第八十二話 想望の本
アティスは医務室を出ると迷いのない足取りで廊下を進んだ。イッチとデンは慌てて追う。
「お、おい、いきなり行ったってペインには会えないんだろ?どこに行くんだよ」
デンが短いマントをはためかせながら訊ねた。
「そうだよ。一般の生徒は理事長室のあるフロアにさえ行けない」とアティスは少し早口で答えた。「さっきも言ったけど、僕たちが会えるのはクロキ副校長止まりだよ。でも、まずは正攻法で行く。クロキに頼んでみるよ。息子が会いたがっていると伝えてくれってね」
「息子が父親に会うのにいちいち許可がいるのか」
イッチは不満そうに呟いた。その双眸の奥には二度と会えないかもしれない両親を浮かばせているのかもしれない。
「普通は頼まないらしいね。あいにく僕が生まれたのは普通の家庭じゃないから」
「あ……余計なことを言っちゃったかな」
「気にしなくていいよ。それより、クロキに頼むのは僕一人でいい。どうせ頼んだところですぐに会えるわけじゃない。会う日時や場所を指定されるだけだよ。僕がクロキと話している間、二人はここで準備しているといい」
二股に分かれた廊下の中央でアティスが足を止め、通路右側の方へ手のひらを向けた。その先にはガラスの扉があり、扉の向こうでは何十人もの生徒たちが食事や歓談を楽しんでいるようだった。
「特にイッチさんはまだ体力が全快していないようだし、ここでしっかり食事を摂った方がいいよ。大会が始まる前に万全の態勢を整えるべきだよ。じゃあ、また後で迎えにいくよ」
アティスはそう言うとイッチたちとは逆の道を進んだ。
「……大会?」
また初耳だぞ、と言わんばかりにイッチはデンに視線を向けた。
「使い魔の話は後にしてくれってお前が言ったんだろ。とりあえず、あいつの言う通り腹ごしらえは必要だ。入るぞ」
デンは後ろ足で身体を搔くと、食堂の方へ向かった。
「うおお……!」
ずらりと並ぶ色鮮やかな料理と食欲を刺激する香ばしい匂いに思わず感嘆の念が漏れた。
食堂はビュッフェ形式だ。イッチはトレイと皿を取ると、手当たり次第に目の前の料理を盛り付けていく。
「あ!いけねえ、そういや金が……」
イッチはトレイを片手に、もう片方の手でポケットを叩くが硬貨や紙幣の類は何もなかった。
「落ち着け。ここはタダだ」
「タダ?こんなたくさん料理があるのに?」
「入学した時に説明されたんだが、ここの料理は一般市場には出回らないような低品質の素材で作られているんだと。だからここでメシを食うのは、金に困っている奴。つまり、必然的にランクが低い奴だ。この学校は生徒の成績でランク付けされていて、上位ランカーは自分の芸術作品や魔法で稼いでいる奴がたくさん……って、おい!」
イッチはすでに大量に盛り付けた料理を頬張っていた。
「うまっ!低品質でも構わないさ。タダで腹いっぱい食えるならラッキーだろ。いや、ほんとにうまいぞ!デンも食べてみろよ」
「ったく、のんきな奴だ」
デンはイッチの向かいの席に飛び乗った。
「食いながら聞け。お前が寝ている間にも色々事態は進展したんだ。そもそもお前を使い魔に登録したのは、そうでもしないと試験に落ちたお前はこの学校にいられないからだ。でも、実はそれ以外にも理由がある。今から十日後に行われる魔法技能大会で勝ち抜くためだ」
「試験の次は大会か。その大会に出ればマーブルに会えるってこと?」
イッチは両頬を膨らませて咀嚼しながら訊ねた。
「たぶんな。他の生徒が話しているのを聞いたんだが、大会に優勝した生徒は理事長室のある最上階フロアに行き来できるようになるらしい。だから何だって話だが」
「そりゃまたずいぶん都合の良い話だな。何かの罠じゃないのか」
「聞いた時はおれもそう思ったが、冷静に考えてみるとおれたちを罠にはめる意味がない。周りにいるのはおれたちより強い奴ばかりなんだから、おれたちが気に食わないなら力ずくで叩き出せばいい」
「ああ、そりゃそうだな」
「目覚めたばかりで悪いがな、イッチ。おれと一緒にその大会に出てくれ」
「いいよ」
「軽いな!即答かよ」
「俺から頼みたいくらいだ。情けないことに不合格になっちゃったけど消化不良なんだ。言い訳するつもりで言ってるわけじゃない。負けは負けだけど、俺はまだ全然全力を出せていないからな。リベンジだ」
「その意気や良し、だね」
アティスがイッチの背後に立っていた。
「うおっ、びっくりした!」
「ペインに会う日取りのことだけど、十一日後……魔法技能大会の翌日、理事長室で会うことになった。友達を連れてくると言ったら、こちらも婚約者を紹介するってさ」
「……デン。こいつぁ、俺たちのことバレてますねえ」
「ああ。正面対決ってわけだが、今のおれたちが勝てる相手じゃない」
うん、とイッチは頷いた。
「確かにあいつと戦って勝つのは無理だ。でも、俺には切り札がある」
「神隠しか。コントロールできるようになったのか?」
「いや、まだ全部を理解できたわけじゃないけど、俺の考えが正しけりゃ、今回の神隠しを成功させるにはマーブルが鍵なんだ。でも、そのマーブルがあの調子じゃあな……」
「二人はプリエル……マーブルって人の仲間なんでしょ」とアティスが口を挟んだ。
「そしてマーブルをこの学校から連れ出したい」
「そろそろ聞かせてくれよ、アティス君」
イッチはそう言うと空席の椅子を引いた。
「ペインの息子って言ってたけど、君は事情通すぎる。話の流れでわかると思うけど、俺たちは君の父さんの邪魔をしようとしているんだ。なんで俺たちにそう肩入れしてくれるんだ?」
「僕はその椅子にはまだ座れないよ」
アティスが眼鏡の位置を指で直しながら低い声で言った。
「どの道、大会で優勝しなければ最上階フロアには行けないんだ。大会に勝ち進んで、あなたたちで間違いないと思えたら話すよ。それに……」
アティスは真上を見上げる。
「なんとなく、見られている感じがするんだ。妖魔や精霊の類じゃない、別のものに」
ほう。この私、運命の本の存在を感じ取っているとは。この若さで大したものだ。
私は今、数百年ぶりに高揚感を覚えている。
犬房一志。デン。
ペイン。アティス。
そして『プリエル』。
この街での物語は中盤に差し掛かろうとしている。この物語が結末を迎えた時、誰の運命を大きく変えることになるのだろうか。空白の本でもある私には未だその結末を見ることができない。
この物語がページに刻まれる日を、他ならぬ私がもっとも楽しみにしているのだ。
そのためにも、あの馬鹿娘には早く目を覚ましてもらいたいものだ。やれやれ。




