第七十話 あの虹を目指して
「まったく。まったく、もう。何もああまで強く噛みつかなくても良いでしょうに。触れるだけでいいんですよ、触れるだけで」
シブラは血の滴る頭部に黒い手拭いを巻きながらクダをも巻いた。手拭いはターバンにしか見えない。ラクダに乗った砂漠の旅人のような格好だ。
「すみません。ついテンション上がっちゃったみたいで。デンもほら、謝っとこう」
「なんでだよ!あれだけ素早く動いていたくせに貧弱なじいさんだな」
「自慢ではありませんが私のパワーやタフネスは子鼠さん以下です」
「ほんとに全然自慢じゃないな。ってか子鼠じゃねえよ!雷獣だって言ってるだろ」
「失礼。さて、二次試験を開始する前に確認しておきたいのですが、お二人はどちらの専攻を希望されますか?」
センコウ、と声に出して繰り返した。
「はい。我らがルテティエ芸術魔法学校はその名の通り芸術と魔法の真理を追究する学び舎。芸術専攻では絵画、彫刻、工芸、建築の4つのコースがあります。魔法専攻では属性魔法、生活魔法、魔法薬学の3コースです。どのコースで学ぶのかは試験の結果を総合的に判断して決定しますが、どの専攻に進むのかは一次試験を合格した者の希望によります」
まるっきり大学みたいだな。高校生の俺にはまだ専攻という言葉がピンと来ない。
とりあえず気になったことを聞いてみた。
「そういう説明ってこのタイミングで合ってます?普通試験を受ける前じゃないですか」
「そうですね。初めはそうしていましたが、入学希望者が多すぎましてね。このフィジークの試験は従来は二次試験でした。当時の一次試験は『テクニカ』です。試験の難易度も甘かった。ちょっとだけ芸術や魔法をかじった程度の人間が通り、それなりの時間をとって専攻分けを終えた後の二次試験フィジークで大量の不合格者が出ていました。試験科目や説明の順序を入れ替えたのはより合理的に、より効率的な実施運営のためだとご理解いただきたい。まずはフィジークを一次試験にすることで体力のない者、眼を持たない者を淘汰することに成功しました。本校では知識を与え、技術を培うことができても、基本的能力の養成までは手が回りません」
「眼を持たないってどういう意味だ?」とデンが尋ねる。
「芸術的な一瞬を切り取る眼。ひいては真贋を見抜く眼です。あらゆる技術の習得には優れた眼が必要なのです。芸術も魔法も同様です。先ほどのフィジーク、十分間の時間がありました。いかに速く動こうとも私は老体です。最後まで諦めず全力で追い続ければ触れるチャンスはあるでしょう。しかし、眼を持つ者はそれほど体力を割かずとも私を捉えられる。先ほどのイッチさんのように」
シブラの動きは確かに速かった。この三人で競争したら俺はビリだろう。でも、いくら速くても目に見えない速さじゃない。走行している新幹線が目で追えないわけがないように、シブラがどう動いているのかが分かれば、捉えることはそう難しくない。
「こんなに広い場所なのに、俺たちが立ち止まって話しているのに、シブラさんは動き続けていた。なぞらえていたんですね」
「なぞらえ……?どういう意味だ?」
「地面を見てみろ」
デンが頭に登れるように少し屈んだ。
「地面?」と聞きながらデンが俺の頭頂から地面を見渡した。
「何だこれ。丸の中に……筆か?二本の筆と、杖みたいなのが描かれている」
円の中に描かれたフォークの先端のような三本線。両端は筆、真ん中は筆よりも少し短い杖だ。一瞥すると花のようにも見えるシンボル。この試験を受ける前に書いた志願票に印字されていたマークと同じだ。
「それは本校の校章です。ご指摘の通り、二本の筆と一本の杖からこの学校は始まりました。本校に在籍している教員、学生一同の誇りです」
「シブラさんは高速移動しながら足でこの校章を描いていた。俺たちの行動に関わらず、まったくリズムを乱さない動きだったことから何かの体術なのかなって推測はしたけど」
「いかにも。本校に入学された暁にはお教えしましょう。それで、専攻はお決まりですかな」
「ああ。俺たちは芸術専攻を選択する。そうだろ?」と、デンの相槌を求めた。
二人とも魔法は使えないし、マーブルが興味を持ちそうなのはこっち一択だ。選択肢なんてない。と思っていたのは俺だけだった。
「いや。おれは魔法専攻を選ぶ」
「え?どうして」
「おれは人間の芸術なんてわからねえよ。それに、さっきの試験でもはっきりわかったんだよ。今のおれじゃ何もできない」
デンは悔しそうに口を堅く結んだ。
そんなことない、と言うのは簡単だったけど、それはたぶんデンを傷つけることになる。
「現に、イッチがいなけりゃおれはあの気色悪い女のところで日銭を稼ぐだけのクソみたいな日々を送っていた。このままお前の後をついているだけじゃダメなんだ。おれはおれの力をちゃんと身に付ける。なあじいさん、専攻とかはよく分からないけど、同じ学校の中の話なんだろ」
「ええ。ええ。いかにも」
「だったら専攻が違ってもマーブルには会えるだろ。イッチ、お前は芸術、おれは魔法の方に進む。なんなら、どっちが先にマーブルに会えるか、勝負でもしてみるか?」
「デン」
見違えたな。一ヵ月の間、ほんとに何があったんだ。以前のデンなら、こんな風に自分の胸中をさらけ出すことなんてなかったろうに。
俺は黙って拳を前に突き出した。デンはジャンプすると小さな拳でタッチした。
「よし。じゃあ行こうぜ、二次試験!」「ああ!」
「そのマーブルという方は存じませんが……よろしい、それでは二次試験会場にご案内します。二次試験『テクニカ』はどちらの専攻とも本校校舎内で実施します。こちらについてきてください」
俺たちは同じタイミングで頷くと、次の一歩を踏み出した。




