第六十二話 魔王の跡を辿る者達
異世界ラグノス――魔王城、玉座の間。
かつて王が座していたその場所に、ひとりの男が立っていた。
二メートルを優に超える巨躯。黒髪は後ろへ撫でつけられ、額からは二本の角が突き出ている。もみあげから口元へと繋がる髭は豪放にして緻密に整えられ、その風貌には粗野さと知性が同居していた。
身に纏うのは濃灰を基調とした軍装。赤いラインが走り、左肩には白銀の肩当て。隙のない手入れが施されたそれは、彼が単なる戦士ではなく“統べる者”であることを物語っている。
男は玉座を見つめたまま、低く唸った。
「……うむ」
無意識に髭へと手をやる。
静寂の中、思考は一つの結論へと収束していく。
「やはり――」
その時だった。
「ヴァイゼン様! こちらにおられましたか!」
声に、男はゆっくりと振り返る。
ヴァイゼン・アズカルド。
魔王軍総司令官にして、魔王の右腕と謳われた存在。その力は主である魔王ルシアに匹敵するとさえ言われ、人族からも畏怖の対象となっている。
だが――その主は、今はここにいない。
魔王ルシア失踪。
以降、ヴァイゼンは主の行方を追っていた。
そして、視線の先にいたのは一人の兵士。
人ではない。鱗に覆われた肉体を持つ亜人――リザードマンであった。
「ああ……ここが最も怪しいからな」
ヴァイゼンは玉座に背を向けたまま、低く答えた。
かつて――人族連合軍と魔族軍が激突し、勇者と魔王が最後の戦いに臨んだ地。
あの日を境に、すべてが途絶えた。
主である魔王ルシアの消息は不明。
同時に、人族側の象徴である勇者の行方もまた掴めていない。
両陣営の“頂点”が、揃って消失したのだ。
魔族は総力を挙げて捜索を行った。
人族へ潜り込ませた諜報員からも情報を集めた。
――だが、何一つ掴めなかった。
やがて世界は、奇妙な静寂に包まれる。
戦争は起きない。
小競り合いすらない。
血で血を洗ってきたはずの両者が、まるで示し合わせたかのように剣を収めていた。
異世界ラグノスは、不気味な均衡の上に成り立っていた。
だがここ最近、人族側に動きがあった。
内偵からの報告。
人族が極秘裏に“異界”へ人員を送り込んだという情報。
そして――
その異界にて、勇者と魔王の存在が確認された。
さらに追い打ちをかけるように、人族はそれを公表する。
勇者が魔王を追い詰め、決着の時が近い――と。
その報せは、瞬く間に魔族全土へも広がった。
動揺とざわめき。
そして、抑えきれぬ焦燥。
玉座の間に、重い沈黙が落ちていた。
(早く手を打たねばな……)
ヴァイゼンの脳裏に、先の軍議の光景が蘇る。
広間に集っていたのは、魔族の中枢を担う者たち。
将軍、参謀、そして国政を預かる大臣――その姿は種族ごとに異なり、まさに“異形の群れ”であった。
議場は荒れていた。
「今すぐ異界へ渡るべきだ! 軍を動かし、魔王様を奪還する!」
「いや、人族が動き出した今こそ好機! 本土を叩くべきだ!」
怒号にも似た意見が飛び交う。
焦りと恐怖が、判断を鈍らせていた。
その時――
「静粛に」
一言で、空気が凍りついた。
発言したのは一人の魔族。
漆黒の羽を纏う鳥の魔族。左目には片眼鏡。
亜人の姿を取ってはいるが、その本質は黒鳥族と呼ばれる大型種。
宰相、リンオール。
魔王不在の今、この国の実質的な統治者である。
「魔王様の最終命令は明確です」
その声は静かでありながら、逆らうことを許さない響きを帯びていた。
「――“新たな命令があるまで動くな。民を守れ”」
広間が沈黙に包まれる。
だが、その静寂を破る者がいた。
「し、しかしリンオール殿……!」
青い鱗を持つリザードマンが一歩前に出る。
「このままでは、魔王様が……! それに人族にも動きがあります……! 我らが動かねば――」
言葉は最後まで続かなかった。
「……聞こえませんでしたか?」
リンオールが、わずかに視線を向ける。
それだけで、場の温度が下がった。
「魔王様は、“動くな”と仰ったのです」
重圧。
目に見えぬ力が、広間全体を押し潰す。
