柔らかい。
「でも、確かに美沙さんにとっては想像しづらいかもしれませんが……私たちの世界における魔王――ルシアさんは、人族から“歴代最強”とまで言われた存在でした」
「えー!? 本当にー?」
シェリアの言葉を聞いても、やはり実感が湧かない美沙。
「魔王ルシア……《緋眼の魔女》――そう呼ばれていました」
「緋眼の魔女……ねぇ……」
美沙は、今も上機嫌で晩酌を続けているルシアへと、疑いの眼差しを向ける。
とてもではないが、世界を震え上がらせた存在には見えない。
かつてルシアは、“千の魔法を操る魔王”として君臨していた。
歴代最強とも謳われ、その在位期間は群を抜いて長い。
それだけの年月――幾人もの勇者が挑み、そして倒れたという証でもあった。
「千の魔法かぁ……。そう言われても、ルシアさんが魔法使うところって、あんまり見たことないんだよねぇ。せいぜい夏祭りの時に、壊れたビル直してたくらいで……」
ふと思い出したように顔を上げる。
「あ、そういえば悠真さんは見たことあるんだよね? ルシアさんが戦ってるところ」
「え? あー……まぁ、あるにはあるけど……」
「ねぇねぇ、どんなだったの!?」
身を乗り出してくる美沙に、悠真は少し考え込むように視線を泳がせる。
「俺が見たのは……禍尾と戦ってた時だな。ただ、少し離れた場所からだったから、ルシアが直接魔法を使ってるところは、はっきりとは見てないかな」
「えー! 何それー!」
期待していた分、落胆の声が大きい。
「いや、でも……離れててもすごかったよ。火柱が立ち上がってたし……ああ、雷も走ってたな」
「ふふ、雷はグレイね」
横から、セリシアがさらりと補足する。
「え、そうなの?」
「なーんだ……結局よく分かんないじゃん……」
肩を落とす美沙に、シェリアはくすりと柔らかく笑った。
「ですが――」
穏やかな声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「リアさん言う通り、本来のルシアさんを知っていたなら……結果が、違う形になっていた可能性は……あったかもしれませんね」
その声音は静かで、けれど確かな重みを帯びていた。
リアとシェリア――二人は揃って、カウンターの隅へと視線を向ける。
そこには。
「くはぁ〜……♪」
すっかり出来上がっているルシアの姿。
「……」
「……」
無言で、ほんのり呆れた視線。
「ったく……何なんじゃお主らは」
その視線に気づいたルシアが、面倒くさそうに眉をひそめる。
「というか、シェリアもリアも……まだおったのか。さっさと向こうに帰らんといかんのではないか?」
どこか“早く帰ってほしい”と言わんばかりの物言い。
「まぁ、そうなんだけどさー……」
リアは頬杖をつきながら、ちらりとシェリアを見る。
「ねぇシェリア、やっぱり少し食べてから――」
「ダメです」
即答だった。
「私もそうしたいのは山々なんですが……あまり、あちらを空けるわけにはいきません」
申し訳なさそうに眉を下げるシェリア。
「ただでさえ仕事が溜まりやすいのに、こちらに二日も滞在してしまいましたから。戻って早く処理しないと……」
「ええー! こっちで夜ご飯くらい、いいじゃんー!」
リアは露骨に不満そうに声を上げるが、
「ダメなものはダメです」
やはり、首は縦に振られなかった。
実は二人とも、昨日からこちらの世界に来ている。
理由は――女子会。
異世界ではまず経験できないその催しに参加するため、二人はこの世界へとやって来たのだ。
そして、そのまま一泊。
宿泊先は美沙の家。
ちなみに、この企画の主催者は――あの駄女神、フェリシアーナである。
結果として、約二日間。
本来の世界を留守にすることになった二人。
当然、そのツケは――
「……はぁ」
シェリアの小さなため息に、しっかりと現れていた。
「さぁ、あちらの服に着替えて帰りますよ」
「えー! やだー! 食べて帰りたいー!」
ついに、リアが駄々をこね始めた。
「うるさいのぉ。おい、痔聖女。さっさとそのチンチクリンエルフを連れて帰らんか」
ぴくり。
シェリアのこめかみが、わずかに引きつる。
「……ルシアさん?」
にこり、と笑っている。
だが、目が笑っていない。
「今、何とおっしゃいました?」
「チ、チンチクリンって……! む、胸か!? 胸のこと言ってるのか!?」
リアもまた、別方向で火がついた。
「ちょっ、二人とも落ち着いて!」
悠真が慌てて仲裁に入る――が。
その時。
二階から、ぱたぱたと軽い足音が響いてきた。
「悠真さーん、お腹空きましたぁ」
「……あ、フェリシア――って、ちょっと!?」
振り向いた悠真の目が、見開かれる。
階段を降りてきたのは、フェリシアーナ。
ぶかぶかの白いセーター一枚。
――そして。
「……?」
首をかしげる彼女の下半身には、ズボンが“ない”。
結果。
ピンクの下着が、堂々と露出していた。
「姉様ぁ! だから下を履いてくださいって言ってるじゃないですか!」
慌てて追いかけてきたのは玉藻。
「ええ〜、もういいじゃないですかぁ……」
「よくありません!」
ぴしゃりと一喝。
そして、次の瞬間。
「悠真は見ちゃダメ!」
「え、ちょ、セリシアっ!?」
セリシアが後ろから悠真の目を、両手でばっちり覆った。
完全防御である。
店内は――
・キレかけ聖女
・怒り狂うエルフ
・半裸の駄女神
・それを止める狐神
・視界を奪われる店主
――カオスだった。
「……」
その光景を、少し離れた場所から眺める美沙。
もはやツッコミすら放棄し、ただ呆れたようにため息をつく。
その時。
ガラガラ、と店の引き戸が開いた。
「悠真、自治会長に自治会費を――」
入ってきたのはグレイ。
そして、店内を一望し――固まる。
「……一体、何があったんだ……?」
静まり返る数秒。
「さぁ?」
美沙は、苦笑いでそう答えるしかなかった。




