第四十三話 黄泉還る魔犬
恐ろしく静かな時間が流れている。
先刻まで冷気を撒き散らしていた威圧的な態度はどこへやら、今の死神にはどこか紳士然とした振る舞いさえ感じさせられる。より一層と死神の名が相応しい存在へと昇華しているようだった。
死神はゆっくりとこちらに近付いてくる。
私を持つマーブルの手の力が徐々に強まる。私と同様の感想を抱いたのだろう。この娘が緊張するなど珍しいこともあるものだ。
無理もない。これほどの妖気を放つ存在だ、向き合うだけでも相当な精神力を消耗するだろう。並の人間ならとうに意識を失っている。
「はぁっ、はっ、はっ……」
パルテスの呼吸は荒く、今にも膝から崩れ落ちそうだ。停車レバーから手を放さないようになんとかしがみついている。この人間もまた多少なりとも魔力を扱う者。妖気への耐性はあるが、さすがにきつそうだ。
パルテスさん、とマーブルが声をかける。パルテスは答える代わりに首を縦に振った。
「あの仮面、欲しいです」
一瞬、時間が停止したような錯覚に見舞われた。
あの仮面が欲しい?
え、なに言ってるの、この人。
「え……?」
かわいそうに、パルテスは目を開けているのも辛そうなのに、わけのわからない女の意味不明な感想に付き合わされている。
「なかなかのデザインです。死神はどこで手に入れたのでしょうか。この列車のどこかにあるなら探しに行きたいです」
そんな場合じゃなさすぎる!
マーブル、このまま死神が近付いてきたら本気で死ぬよ。
あの氷漬けの二人のことも忘れたわけじゃないでしょ。
「忘れていません。でも氷を解かす手段がありません。そして逃げ道もありません。列車は止まらないから切り離しもできません。死神を殺せと言ったのは本です。なんとかしてください」
だ、だって、列車が止まらないなんて思わないから……。
いや、まあ、致し方ない。どうせ少しだけ力を貸すつもりだったから良しとするか。
マーブル、私の新しいページに大きく円を描くんだ。
「こうですか」
シャッ、と素早く大きな円が描かれる。ちょっと、なんか、雑だな。
「もう一回描きますか」
いや、大丈夫だけどさ……私を宙に掲げて。
「こうですか」
マーブルの頭上に掲げられたタイミングで防御壁を張った。
「これってシールド?マーブルちゃんがやったの?」
「シールド?」
防御魔法のことだ。死神の威圧を遮断したことでパルテスも少し元気を取り戻したようだ。
「本の力だそうです。こんなことができるなら最初に説明してください」
いやいや、最初の時点ではなにもできないんですよ、これが。魔力がないとなにもできないから。
マーブルがこれまで落書き……もといスケッチしただけで顕現していない絵があっただろう。現実に現さなかった絵の魔力は本に蓄積される。つまりこの防御壁はマーブルがこれまでスケッチした分の魔力を消費して作ったんだ。
ちなみにマーブルがシールドのことを知っていて、ちゃんとイメージして描いたのなら、蓄積分の魔力は消費せずにシールドを張ることができたんだけどね。
「私の落書きがこれに変わったんですか?」
落書きって言って良かったんだ。はい、そうです。
これで蓄積分の魔力は全部使ったけど、あの死神の顔の絵は魔力がなくても問題ない。ただ……。
「あのかっこよい仮面ですね」
そう、あのかっこよいかわからない仮面だ。
死神が黒い仮面を装着した意図は明らかだ。自らの顔を隠し、また描かれた顔を見ないようにするためだ。仮面は口元だけが露わとなっており、それ以外の部位、頭頂部から顎下まで仮面で覆われている。
観察した限り、あの仮面は強い妖力で生成したものだ。人間の膂力で破壊することは不可能だ。魔法か、特殊な武具でなければ傷一つつけられないだろう。
「魔法は使えませんし、そんなもの持っていません」
そうだろうね。ちょっと待って、まだ喋っているから。
この仮面をなぜ今まで使用しなかったのか。理由は簡単だ。もともと死神が持っていた能力ではなく後から付与された能力――歴史の筆から妖力を得たのだ。死神から迸る妖気には筆独特の魔力が宿っている。
その事実には少なからず驚かされた。ほんの一部とはいえ、筆から力を吸収し自分の妖気変換するとは。死神の名は伊達ではないということか。
「れきしの筆……?」
そう。死神がどこかに隠し持っているはずだから、私がこのシールドを張りながら観察しよう。そして筆を見つけたら位置を教えるから、なんとかうまく奪い取るんだ。
ただ、死神自身の強まった妖気に紛れて筆が探しづらい。だからマーブルもパルテスも、観察していてほしい。
「マーブルちゃん、死神がもうすぐそこに――」
ぴと。
死神の白い手が防御壁に触れる。
私は目前の死神から筆の気配を探る。
おかしい。ここまで接近しているのに、筆の気配の出どころが特定できない。
私がまごついている間に死神は次の手を打っていた。奴は防御壁から手を放すと、その掌から冷気を発し始めた。また凍らせる気か、ワンパターンな戦法だと断定するほど私は楽観的ではない。案の定、死神が冷気を発した狙いは別にあった。
――なるほど、氷の槍の精製か。
死神は槍を回転させると、マーブルの眼前にある防御壁に鋭い突きを放った。
バキィン、という破砕音。槍の先端が砕けた。
死神は再び槍を回転させ、冷気を槍に収束させる。新品に戻った氷の槍から強烈な刺突が繰り出される。槍の使い方をも学習しつつあるのか、今度は槍は砕けなかった。
まずい状況だ。このまま攻撃を続けられたら防御壁が壊される。そして壊された瞬間が二人の最期だ。
こうして冷静に状況説明しながらも、筆の在り処を探っているが……。
「仮面……」
そう言ったのはマーブルだ。
「仮面の裏側はどうなっているんでしょう」
なんの話をしている?
まさかこの期に及んでまだ仮面が欲しいとか言わないよな。本気でそんな場合じゃないぞ。
「それが筆だという自信はないですが、顔と仮面の間になにかあります。それは間違いないです」
それが本当なら仮面を破壊するしかない。
しかしその手段がない。
私が防御壁を展開している間はマーブルは絵を描けないし、パルテスにはレバーを押さえていてもらわないと列車が元のスピードで動き出す。そうなったらもう時間は一分もないだろう。
一手、どうしても足りない。
「イッチさま」
いや、私が言っているのは『一手』であってイッチでは――。
「え?え?なになに?」
氷の柱から立ち昇る蒸気にパルテスが戸惑っている。私もだ。なんだあの蒸気は。
蒸気の奥から呻き声が聞こえる。
「イッチさまです。氷から脱出できたのですか」
そんな馬鹿な。
なんの魔力も持たない人間が自力で死神の呪縛から逃れたというのか。
「うぐぐ……ぐぅううう……」
それが苦痛に満ちた呻き声ではなく、獰猛な獣の唸り声だと気付いたのは蒸気が晴れた時だった。
「ぐぅうおおおおおおお!!」
死神に飛びかかるイッチの姿は、魔犬そのものだった。




