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虹色のマーブルと運命の本 第一部  作者: 本堂モユク
第一部 空ろなる道連れ
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第五十五話 静謐なる願い

<一志サイド>

 帰宅した「俺」は居間に入ることなく階段を登っていく。足音が止むと、部屋の戸を開閉する音がかすかに聞こえた。

「三年前のあなたはとても鼻が利くわ」

 母は先ほどよりも少し声を落として言った。その言葉の意味するところは、俺も重々承知していた。高校生の俺はただの人間だけど、中学生の頃はただ者じゃない。

一回目の神隠しから生還した俺は、常人離れした五感と膂力を身につけていた。はっきり言って世界最強の小学生だったと思う。テレビで見るような格闘家の世界チャンピオンとだって負けない自信があった。

そのせいで、当時は日常生活に溶け込めるまでだいぶ時間がかかったけど、超人的な能力は月日を経るごとにだんだんと失われていった。

おそらく神隠しの体験によって得られた、野生動物のような鋭敏な感覚やパワーは、高校二年生の今ではほとんど消えかけている。わけのわからない神隠し現象を除いては俺はただの人間なんだ。しかし、三年前、中二の俺はまだ嗅覚の鋭さを宿しているようだ。

「念のためにあなたの靴は隠しておいたけれど、母親以外の誰かが居間にいることは気付いたでしょうね。まさかそれが自分自身だなんて思いもしないでしょうけど」

「え。靴、隠したの」

「お茶を出す時に引き戸の中へ」

 いつの間に。まったく気付かなかった。

しかし、来客がいると悟られたのなら、その靴がない状態はいかにも不自然じゃないだろうか。俺は困惑を誤魔化すようにそう指摘した。もちろん、そんな苦し紛れが通用するような母ではなかった。

「あなたの靴の代わりにお父さんの古い靴を出しておいたわ。二回しか履いていない靴だから匂いは残っていないはず」

 この人は一体何手先まで読んで行動しているのだろう。本当に、大真面目に、俺の母親とはどうしても思えない。まるでターミネーターだ。

「繰り返すけど、あの子は鼻が利くのよ。靴が移動させられても気付かない今のあなたとは違ってね。用心に越したことはないわ」

 用心……。

俺はかすかな違和感を抱いた。何をそんなに警戒することがあるのだろう。仮に俺の姿を昔の俺に見られたとしても、それがどんなリスクに繋がるのだろう。俺にはまるで想像がつかない。

「もし気付かれたらどうなると思う?」

「分からないわ」と母は即答する。「ただ事態が好転するとは思えないわね。知っての通り、三年前のあなたでも神隠しに関する記憶はほぼない。神隠しの果てにどんな世界に辿り着いて、そこで誰と出会い、何をしてきたのか、あなたは何も覚えていないと言った」

 母は何かを思い出そうとするように目線をゆっくりと上に向けた。

「ほら、ドッペルゲンガーと出会ったら死ぬなんて迷信があるじゃない。もしかすると、別々の次元に存在する同一人物が同じ次元で出会うと片方が消滅するという意味なのかもしれない」

しょ、と言葉を発したところで喉がつっかえた。

「消滅って……」

「可能性は否定できないはずよ。あなたの能力は未解明な部分が多すぎる。予測がつかないリスクは避けるべきよ。ダメ押しに母親の勘も加味しましょうか。あなたたちは出会うべきではないと私は判断するわ」

 暗澹たる思いで母の言葉を反芻した。俺が思っていたよりも事態はずっと深刻らしい。

母の言うことが大げさとは思えない。なぜなら、この人の言うことが杞憂だった試しはないからだ。母が心配する出来事は起こるし、明日の天気が気になる時は予報より母に聞いた方が間違いなかった。母は常に正確で確実だ。

俺は正しすぎる母親に依存しないようにいつも心がけていた。どんな時も自分の頭で考えて自分で判断してきたつもりだけど、はたして自分の決断が正しかったのか、俺はいつも迷っている。

「しばらくの間はお父さんの書斎で静かに過ごすことね」

 母はそう言うと、台所に移動した。俺が二階の書斎に上がるまで居間に戻ることはなかった。

 やがて日は沈み、暗い書斎の中で俺は願った。

 どうか、神隠しが起こりますように。

 俺を、元の世界に導いてくれますように。


 更なる異常事態が俺を果てしない世界へと導くこととなるのは、それから三日後のことだった。

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