第六十六話 待ち人、現る
<犬房サイド>
こうして一志は消失した。
最愛の息子が目の前で消失するのはこれで二度目になる。
必ず戻る、と言っていたけれど。望みはないだろう。現実世界へ戻れたとしても、この次元には二度と現れない。神隠しに遭ったであろう息子を呼び戻したのは、今から三年後の私だ。本来であれば一志は現代に戻れていたはずが、魔犬の影響か、何らかの原因で時間軸がずれたのだろう。
力を持つ人間が一志を呼ぶ時、神隠しは発動する。
ただし、その人物と一志は記憶を共有していなければならない。一志が消失した後、淡澤彩子からパルテスの記憶が消えていた謎はその条件と関連性がありそうだ。
そして、同一人物が連続して呼び寄せることはできない。一志をこの現実世界に呼び戻すためには私以外の力を持つ人間が一志を呼ぶ必要がある。しかし、私以外に力を持つ人間の存在が一志の記憶にはないだろう。
私は再び最愛の息子を失った。
しかし落胆する必要はない。この次元に元々存在している息子は家にいる。神隠しを持つ者は一つの次元に一人しか存在しないために、十四歳の方の一志は神隠し能力を失い、容姿や性格、能力にも変化が生じていた。その変化に気付けたのは、力を持つ私だけだろう。神隠しを持つ一志が向こう側の世界に行ったことで、十四歳の一志の変化も消失したはずだ。
つまり私の日常は何も変わっていないということだ。むしろ未来の一部を知れただけでも得難い収穫と言えるだろう。この次元の一志は高校進学と同時に一人暮らしを始め、その一年後には二度目の神隠しにより向こう側の世界へ行く。まずは一志の一人暮らしを阻止するために策を練るべきか。
それに、あの一志が神隠しを発動してしまうことは予測できたことだ。
一志がカクリヨと唱えた時、私は安堵した。記憶の欠落があろうと、魔犬の影響を受けようと、一志は一志なのだ。カクリヨと発しただけでは神隠しは発動しない。あくまでも一志を必要とする者がいることが大前提なのだ。カクリヨとは、一志を呼び寄せようとする者にそれだけの力がない場合、一志が力を貸して神隠しを発動させる荒業だ。
一志は誰が自分を必要としているかわかっていた。一志の助けを、存在を必要としている者がいる。親として誇らしい気持ちにならないはずがない。
不安は当然ある。神隠しは途方もなく大きな力が働いている。時空を超えるほどの力だ。ただの人間が人の形を保ったまま使える能力とは思えない。神か悪魔か、何者がその能力をなぜ授けたのか。いくら手を尽くして調べても分からない。
そして、マーブルのこと。今なお彼女と行動を共にしているのなら、やがて世界を敵に回すことになるかもしれない。それほどまでに彼女の夢と意志は巨大なものだ。
彼女を支えるつもりなら、一志の力はまだ足りていない。記憶の一部が蘇ったことで力を取り戻しつつあるが、十年前の方がまだまだ強い。
星一つ出ていない夜空に、息子の笑顔を浮かべた。
一志、わかっているでしょう。
当面の課題は十年前、始まりの神隠しの記憶をすべて取り戻すこと。
もっと強くなって、守りたいものを守れるようになりなさい。
そして、いつかちゃんと家に帰ってきなさい。母さんはそれまでずっと待っているから。
首の痣を指でなぞりながら息子を想った。
<デンサイド>
女の甘ったるい声が頭上から聞こえてくる。女は描く絵が完成するまで自分の座る椅子の下にいるよう、おれに命じた。
チッ、と人間みたいな大きな舌打ちが出た。最近、舌打ちばかりしているから音を出すのが上手になってしまった。
「いいでしょお、デンちゃん。ガリッとやっちゃって~」
女は人差し指を鼻先に突きつけてくる。
「やめろよ。雷獣は人を喰わねーんだよ。何度言ったらわかるんだ」
「ん、もう。ちょっとかじるだけでいいの。芸術家にはさぁ~痛みでピーンと閃くタイプもいるの」
「おれがかじったら指が千切れるぞ」
「だいじょぶよぉ。デンちゃん、そんな悪い子じゃないでしょお?バイト代、弾むからぁ…おねがぁい」
「わ、わかったよ。わかったから、そのねったりした喋り方やめろよな」
おれは女の人差し指を軽く噛んだ。
「あ、ダメ。優しすぎぃ。もうちょっとだけ強くしてよぉ」
「~~!!」
イライラをぶつけるように強めに噛んだ。
女が聞くに堪えない下品な声を上げる。
「あ~~!いいわぁ!創作意欲がどんどん湧くわぁ!!」
「くそっ!」と思わず言葉を吐き出した。
ちくしょう、マーブルのバカが。なんでおれがこんなことで日銭を稼がにゃならんのだ。
せめてイッチさえいれば、マーブルも少しはマシに……ん?
扉が少し開いている。誰かが覗いているのか?
おれは椅子から出て、扉に近付く。
――ん?この匂いは、まさか!
おれは扉の隙間から勢いよく顔を出した。
「イッチ!ようやく来たか、この野郎!」
歓喜のままに奴の懐に飛び込む。でも、イッチはえらく曇った表情だ。
「なんだよ、シケた面して。おいまさか、おれのこと忘れたんじゃないだろうな」
イッチはおれの身体を両手で掴むと、そっと床に着地させた。
「あ、あの。なんていうか、邪魔してごめんね」
「は?」
「いや、知らなかったんだ。デンさんがあの女の人とそういう関係だったなんて」
「は?なんで“さん”付け?」
「大丈夫、俺のことは気にしないで。ことが終わるまでレストランにでも行っているから。あ、もちろん、このことは誰にも言わないから。どんな趣味があっても、デンさんはデンさんだから」
おれは渾身の力でイッチの指に嚙みついた。




