第六十四話 現世
<イッチサイド>
分からないことはまだまだたくさんある。
パルテスのこと。母さんのこと。魔犬のこと。過去の自分の顔が違うこと。過去の世界に来た目的。神隠しの正体。謎だらけだ。謎を解こうとすればするほど新たな謎とぶつかる。すべての疑問に答えを出せる日が来るのだろうか。出口のない迷宮をさまよっているかのようだ。
でも、分かってきたこともある。
どんな迷宮だろうとそこから脱出できる術が俺にはある。
俺がここに来た仕組みはわからないけど、目的は理解できた。これは希望的観測じゃなく、確かな事実だ。間違いない。俺はこの絵を見るために戻ったんだ。
この絵を見るチャンスは今、この三年前までしかない。翌年には父さんは事故で亡くなって、書斎にあるものはすべて母さんに片付けられるからだ。
なんでこの絵のことを思い出せなかったのか。もちろんそれにも理由がある。
「おいおい」
顔面に魔犬の蹴りが炸裂した。けれど、今はそんなことはどうでも良かった。
「その下手クソな絵がどうかしたのか。ボーッとしてよ」
とめどなく溢れる鼻血も、それに伴う痛みも今は意に介さない。
頭の中でパズルのピースがはまっていく。今までは見えない、触れもしなかったピースが次々と現れていく。
俺とマーブルは子どもの頃に出会っている。一回目の神隠しで、俺はマーブルとしばらく行動を共にしていた。この絵は、別れ際にマーブルが俺にくれたものだ。
きっかけは忘れたけど、マーブルはある時期から俺のことを様付けで呼ぶようになった。でも、今みたいにつっけんどんな感じじゃなく、もっと表情も感情も豊かだった。この十年間でマーブルに何があったのかは分からないけど、俺のことを忘れずにいてくれたんだ。それに引きかえ、俺はマーブルのことをすっかり忘れてしまっていた。情けない。
あの世界は、師匠の言葉を借りるなら『幻想界』という。現実世界と幻想界を行き来する神隠しには、一つ重大な代償がある。記憶障害だ。子どもの頃は、幻想界で過ごした日々の記憶は徐々に薄れていったけど、今回のように時間軸が大きくずれて現実世界に帰ってくると、記憶の抜け落ちがより激しくなるみたいだ。
「なあ」
俺は魔犬に話しかけた。聞いてみたいことがある。
「お前の役割はなんだ?」
「あぁ?何言ってやがる」
魔犬は返答と共に拳を繰り出してきた。ずいぶんとまあ、ゆっくりした動作だ。掌で拳を受け止めてみる。ぱしん、と音が鳴った。それが試合開始のゴングであるかのように、魔犬は手足を繰り出してくる。なんだか、子どもとキャッチボールをしているような気分になってくる。
蹴りが顔面の高さに来るよりも前に、魔犬の膝を軽く蹴る。それだけで、蹴りは蹴りにならない。
拳はどこをどう走っているのか、はっきりとわかるので無難に回避して何もない虚空を叩かせる。伸びきった腕、その肘をめがけて叩くと折ってしまいそうだ。折るのはやめておこう。母さんが悲しみそうだ。
俺は人差し指と中指を銃のように見立て、決して力は籠めずに魔犬の肩を突いた。
「ぬあっ!」
魔犬はバランスを崩し、後方にある椅子に倒れかかった。俺は間髪入れず魔犬の――魔犬を名乗る男の首元を掴んだ。
「なんで魔犬のフリをしているの?」
「な……何、言って――」
「芝居しろって母さんが命じたわけじゃないだろ。それは安直すぎる。もしかして、自分でそう思い込んでいるのかな。いや、でも……」
よくよく嗅ぎ分けてみると、人間以外に別の匂いがかすかにする。
「あーなるほど、動物の下級霊を憑かせているのか。そうだよな、本物にいくら事情説明しても素直に協力するとは思えないし」
困惑した表情で頭を抱えるこいつは犬房一志だ。奇妙な感覚だけど、顔が違っていてもこいつは自分自身だとはっきり分かる。ただし、神隠し能力はなくなっている。たぶん、俺がこの次元に来た時点で、こいつの中から力は消えたのだろう。神隠し能力を持つ人間は同じ次元に一人しか存在できない。顔が変わったのも、そのルールと無関係ではなさそうだ。
たぶん、魔犬もそうだ。俺の中にしか存在しない。だから動物霊を憑けることができた。
「オレ、オレオレオレは、マケ、マケン、マケンマケン……」
会話は無理そうだ。同じ言葉を反芻してその場にへたり込んだ。
弱い動物霊に魔犬の暗示までかけて、俺を足止めしようとしたのか。パルテスの記憶を消して、俺が神隠しに遭わないように。
でも、今の俺はもう。自分の意思で果てしない世界へと旅立てる。
部屋の窓を開けて、身を乗り出す。瞳を閉じ、そのまま宙へダイブする。
地面に激突するまでの数瞬、俺は呪文を唱えた。
「ウツシヨ」
単語そのものに大きな意味はない。俺以外の人間にとっては魔法でもなんでもない。
神隠しには二種類ある。現実界と幻想界、二つの世界を移動する神隠し。そして、同じ世界の中で別の場所に移動する神隠し。こちらは条件付きの瞬間移動と表現しても差し支えないだろう。一回目の神隠しで、幻想界を生き抜くために見出した技術。師匠はそれを『ウツシヨ』と名付けた。
ウツシヨの発動条件は一つ。
俺のことを知る人が同じ世界にいることだ。




