第七十二話 表と裏
真っ白なキャンバスに絵を描く経験は初めてだ。
なんて新鮮さを味わっている余裕はたぶんないはずだ。
1枚完成させるのにどのくらい時間がかかるのか?
絵を描くことが日常的な行動ではない俺にとっては未知数だ。しかし、課題は100枚。経験のない俺でも、これが異常な数であることは察した。
それに、100時間という時間制限があるということは、普通に考えて1枚1時間以上かかる計算なのだろう。30分かそこらで完成できる絵なら100時間もの設定にならない。
24時間×4日=96時間プラス4時間で100だ。4日と4時間。
そこで俺はふと疑問を感じた。試験官ゼイル―が地べたに体育座りをしていたので、屈んで目線を合わせて尋ねた。
「あの、すみません。食事や睡眠のことなんですけど……っ!」
そこまで口に出した時、脳天に針を突き刺されたような、猛烈に嫌な予感がした。
ここにはキャンバス以外何もない。いや、厳密に言えば扉や窓はついているけど、何かしろと言われれば絵を描くしかないと言っていいほどの殺風景だ。美術部の部室だってもっと彩りはあるだろう。行ったことはないけど。
とにかく、極端に外界の情報が制限されている空間だ。そんな場所で、俺は一体どうやって食事を摂ればいい?
部屋の外に出ていいはずがない。だって、試験中だ。
だから誰かが何かしらの食事を運んでくれることを期待するしかない。
でも。
「え……えっ。あ、あの。そうっ、そういうことは……と、特に……。し、試験……試験中、なので……」
これでもかというくらい試験官は戸惑い、珍しい動物を見るような眼差しを向けた。この人はこんなことも分からないのか、と思われているかもしれない。それでも驚愕の事実を突きつけられたのだ、こちらとしては確認せずにはいられない。
「すみません。初めてなもので、確認させてください。まず、ごはんは出ない、と」
ゼイルーは戸惑いながらもゆっくり頷いた。
なんで嫌な予感ほど当たるんだよ。アイスの当たり棒も年賀状の切手シートも当たった試しがないのに。
「じゃあ……外に出るのは……」
ぶんぶん、と音が出そうなほど首を振った。縦に、じゃなく横に。
まあそうですよね。試験中だもの。
ということはだ。必然的に。
「飲まず食わずですか。100時間。4日間も」
「は……はい……え?」
「え?って何が?何が、え?こっちの方が100倍『え???』なんですけど」
「え…えっ。あの……えっ?」
「あ、いや。すみません。……ふぅー……」
深呼吸だ。困ったらとりあえず深呼吸。
1ミリも要領を得ない返答だったが、まず落ち着こう。一旦冷静になれ。声を荒げでもしたら泣き出しちゃいそうだ、この子。
「すみません。初めてなもので。へへへ」
あ、さっきも言ったな。このセリフ。優しく、優しく聞かないと。
へへへ、は少し気持ち悪いからやめよう。
「ちょおっと整理させてくださいね。つまり、この試験は『100枚の絵を完成させるまで飲食できません』ってことなんですね?」
こ……こくり。と頷いた。どうやら、こりゃ馬鹿丁寧に描いている場合じゃないな。可能な限りスピーディーに仕上げて100枚完成させるしかない。ただ、へのへのもへじみたいなまるっきり手抜きってわけにもいくまい。これが試験である以上は絵の質も当然評価されるだろう。
幸いなことに、俺は多少の絵心は持ち合わせている。100枚は厳しい量だが、ここは持ち前の忍耐力でカバーして完成させよう。
「分かりました。じゃあ100枚、なんとか完成させます……」
嫌な予感を感じ取る前に念押ししてみた。
「そしたら部屋を出れますよね」
「ひゃ……100時間、経ったら……で、出られ、ます」
「……ええと。100枚完成させても、100時間経たないと出られないってことですか?」
自分で自分の言ったセリフにぞっとした。
「いやいや、そんなわけない、そんなわきゃないですよね!それじゃ軟禁ですもん、ありえないって。ははは、びっくりしたなーもう」
「えっ。あの…えっ、え?」
「それやめて!?そんなおかしい?そんな狂気じみてる?俺の疑問。え、うそでしょ。100時間ここにいないといけないの?飲み食いなしで!?」
「は、はいぃ……。し、試験時間なので……その、ね、ね、寝たり、とかも……だ、ダメ、ダメでして……」
かつてないほどの目眩を覚えた。
「飲まず食わずで寝ず!100時間も!!死ぬって!!」
「ひぃぃっ!」
ゼイルーはびくっとした拍子に床に転がってしまった。
「あっ、す、すみません。つい、ツッコミが」
「ひぃぃ……ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「すみません、あの、別にあなたを怒ったわけじゃなくてですね。ただあの、4日間以上飲まず食わずの寝ずは確実に死にますって。なんなら今もうすでにお腹すいてきたし」
「い、い、い、いま、か、変わります……変わりますから……」
「試験内容が、ですよね。是非変えてください。絶対なんか間違ってますよ、きっと。冷静に見たらキャンバス100枚もないし」
試験官は首から下げているホイッスルを徐に口にした。
体育の先生が吹くようなやつじゃないか、と思った時、聞きなれた音がピィーッと響いた。
途端に、部屋が暗転した。
「暗っ!え?何ですか?」
急に真っ暗になって、何も見えない。
「あ゛~!いちいちうるせえガキだなあ、おい!」
急にヤンキーの罵声が響いた。
どこから?部屋には試験官しかいなかったはず。
バン、という音と同時に無機質な窓枠が異様な光を放つ。その光はスポットライトのように、一人の女を照らした。女は長い前髪をかき上げ、赤い眼を覗かせると強い舌打ちをした。
「ったくよ~、あのジジイ、なんにも説明してねえのかよ!クソが!おい、いいか!二度と言わねえから耳の穴かっぽじってよく聞きやがれ!100時間かけて100枚の絵を描けっつーのが課題だよ!!100時間!100枚!どっちもぜってー譲らねえかんな!100枚絵ェ描いても100時間経たねェと部屋からは死んでも出さねえ!!わかったか!!」
ななな、なんだなんだ、この凶暴な姉さんは!
「返事!!」
「は、はい!で、でも、あの、あ、あなたは一体……」
「ああん?何言ってやがる!自己紹介しただろ、ゼイルーだよ!」
「はあ?えぇ?」
二重人格?『変わります』ってのはそういう意味か?
「他に誰がいんだよ!言っとくが、今こうしてくっちゃべってる間にも時間は経っているんだからな!おら、とっとと描きやがれ!」
「そ、そうは言ってもですね、そんな4日間もぶっ続けなんて―」
「てめぇら、ペインの嫁を取り戻しに来たんだろ?あいつはこんな試験楽勝だったぞ!」
「えっ……」
嵐のようにまくし立てる二重人格者から、突然核心に迫る質問を投げかけられた。
「やっぱり知っているんですね、マーブルのことを」
「マーブルゥ?誰だそりゃ」
シブラと同じ反応だ。じゃあこの学校の先生はマーブルのことを本当に知らない?なぜ?
「あの、ペインの嫁さんの顔は見てないんですか?虹色の髪なんですけど」
「だからその虹髪がペインの嫁だろ!マーブルなんつう名前じゃねえけどな。つうか、んなことよりも絵を完成させろよ!」
「さ、最後!最後にもう一つだけ。その嫁さんの名前は?」
「知らねーっつの!プリエルの子としか聞いてねえよ!もうこれ以上は何も喋らねえからな!」
どかっと乱暴に腰かけるゼイルー(裏)をしり目に、俺は筆を持った。




