第七十九話 遭遇
二次試験の前にデンとこんな会話をしていた。
「抜け出す?」と、デンは目を丸くして尋ねた。
俺は人差し指を口に当てたまま、シブラに聞こえないように小声で続けた。
「いざって時はな。俺たちの目的はあくまでもマーブルを連れ戻すことだ。本気でこの学校の生徒になって勉強しようってわけじゃないだろう?」
「おれだってこんな学校に入りたくないが、ここはデタラメに広いんだ、短時間で探し出すのは簡単じゃないぞ。マーブルの匂いはかすかにするが出所がわからないんだ。それに一番の問題は、この学校には強い魔力を持った奴らがごろごろいるってことだ」
その点は同意だ。魔法を使えない凡庸な人間である俺でさえ感じている。それほどの強い気配がここには漂っている。特に……。
俺とデンは一瞬最上階を見上げ、すぐに目線を落とした。一番でかい気配の持ち主がそこにいることを互いに察知していた。
「そうだ。特にやばいのは上にいる奴だ」
「こいつが例の……?」ペインって奴か。シブラに悟られないよう固有名詞は避けた。
「たぶんな。間違っても戦って勝てる相手じゃない」
確かにな、と俺は無言で頷いた。
「マーブルは自分でこの学校に入っていって、何がどうなったのか、いきなりペインの婚約者になったんだ。それがマーブルの意思なのか、誰かに操られているのかがおれにはわからない。無理やり連れ出そうにも周りは強敵揃いだ」
「なるほど……」
学校に忍び込んでマーブルに会いに行けばいいと、俺はシンプルに考えていた。なんなら、試験を放棄して強行突破できないか、とさえ思っていたが、最上階の存在に気付いてその気は完全に失せた。マーブルを奪い返そうとして教授陣と戦闘なんてことになれば、俺とデンだけで突破することは確かに無理だ。
もし、マーブルがここを出たいと思っていれば、俺の切り札である神隠しが発動する可能性が出てくる。相手がどれほど強敵で、どれほど脱出不可能な堅牢を構えようとも、神隠しの前ではまるで無意味だ。発動すればの話だが。
逆にマーブルが自分の意思でここに留まっている場合は、おそらく神隠しは発動しない。デンの話だと、無理やり攫われたわけではなさそうだから、学校側が敵と言えるかどうかまだ分からない状況だ。今のところ、特に害意は感じない。マーブルにとってこの学校が相当魅力的で、長期滞在したいというなら気の済むまでいればいいと思う。結婚うんぬんは容認できないけど。
最悪なのは、マーブルがペインに操られていて、ペインを倒さなければマーブルを解放できないパターンだ。どうしても戦わざるを得ないとすれば、俺はもう一つの切り札を使うしかない。でもそれは、下手を打てば味方を危険に晒しかねない、正真正銘いちかばちかの最終手段だ。そんなものに頼らないといけない戦いは避けたいものだ。
とは言っても、まだペインが敵と決まったわけじゃない。まずはマーブルの意思を確認することが最優先だ。もしマーブルが出たがっているとすれば、誰にも気づかれないうちに全員でこの学校を脱出することがベストだ。
今、俺が幽霊のように誰にも気付かれずこの学校を探索できるのは千載一遇のチャンスだ。床も天井も関係なくすり抜けられるばかりか、重力も無視して縦横無尽に飛び回ることもできる。まさに夢の中のように自由に動き回れる。すごい解放感だ。
おっと、浮かれてばかりもいられない。何しろ俺は夢の中だ。本体を叩き起こされたら、すぐにあの試験室に戻されちまうだろう。あまり時間はない。すぐにマーブルのいる部屋を突き止めよう。
まずは最上階からだ。
水中から水面へと上がるような姿勢で、俺は最上階を目指した。ひたすら上を目指して天井をすり抜け続けると、磁石のように反発する天井に行き当たった。手を伸ばして天井に触れようとしても触れられない。見えないガラス板にでも仕切られているかのようだった。
ここが最上階なのだろうか。建物の外には出られないのか?
宙に浮いたまま辺りを見回すと、そこはインテリアの一つも置いていない白い部屋だった。やたら天井の高い、ただっ広い空間だ。床に近付きながら少し移動していくと、絵の具や絵が散乱していた。床をすり抜けないように意識して着地し、絵を拾い上げる。
これは……何の絵だろう。幾何学模様のようなデザインじみた絵もあれば、リアルな風景画もある。この街の奇妙な造形の家屋を一枚絵に何百も書き連ねている。
これらがマーブルの絵じゃないことは一目瞭然だった。これじゃただの絵がうまい人だ。マーブルの絵はもっと下手だけど味のある絵だ。一度見たら忘れられないインパクトもある。この絵には何も感じられない。
絵を床に置いた時、はら、ともう一枚、別の絵が背後に落ちてきた。
どこから降ってきたんだ?
辺りを見回しているうちに、更に別の絵が風に乗って飛んできた。絵がやってきた方向へ進むと、そこには宙に浮かびながら絵を描いているマーブルがいた。
「マーブル!」
と、大きな声を出してみたところで。俺の声はマーブルには二つの意味で届かない。
単純に天井が高いし、俺、幽体離脱みたいな状態だし。まあ聞こえないよな。
でも……変だ。あの絵を描いたのはマーブルだったのか。マーブルらしくない絵だけど、この学校での勉強の成果なのだろうか。あんな風に没頭して描いている様子はマーブルそのものだけど……。
遠目のせいか。何だか……雰囲気が違う。虹色の髪が棚引いている……少し伸びたみたいだ。
「目覚ましい成長だ」
突然聞こえた声の方向を振り返る。
が、その瞬間には、男は俺の視界を通り過ぎていた。
「降りてごらん。プリエル」
「はい。ペイン様」
プリエルと呼ばれたマーブルは、くるくると宙で回転しながら、音もなく着地した。
間近で見る彼女は、間違いなくマーブルだった。髪がやはり少し伸びているが、それ以外は俺の知っているマーブルだ。
プリエル。それが君の本当の名前なのか?
「少し話そう。ホワイエに行っていてくれ」
「はい。分かりました」
一瞬。
俺のただの願望かもしれない、と思うほどの一瞬だったが、マーブルがこちらを一瞥した……気がする。
「マーブル。聞こえてないだろうけど……いや、どうせ聞こえてないなら……」
マーブルはそのまま部屋を出口の方へ向かって行く。
「マーブル!イッチとデンが迎えに来た!また後でこの部屋来るからな!」
パタン、とドアの閉じる音がした。
「さて」
男が口を開く。その手には、明らかに百枚以上もの絵が集められていた。ほんの数秒前まで一枚の絵しか持っていなかったはず。
「君も戻りたまえ」
「――はっ!」
心臓を鷲掴みにされたような感覚と共に、俺は目覚めた。
夢のひと時が終わった。




