第五十九話 中断
<パルテスサイド>
私の名前はタンザワアヤコ。漢字だと「淡澤彩子」と書く。
年齢は十五歳、中学三年生。趣味は絵を描くこと。
日本という島国でごく普通の家庭に生まれた。子どもの頃、大きな犬を飼いたいとお母さんにせがんだけど、マンションに住んでいるから無理だと言われた。いつか一軒家に引っ越したらねと言うから、明日は引っ越す?と毎日のように聞いていた。
中学生になった頃に一軒家に引っ越したけど、間もなくしてお父さんを事故で亡くしてしまった。それからは泣き疲れて眠る日々がしばらく続いた。
二年経つと、新しいお父さんができた。お母さんの再婚は素直に祝福できるけど、なにも娘が高校受験を控えている時じゃなくても良かったじゃん、と思った。そんな風に考える自分に少し嫌気が差した。
そんな、どこにでもいる普通の子どもが私だ。ただ一つの些細な違和感を除いては。
人生に不満はない。喜びも悲しみも人並みに体験しているし、私は淡澤彩子としての人生を全うしている。でも。
たとえば、朝。目を覚ました時。自分の部屋の天井が、ほんの一瞬、初めて見る部屋のように感じたり。自分の名前を呼ばれて、それが音として聞こえているのに、自分のことだと思えなかったり。そんなことが何度かあった。私は自分が淡澤彩子であることを時々忘れてしまうみたいだった。
「ほら、またぼうっとして」と母からよく言われた。友人からも、おっとり系とかよくわからないことを言われた。
なにかが引っかかる。そんな十五年間の違和感。
きっかけは分からない。突然、なんの前触れもなく、私は違和感の輪郭を捉えることができた。
昨日のことだ。私には前世の記憶があると確信した。
私は淡澤家に生まれる前に、もう一つの居場所があった。この国ではない、どこか別の国で生まれ育って、そして死んだ。もちろんそこには別の両親がいて、別の名前があった。
はっきりとした記憶はない。でも、見えそうで見えない光景がずっと頭の中にあった。十五年間、ずっと。
思えば、物心ついた時から絵を描いていたのはそのせいかもしれない。頭の片隅にある小さな蟠りの正体を描きたかったんだと思う。
ふいに、断片的な記憶のワンシーンが脳内で再生される。ふとした行動の拍子に、この世界には存在しない光景が浮かんでくる。
そして決定打は今日。
彼の姿を見た瞬間、私はもう一度生まれた。
「イッチさんですよね!私、パルテスです!私のこと覚えてませんか!?」
カーテンを閉めようとした時、窓の外にいる人物にたまたま目が止まった。それは一秒にも満たない時間だったかもしれない。指がカーテンに触れた時、記憶の檻にヒビが入ったように感じた。
知っている?私はあの人と会っている?
あの人の、名前は――。
『俺は犬房一志。通称イッチ。よろしく!』
そうだ。それがあの人の名前だ!
そして、私の名前は――パルテス。
死んでしまった後、黄泉の国へと向かう列車で助けてくれた人がイッチさんだ。ただ、パルテスの私とイッチさんに面識はなかった。イッチさんが助けようとしたのはパルテスじゃなく、あの列車で出会った不思議な女の子――マーブルちゃんだ。
どうしてイッチさんがここにいるんだろう。あれから十五年以上も経っているのに、なぜイッチさんはあの日と変わらないままなんだろう。分からないことだらけだ。
でも、イッチさんと話せば疑問は晴れるはずだ。私が前世の記憶を持っていたことと、イッチさんの出現は絶対に関係している。
「パルテス……パルテスって――」
イッチさんは何かを思い出すような仕草をすると、ぱっちり開いた目で私を見上げた。
「ちょっと待っててください」
思い出してくれたんだ、と私は期待に胸を膨らませて、一階に降りる。急いでサンダルを履いて、玄関から出ると――。
女の人がイッチさんを担ごうとしていた。
「えっ……。えっ、えっ」
イッチさんは気を失っているようだった。目を閉じたままぴくりとも動かない。
女の人は、イッチさんと同じくらいの背丈だ。気絶した人を運ぶことを生業としているような迅速な対応だった。「一志」と何度か呼びかけ、イッチさんの反応が戻らないことを確認すると、イッチさんの手足を素早く動かし、綺麗な姿勢で持ち上げ、背中に担いだ。
女の人はまったく動揺するそぶりを見せない。三十代――いや、二十代後半かも。
「あの、あの……だ、大丈夫ですか」
私がその女性に声をかけると、彼女は『問題ないわ。私はこの子の母親だから、そのまま家に連れて帰るわね』と呟き、イッチさんを担いだまま太陽の沈む方向へと歩いていった。
問題ないわ。私の方を見向きもせず、作ったような笑みを浮かべて言い切る彼女からは、『余計なことはするな』そう言われたような気がした。




