第九十四話 接触
床から天井に向かって伸びている本の柱が何本もそびえ立つ部屋の中央で、ペイン=ドロゥは浅い眠りについていた。
滅多に座らない黒塗りの椅子に浅く腰を掛け、片膝を抱えたままの姿勢だ。その血筋ゆえに幼少期から命を狙われる身にあった彼は、身体を横にして寝るという経験がなかった。いつ襲撃されるとも知れない日常はペインの細胞に常在戦場を染みこませた。
魔法使いにとって睡眠は食事以上に重要なものだ。適度な睡眠の習慣がある者とそうでない者とでは、コストパフォーマンスに大きな差が出る。充分な睡眠時間を確保できる者は、より少ない魔力で精度の高い魔法を使うことができる。魔法使いの最高峰である賢者でさえ、個人差はあれど一定程度の睡眠時間を確保している。良質な睡眠は魔力の運用のみならず、魔力の回復量や速度にも影響を及ぼす。
少年時代のペインはその睡眠の質の悪さから、わずかな魔力で発現する魔法にも膨大な魔力を費やさねばならず、ひとたび戦闘になればものの数分でガス欠状態に陥っていた。
しかし戦わなければ生き残れない。時には無様に逃げ惑い、時には泣き叫び命乞いをし、またある時は奴隷として身をやつしながら、ペインは生き延びてきた。慢性的な魔力不足を抱えていたペインは魔力の枯渇と補充を幾度となく繰り返し、魔力の絶対量を徐々に増やしていった。成人する頃にはすでに並の魔法使いが束になっても及ばないほどの絶大な魔力を得たが、ペインの成長はそれだけに留まらず、かつては不可能であった魔力の繊細なコントロールをも習得した。
賢者をも凌ぐ実力を持つ男ペイン=ドロゥをもってしても、自身の血統に深く刻まれた呪いを破ることはできない。運命の本による呪いは、運命の本でしか解けないからだ。ドロゥ一族は何世代にも渡って運命の本とその情報を探し求めた。その在り処はおろか、存在さえも不確かなものの手がかりを得ることは困難を極めただろう。
果てのない旅路で、ペインは一人の高名な予言者と出会う。予言者が告げたのは二つ。運命の本を持つ者と出会う方法と、呪いを断ち切る方法。いずれも信じがたい内容だったが、残された時間の少ないペインは予言を信じる以外に道はなかった。
その四年後、予言は的中した。運命の本とその書き手であるプリエルの娘と巡り合うことができた。ドロゥ一族が生涯をかけて追い求めていた三種の神器とも言うべき至宝の二つが同時に見つかったのだ。
必要なものはあと一つ。アカシャの筆だ。
資格を持つ者が魔法の筆を使うことで、本に書いた内容が顕現する。ただしそれだけでは運命の本の真の力を引き出すことはできない。世界の理を超えるほどの
リデル=プリエルの記憶を完全に取り戻せば、その筆の行方が判明する。
かちゃり、とドアが静かに開く。その拍子に積み上がった本が崩れ、本の柱が崩れ落ちようとした時、何冊もの本はそれぞれが床に落ちる前に空中で静止した。
「プリエルか」
ペインは浅い眠りから覚めるなり呟いた。
「はい。すみません、ペイン様。起こしてしまいましたか」
「いや。すまない、本を片づける前についうたたねをしてしまった」
ペインが椅子から腰を浮かせると、空中で静止していた本はそれぞれの持ち場に戻っていった。
「用件を聞こう」
「はい。魔法技能大会がすべて終了しました。優勝したのは……やめました。ペイン様ならどうせご存知なのでしょう?」
ふ、とペインはかすかに口元を綻ばせた。
「優勝したのはDブロックのスティッキーかな」
「正解です。ほら、知っているじゃないですか」
「単なる予測だ。勝敗など些細な要因でいくらでも結末は変わるさ」
「またそんなこと言っちゃって。ペイン様の言うことはいつも当たるじゃないですか」
「他人事ではない。この程度の予測は君もできるようになるはずだ」
えっ、とプリエルは声を上げた。
「私には無理ですよ。ペイン様はこの学校にいる人たち全員の魔力を把握しているんですよね。私なんて自分の魔力も感知できていませんもん」
「それは君の記憶がまだ完全に蘇っていないからだ。記憶を取り戻せば魔力の扱い方も思い出すはずだ……リデル=プリエル」
「は、はい」
「まだリデルという名前には慣れないようだな。以前にも説明した通り、君がプリエルの娘リデル=プリエルであることは間違いない」
「はい……前にも話しましたが、誰かにプリエルと呼ばれたことはあります。でも……リデルという名前を聞くと、なぜか落ち着かない気持ちになるのです」
「そうか。もしかすると、その辺りの事情がマーブルを名乗っていた理由と繋がるのかもしれないな。いずれにせよ、今しばらくはプリエルと呼ばせてもらうよ」
「すみません。まだ思い出せないことが多くて。自分が嫌になります」
「君は自分で自覚している以上に記憶を取り戻しつつある。君に本名の話を最初にした時、プリエルと呼ばれたことがあると思いますと自信無さげに言っていた。しかし先ほどはありますと断言した。根拠はそれだけではないが、我々は確実に前進している。何も悲観することはない」
プリエルはにんまりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ペイン様って何を考えているのかわからない時が多いですけど、優しいですよね」
「……そうか」
「そろそろ夕飯の時間ですし、食卓へ行きませんか?」
「ああ。少し机を片付けたら向かうよ。先に行ってくれ」
プリエルは一礼すると退室した。
ペインは軽くため息を吐くと、机に腰をかけた。
「存外、人間を見る目は乏しいな。私が優しいはずがないだろうが」
独り言とは珍しい。
「ところで……あまり良い趣味とは言えないな。人の寝顔を盗み見るばかりか、プライベートな会話まで盗み聞きとは」
……これは驚いた。
この男もまた私の存在を知覚しているようだ。しかも、かなりはっきりと。
賢者クラスの実力者でも私の存在は……いや。
そうか。呪いが進行している影響で、私の存在を知覚できるようになったか。
「まあいい。せいぜい高みの見物を決め込んでいろ。運命は貴様の思う通りにはならない」
なんという面白い男だ。この私に啖呵を切るとは。
――おっと。こちらはどうやら……事態が進展しそうだ。
ここで、リデル=プリエルに視点をずらしてみよう。
「プリエルさん」
「――あら、アティスくん。どうしましたか?」
「父さんはまだ書斎にいるよね。夕飯前にごめん、ほんの少しだけ時間をくれないかな」
「はあ。それは構いませんけど」
「マーブル物語を見つけたんだ」