反論は許されない。
いや――許されるはずがない。
それは単なる宰相の言葉ではない。
“魔王の意志”そのものだった。
「……申し訳、ありません。リンオール殿。出過ぎた真似を……」
リザードマンは深く頭を下げた。視線は床に落ち、わずかに肩が震えている。
「……ふぅ」
小さく息を吐く音。
「いいでしょう。今回は見逃します」
静かに告げられる。
「ですが――次はありません」
その一言に、空気が凍りついた。
鋭い視線が、リザードマンを射抜く。
「……寛大なるお言葉、感謝いたします……」
もはや顔を上げることすらできない。
圧倒的な“格”が、その場にいる全員へと刻み込まれた。
「では、本日の議題は以上です」
リンオールは何事もなかったかのように言葉を継ぐ。
「警備の強化を継続。独断行動は厳禁。――くれぐれも、人族に手を出そうなどとは考えないこと」
一拍置く。
「……誰の命令であるかを、忘れぬように」
会議は解散となった。
ざわめきはない。だが、沈黙の中に感情は渦巻いている。
納得している者。
従うしかないと割り切る者。
そして――明らかな不満を押し殺す者。
それらすべてを、リンオールはただ静かに見送った。
やがて、広間に残ったのは二人だけとなる。
「……ヴァイゼン殿」
呼びかけに、巨躯の男が応じる。
「進捗はいかがですか?」
「……芳しくない。決定打は何もない」
短く、だが偽りのない答え。
「そうですか」
リンオールは頷く。
「では、引き続き捜索を。この件は――秘匿を徹底してください」
視線がわずかに細められる。
「これを機に、勝手に動こうとする者が必ず出ます」
「ああ……理解している」
一瞬の沈黙。
やがてヴァイゼンが口を開く。
「だが――いいのか?」
「何がです?」
「魔王様の命令は、“動くな”だ」
まっすぐな問い。
リンオールはわずかに口元を緩めた。
「ええ、その通りです」
そして、迷いなく続ける。
「ですが本質は“民を守れ”にあります」
「……」
「我々が動き、再び戦火が広がれば民が危険に晒される。ゆえに“動くな”なのです」
淡々とした論理。
だがそこには、強い意志があった。
「そして――」
一歩、踏み出す。
「魔王様を見つけることは、結果として民を守ることに繋がる」
「……都合のいい解釈だな」
ヴァイゼンの低い声。
「ええ」
リンオールは即座に肯定した。
「それくらいでなければ――この国の宰相は務まりません」
わずかに誇りを滲ませる。
その姿を――
ヴァイゼンは、今も鮮明に思い出していた。
(あの日から、世界は変わった……)
静寂に覆われたラグノス。
均衡は、いつ崩れてもおかしくない。
(何が起きても不思議ではない……)
ゆえに。
(――一刻も早く、見つけねばならん)
主の姿を。
ヴァイゼンは、魔王ルシアの痕跡を追っていた。
もし魔王が異界へ渡ったのなら――必ず“痕跡”が残るはずだ。
その痕跡さえ辿れれば、魔王のもとへ至る道も見えてくる。
そう考えたリンオールは、ヴァイゼンに極秘裏で探索を命じていた。
――そして今。
ヴァイゼンは少数の精鋭を率い、かつての魔王城へと足を踏み入れていた。
玉座の間。
そこは、魔王が最後まで戦い抜いた場所。
(この場所ならば……何か残っていても不思議ではない)
ゆっくりと歩を進めながら、ヴァイゼンは視線を巡らせる。
(それに――妙だな)
床。柱。壁。
(最近、誰かがここに入った形跡がある)
微かな違和感。だが、それは確信に近かった。
その時だった。
「ヴァイゼン様……」
背後から、リザードマンの兵が恐る恐る声をかける。
「この場所は一度、我々が調査しております……その際には、特に異常は――」
「……見落としているな」
静かに、しかし断言するヴァイゼン。
兵は息を呑む。
「これを見てみよ」
そう言うと、ヴァイゼンは玉座へ向かって右拳を構えた。
魔力が収束する。
――空気が、軋む。
「ふんっ!!」
放たれた拳は、何もない空間を打ち抜いた――はずだった。
だが次の瞬間。
ぱりぃん――!
