第六十二話 その女の動機
<パルテスサイド>
チャイムが鳴り、お母さんがインターホンの受話器を取る。
あら、とお母さんの声が一オクターブ上がる。受話器を戻すとパッと振り返った。
「珍しいわ、どうしたのかしら」
そう言って嬉しそうに玄関へ向かっていく。
「誰なの?」
「犬房さん」
昨日の表情がフラッシュバックして、私は思わず身構える。
イッチさんのお母さんが何をしに来たのだろう。
「淡澤さん、突然ごめんなさい。彩子ちゃんはいらっしゃる?」
「彩子なら居間にいるけど……」
いきなり私の名前が出たので、お母さんは戸惑った様子でこちらを振り返った。
私はとりあえず首を横に振った。イッチさんとは話したいけど、犬房さんには用事がない。強いて言うなら、急に倒れてしまったイッチさんの容体を聞きたいけど。
「うちの一志のことで、ちょっとお話ししたいことがあって。あの子が自分で言えばいいのだけれど、なんか恥ずかしがっちゃって」
「あらあら」
犬房さんの言うことをお母さんはどう解釈したのか、明るいトーンを取り戻した。
逆に私の警戒度はどんどん上がっていく。ずかしがっちゃって?イッチさんが?とてもそんな風には見えなかった。イッチさんは私の名前を呼んでくれた。私と同じように、記憶が戻りかけているはずだ。
「どうぞどうぞ、散らかっているけど入って」
お母さんは『すしざんまい』の人形のようなポーズで来客を招き入れる。
「失礼します」
私は何か得体の知れない不安を感じて、とっさに自分の部屋へ避難しようとした。でも、部屋の窓からは外に出られない。自分から密室に逃げ込んでも意味がない。私はなんとか踏みとどまり、居間の真ん中で直立不動のまま来客を迎えた。
「こんにちは。彩子ちゃん」
私は思わず息を呑んだ。きれいな人だ。これでお母さんと同年代?信じられない。毎日のようにテレビに映っている女優さんのようだ。
人の印象とはここまで変わるものだろうか、と私は驚いた。上品な会釈で優しい笑みを浮かべる目の前の人物は、昨日の冷徹な視線を向けてきた女性とはまるで別人だ。猫を被るとか、そんな次元の芸当じゃない。人格が変わったと言われた方がまだ説得力がある。
「驚かせちゃったみたいね。急にごめんなさい」
「あ、いえ、大丈夫です」
私は犬房さんに座ってもらうよう促した。私もそのまま座り込む。
「昨日は驚いたでしょう」
いきなり本題だ。
「はい、少しだけ…。あの、イッチさんはだい――」
「一志は」
大丈夫ですか、と言おうとした私の言葉を遮るように犬房さんは少し大きな声を出した。
「なんともないわ。向こう側の世界でだいぶ疲労が溜まっていたようだけど、ぐっすり眠ったおかげで体力は完全に戻っている」
向こう側の世界……?
この人、知っているの?あの列車のことを?
「あなたは向こう側の人間でしょう。いえ、正確に言うならば、その魂を宿している」
そう言って前髪をかき上げる犬房さんの表情にはもう笑みはなかった。仮面のような無表情。
私は急に肝を握られているような感覚に陥る。
「あ、あれ……お母さん?」
母が玄関からいつまでも戻ってこない。私は弾かれたように立ち上がり、玄関へと向かった。
「お母さん!?」
母は壁に寄りかかるように座り込んでいた。
「眠っているだけよ。昨日の一志と同じ」
犬房さんの声が今から聞こえてくる。
確かに母は寝ているだけに見える。特に外傷も見当たらない。呼吸や脈拍、体温にも異常はない。
「健康に害はないわ。あなたが大人しく話を聞いているうちは、ね」
私は居間へと戻った。一瞬、玄関から外にて逃げようかと思ったけど、寝ている母を抱えたままで逃げ切れるわけがない。
「お母さんに何をしたの」
「薬を嗅がせた。あまり時間がないのでね。乱暴な方法でごめんなさい」
さっきまでとはまるで温度の違う『ごめんなさい』だ。
「繰り返し言うけど健康に害はない。私はただあなたと会話をしに来ただけよ。あの母親はその邪魔になるから少し眠っていてもらっただけ。あなたたちに危害を加える理由はない」
「ふ、ふざけないで!そんなこと信じられない!昨日、イッチさんを眠らせたのもあなたの仕業なんでしょ」
「昨日一志に投与した薬とは当然別物だけど、その話はもういいでしょう。そんなことはさして重要ではない」
「なんでそんなことしたの。何が目的なの」
「目的……分かりきったことを聞くのね。そんなの最愛の息子と一緒に暮らすことに決まってるじゃない」
犬房さんは不思議そうに少し首を傾げてそう言った。
「向こう側の世界の記憶を持つ人間があの子の周辺にいられると困るのよ。このままだといつまた向こう側の世界へ飛んでいくか、わかったものじゃない。だから消しに来たのよ。あなたの記憶を。パルテスという人物の魂を」




