第七十四話 理事長室にて
シブラは部屋の前に立つとネクタイをきつく縛った。白いヒゲを指で整え、背筋を伸ばし、軽く咳払いをした後で意を決したようにドアをノックした。
入れ、と室内から威厳のある声が響いた。シブラがドアノブに手を触れようとした時、ドアは音もなく開いた。
失礼いたします、と恐縮しながら入室する。理事長室はさながら蔵書庫のようだ。部屋の両サイドに並んでいる書棚には各国から集めた画集や美術史、魔術書や魔法史がびっしりと敷き詰められている。棚には収まりきらないのか、あちこちの床にも無造作に本が積んでいる。元々置かれていた応接用の机や椅子は部屋の隅に折りたたまれている。
「この部屋もそろそろ狭くなってきたのでは?よろしければゼイルーさんに部屋の増築を依頼しましょうか。もちろん明るいうちに」
芸術専攻建築コース准教授ゼイルーは、部屋の明度によって人格が変わる変人である。一定量の光源のある場所ではゼイルー本来の気弱で素直な人格だが、暗い場所では凶悪で粗暴な人格(生徒命名:裏ゼイルー)が現れる。裏ゼイルーは基本的にペイン以外の人間の言うことは聞かず、何ものに対してもケンカ腰だ。このことはこの学校に在籍する者にとって周知の事実であるが、それが闇の者による負の遺産であることはペイン・シブラを含む一部の教職員しか知らない。
「無用だ。近く、処分する本が何冊かある」
ペイン=ドロゥはシブラから背を向けたまま、最奥の書棚から本を取り出した。
「それよりも用件は何かね」
「本日の受験生の資料をお持ちしました。こちらの――」
シブラがバインダーから書類を取り出そうとするが、何もない。目線を手元から正面に戻すと、すでにペインが資料を手にしていた。
「イヌフサイツシ。デン。リデルと行動を共にしていた者たちか」
「ペイン様、驚かさないでください。一瞬、資料をどこかに落としてしまったのかと」
ハンカチで冷や汗を拭いながら、シブラは思考を巡らせた。
部屋の前に来るまでは資料は手元にあった。一体いつ。ペイン様は私から資料を取っていたったのだろう。
「用件を尋ねた時だ。君は手元のバインダーに視線を向けようとした」
いともたやすく心を読まれた。この方の前では警戒も偽計も無意味だ。
「いやはや。お見逸れしました。魔法を使った痕跡さえ感じさせないとは。今や賢者でさえもペイン様には敵いませんな」
「賢者を侮るな。こと魔法に関して賢者と比肩する人間はまだ存在していない。私が扱える魔法の質と量は未だ賢者の領域には達していない」
ご謙遜を、という言葉をシブラは飲み込んだ。
かつて盗賊団の首領であったシブラは、無謀にも賢者ルビウスに一戦を仕掛け、完膚なきまでの敗北を喫している。幾度となく猛者と戦い磨かれてきた技術も、死に物狂いで繰り出した渾身の攻撃も、賢者ルビウスに届くことはなかった。かすりさえもしない。それまでに培ってきたはずの自信は、嘘のように霧消した。
あの時の感覚。勝利のイメージがまるで見えない絶望と諦念を、ペインからも強く感じる。
「委細、承知した。下がってよい」
えっ、とシブラは声を上げた。
「もうよろしいのですか?」
「何か気になることでも?資料にはそのような記載はなかったが」
「いえ。いえいえ。彼らはリベル様のことをマアブルなどと呼んでおり、リベル様のことは何も知らない様子でしたが、どうも本校から連れ去ろうとしているような雰囲気があったものですから」
「連れ去る?それは無理だ。去りたいという意思がない者をどうして連れ去ることができよう」
そこまで言うとペインは目線を窓の外にやった。かすかに、ふ、と息が漏れた。
「彼女にとってここは宝石箱も同然だ」
シブラが窓の外に目をやると、一心不乱に絵を描くリベルの姿が見えた。逆立ちのような姿勢のまま宙に浮かび上がり、貪るように絵を描いている。何枚もの画用紙もまた宙に浮かんでいた。
遠目で何を描いているかは判然としなかったが、最初にここに来た頃とはもはや別人だ。たった一ヵ月足らずの間で、ここまで成長を遂げた人物がかつていただろうか。
「イヌフサイツシ。デン。両名とも適正な試験のもと合否を推し量れ。入学しようとしまいと、私とリベルの目的には何ら影響しない」
シブラは心から首を垂れると、理事長室を後にした。