乾いた破砕音が、空中から響いた。
「なっ……!?」
兵士の目の前で、“何もなかったはずの空間”にひびが走る。
まるで、透明なガラスが砕けるように。
ヴァイゼンはゆっくりと拳を引いた。
そこには――確かに“歪み”が存在していた。
「隠蔽魔法か……」
低く呟く。
「しかも、相当な高位魔術だ。気付けという方が酷だろうな」
「も、申し訳ありません……我々では全く……」
項垂れる兵士。
だがヴァイゼンは首を横に振る。
「構わん。これを見抜ける者など……そう多くはない」
そして――
再び拳を握る。
「だが――」
魔力がさらに膨れ上がる。
「俺には、見える」
――轟音。
二撃目が、空間そのものを叩き割った。
ばきん、と決定的な音が響く。
隠蔽は完全に砕け散り、その奥に隠されていたものが姿を現す。
赤く、妖しく輝く紋様。
巨大な魔法陣。
「こ、これは……!」
兵士が息を呑む。
「魔王様の……!」
「……転移魔法陣だな」
ヴァイゼンはゆっくりと手をかざし、その構造を読み取る。
脈動する魔力。
残滓――だが、まだ“繋がり”は消えていない。
「では、この先に……魔王様が……!?」
抑えきれぬ興奮が、兵士の声に滲む。
ヴァイゼンは、わずかに目を細めた。
「……可能性は高い」
その言葉は静かだったが、確信に満ちていた。
「……で、ですが……何故、魔王様ご自身が隠蔽魔法などを……?」
兵士は戸惑いを隠せず、言葉を詰まらせる。
考えようとしても、答えに辿り着けない。
ヴァイゼンはわずかに目を細め、首を横に振った。
「いや……違うな」
低く、断じる声。
「この魔法陣は確かに魔王様のものだ。だが――先ほど砕いた隠蔽魔法は別物だ」
「……別物、ですか?」
「……あの魔力からは、“聖力”を感じた」
その一言で、空気が凍りついた。
「せ、聖力……!?」
兵士の声が裏返る。
魔王は聖なる力を持たない。
それはこの世界の理であり、絶対の常識。
つまり――
「では……まさか……人族が……ここに……?」
震える声で絞り出す兵士。
だが、理解は追いつかない。
「し、しかし……何故です!? 何故、人族が……魔王様の魔法陣を隠す必要が……!」
混乱は深まるばかりだった。
ヴァイゼンはしばし沈黙する。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……それは儂にも分からん」
だが――
「仕掛けた“相手”には、見当がつく」
その言葉に、兵士の背筋が伸びる。
「お、お心当たりが……?」
ヴァイゼンの視線が、赤い魔法陣へと落ちる。
「恐らく――勇者の仲間だった女だ」
ヴァイゼンは、ゆっくりと口を開いた。
「……シェリア」
その名が、玉座の間に静かに落ちる。
「な……っ!? あ、あの女ですか……!?」
兵士の顔色が変わる。
それは単なる驚きではない。
“理解してしまった”者の反応だった。
「……これほどの聖力を込めた隠蔽魔法など、あの女以外には考えられん」
淡々と告げるヴァイゼン。
だがその言葉には、確かな重みがあった。
「それに――」
ふと、言葉が止まる。
ヴァイゼンの表情が、わずかに強張った。
「……っ」
その変化を見逃さず、兵士の喉が鳴る。
「そ、それに……何でしょうか……?」
恐る恐る問う声。
ヴァイゼンはゆっくりと、砕けた空間の奥――赤い魔法陣へと視線を落とした。
そして、静かに言い放つ。
「……残っている」
「え……?」
「この場に――あの女の“痕跡”がな」
「……痕跡……!?」
兵士が息を呑む。
ヴァイゼンは、静かに思考を巡らせていた。
勇者の仲間――シェリア。
この転移魔法陣を使ったのが彼女であることは、ほぼ間違いない。
だが――
(何故、隠蔽した……?)
答えは出ない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
(……あの女が関わっている以上、目的は一つ)
ヴァイゼンの瞳が鋭く細まる。
(魔王様を――追った)
その結論に至った瞬間、思考がさらに加速する。
(だが……仮に追いついたとして――)
そこまで考えた時だった。
脳裏に、ある可能性がよぎる。
(まさか……)
ヴァイゼンの表情が、険しく強張った。
そして――決断する。
「……だとすれば」
低く呟いた次の瞬間。
「兵よ!」
「はっ!!」
張り詰めた声に、兵士が即座に姿勢を正す。
「この場より、直ちに撤退せよ! そして、リンオール殿へ――今見た全てを報告するのだ!」
「り、了解であります!!」
迷いのない命令。
兵士は力強く応じる。
だが――
ヴァイゼンはすでに、次の行動へと移っていた。
赤い魔法陣へと歩み寄り、ゆっくりと手をかざす。
「……ヴァイゼン様?」
兵士が戸惑いの声を上げる。
「一体、何をなさるおつもりで……?」
ヴァイゼンは答えた。
迷いなど、一切なかった。
「儂は――この先へ行く」
「なっ……!?」
兵士の目が見開かれる。
「お、お待ちを……!!」
思わず制止の声が飛ぶ。
だが――
「事は一刻を争う」
その一言で、空気が凍りついた。
「でしたら、せめて我らも――!」
「無理だ」
即座に、切り捨てる。
「この転移は不安定だ。通れても一人か二人が限界……」
一歩、魔法陣へ踏み出す。
「それに――」
その背中が、さらに重みを帯びる。
「この先にいるのは……勇者、あるいはその仲間達だ」
「っ……!」
兵士の喉が詰まる。
それが意味するものは明白だった。
「お前達が来れば――無駄に命を散らすだけだ」
振り返らずに言い切る。
「ならば……ここは儂が行く」
その声には、揺るぎない覚悟があった。
「しかし……!」
なおも食い下がろうとする兵士。
だがヴァイゼンは、それを遮るように言い放つ。
「後は――任せたぞ」
短い言葉。
だが、それは“信頼”そのものだった。
「……っ、はっ!!」
兵士は歯を食いしばり、敬礼する。
それを背に――
ヴァイゼンは魔法陣へと足を踏み入れた。
赤い光が、全身を包み込む。
(魔王様――)
意識が、闇に溶けていく。
(今、参ります)
その決意だけを残して――
ヴァイゼンの姿は、静かに消えた。




