第五十四話 会話
<一志サイド>
俺が母親に事情を説明するのに、それほど長い時間はかからなかった。八分か十分か、たぶんそのくらい。その間、母は正座をしたまま微動だにしなかった。時々瞬きをするくらいの挙動しかなかったので、本格的に母親AI説を疑い始めた。
俺は俺で、話しているうちに気付いたことがある。俺はこの世界で目覚める前に、元いた世界とは別の世界にいた。きっとそうだ。
論理的な根拠は示せない。感覚の問題としか言いようがない。吹雪の日の神隠しが、今この日に直結しているとはどうしても思えない。
神隠しは少なくとも三回起こっている。
一回目は、小学生の頃。不思議な世界で化け物から逃げ惑う日々。誰かの助けで、俺は無事家に帰ることができた。
二回目は、つい先日の吹雪の日だ。おそらく一回目の神隠しで迷い込んだ世界と同じ場所に俺は立った。その世界で誰と出会い、何をしていたのかはまったく思い出せないけど、おおそらくそこで三回目の神隠しが起きて、俺はここにいる。辿り着くはずのなかった過去の世界へ。
「それで、あなたはどうしたいのかしら」
あらかた説明し終えた後の母の第一声がそれだった。
「どうって、決まってるでしょ。元の世界っていうか、この俺が存在していた時間軸の世界に戻りたいよ」
「そう。けれど、どうしようもないわね」
母はテーブルの上の湯呑を口元に運ぶ。お茶を飲む母の首筋には赤黒い痣があった。痣は鎖骨の辺りまで届いている。あんな痣、あったっけ――。
「あなたの話だと神隠しは自分の意思では発動しないのでしょう。過去に戻りたいと願ったわけではないのにここにいる。であれば、あなたがいた元の時間軸――便宜上、現代と呼びましょう――現代に戻ろうとどれだけ願っても戻れない」
「……そ、そう、かもね」
この母親には本当に驚かされる。こんな突拍子もない話を信じるばかりか、あっけなく状況整理をしてしまう。俺は本当にこの人と同じ血が流れているのか?
「あなた自身、母親に相談したところで容易に答えが得られるとは思っていなかったでしょう。発動の条件さえ把握できれば手の打ちようはあったのかもしれない。でも、神隠しの能力は未解明な部分が多すぎる。向こうの世界にいたはずだと感覚では確信しているのに記憶がないということも、もしかすると神隠しの副作用かもしれない」
「副作用?」
そうか。そういう考え方もあるのか。
俺は失った記憶を辿ることに意識がいくあまり、なぜ記憶がないのかという点については考えを巡らせていなかった。
「あくまで憶測よ。神隠しなんて検証しようがないのだから想像でものを言っただけだわ。確実だと言えることは、あなたは過去の世界に来て、戻り方が分からないという点だけ。そもそも三度目の神隠しが起きたとは断言できないはずよ。別の世界へ迷い込むことと、時空を超えて過去の世界へ行くことが同じ現象とは考えにくいでしょう。タイムスリップしたと言われた方がまだ納得できるわ」
矢継ぎ早のド正論に俺はただ頷くしかなかった。
「た、確かに……」
「あなたへの協力は惜しまないけれど、現時点でアドバイスできることはないわね。とりあえず当面の間はお父さんの書斎を使いなさい」
母はそう言うと、湯呑を持って立ち上がった。会話は終わったということなのだろう。
相変わらずだ。母のあまりに無駄のない所作や言動が、俺にはどうしても受け入れがたい。
「どうしてそんなにすんなり信じられるの」
一番の疑問が口をついて出た。
「どうして……?」
聞いたことのない動物か何かの名前のように、母は呟いた。言葉の意味がわかっていないような反応に俺は驚いた。何を聞いてもすぐに正しい答えを返す母が、答えに窮するほどの質問だったのだろうか。
「質問の意味がわからないわ。あなたは母親に嘘を吐くような人間ではないでしょう。信じるも何もないわ、あなたが私に言うことはすべて事実なのだから。それとも、あなたの言うことを信じない方が都合が良かったのかしら」
そこまで言うと、母は湯呑を洗い始めた。一分も経たない内に洗い終えた湯呑を食器棚に戻し、再び俺の前で正座した。
「今から七年前、あなたからすれば十年前に神隠しは起きている。これは揺るぎない事実。今更神隠しの存在を疑うのはナンセンスでしょう。断言するけど、当時のあなたは世界中のどこにも存在していなかった。手は尽くしたけど見つからない、手がかりさえない。荒唐無稽なようだけど、次元の異なる別の世界に行ったとしか考えられなかった。実際、半年後にようやく私たちの元に帰ってきたあなたは半年前とはまるで別人だった。あなたは覚えていないでしょうけど、会話することも困難だったわ。理解不能な言語を操り、人間離れした身体能力を発揮していた」
「な、なにそれ……。そんな話、全然……」
全然、覚えていない。
俺の記憶は一体どうなっているんだ?
「あれほどの変化は単なる行方不明では説明がつかない。常識では計り知れない体験があったと考えるのが妥当でしょう」
「頼む、教えてくれ」
俺は前のめりになって母に懇願した。
「最初の神隠し……俺はどこで消えて、どうやって帰って来たのか。そして帰ってきた俺の変化について。知っていることを全部話してくれ」
そこまで言った時、がちゃん、と音がした。
玄関の扉の音だ。
「ただいまー」
この家にただいまと言って入ってくる人間は、母を除けば一人しかない。
俺だ。




