第九十六話 人食い本の謎
『バビュロニア旅行記』第一章より抜粋
『(中略)・・・こうして私は、食人鬼から逃げ惑っているうちに青い森に迷い込んでしまったのだ。幸いなことに、森の中には食べられそうな木の実があちこちに生えていたし、もっとも危惧していた水不足は意外な形で解消できた。たまたまその辺の木にもたれかかると、えらく湿っていることに気付いた。表面をナイフで切ってみると、ドバドバと水が出た。
しばらくの間はこの森に身を隠そうか。執念深い食人鬼のことだ、森から出たらまた私を追いかけてくるだろう。不思議なことに、奴らはこの青い森に足を踏み入れようとしない。食人鬼が天敵とするような獰猛な魔獣でもいたらどうしようかと思ったが、それらしい脅威は感じられない。食料も水もあるのに、生き物は虫一匹見当たらない。まるでこの森だけが別の世界にあるような感覚だった。
森の中を探検して間もなく、大きな丸太の上に座って本を読んでいる子どもに会った。少女の名はアリス。本が好きで、屈託のない笑顔が特徴的な子だ。
数週間ぶりに人間に会った私は興奮を抑えられず、アリスへ矢継ぎ早に質問をした。ここで何をしているのか。他に人はいないのか。どこに住んでいるのか。
アリスはにこにこと笑顔を向けるだけで、何も答えてはくれなかった。教えてくれたのは名前だけだ。他のことは秘密にしているというより、答えを知らない……いや、答え方を知らないような反応だった。
私が質問を諦めると、アリスは持っていた本に目を落とした。熱心に読んでいるので、それは何の本かとダメもとで尋ねた。するとアリスはぱっと顔を上げ、私の元に駆け寄ると一冊の白い本を手渡してきた。タイトルもイラストも何もない。ページをめくってみても、何も書かれていない白いページが続くだけの、ひどくつまらない本だ。あの子は何が面白くてこんなものを見ているのだろう。
アリスに本を返そうとした時、アリスは本の使い道を教えてくれた。この本は読むのではなく、描くためのものなのだと知った。
ああ、そうか。
食人鬼も魔獣もこの森に近付かない理由。
ようやくわかった。ここは本の中の世界なのだ。
そして、この時の出来事こそが、私を大いなる旅へと導いていくことになる。』
パタン。
本を閉じる音が好きだ。物語の内容がどんなにしょうもないものでも、この音が聞けただけでも手に取った価値はあったように感じる。
アティスは眼鏡を取り、目薬を差した。ずいぶん長い間、読書に没頭していた。
バビュロニア旅行記もまたずいぶん古い本だ。ところどころ文字がかすれて読めないし、ページが破れているものまである。骨董品といってもいい代物だ。本来なら手に取るのも憚られる。
しかし、本の中の世界について書かれている第一章は非常に興味深い。何も書かれていない白い本。おそらくは、マーブルが持っていた空白の本と同じものだろう。
マーブルもといリベル=プリエルはマーブル物語を読んだはず。
記憶が戻るか、戻らないか。ここは賭けだが、イッチたちの試合を観戦していた様子を鑑みるに、可能性は充分あるはずだ。もし不発だったとしても、他にも記憶を揺さぶる手はいくつかある。
イッチたちと引き合わせることが最適解のように思えたが、あの二人は消えた。文字通り、その場から消失した。後で控室を調べたが、空間移動の魔法の類ではないことははっきりした。僕が読んだ時は何も起こらなかったが、どうやら「人食い本」の噂は本当だったらしい。
本を開いて確認しようにも、自分までもが本に閉じ込められたら一巻の終わりだ。バビュロニア旅行記で描かれた「本の中の世界」では一切の魔法が使えない。それどころか、書き手に運命のすべてを握られている状態だ。本に取り込まれれば、いち登場人物としての振る舞いしか行えない。
もしもあの二人が本当に本の中にいるのなら、それをなんとかできるのはプリエルだけだ。ここは託すしかない。
ドアをノックする音が聞こえた。どうぞ、とアティスは来訪者を迎え入れた。
「どうもこんばんは。ロードヴィ先生」
魔法専攻魔法薬学兼生活魔法教授は、一秒の狂いもなく時間ぴったりに現れた。
ロードヴィは部屋に入るなり、アティスに尋ねた。
「データは取れましたか?」
「もちろんです。全員の魔力値を測定しました」
アティスは眼鏡を外して机に置くと、レンズから白色の光が伸び、室内の壁に映像を映した。




