第四十一話 一炊の夢
二人を助ける方法ねぇ。もう面倒くさいから死神を殺せば?そうすれば列車からも簡単に出れるし一石二鳥だ。
「そんなことできるんですか?」
さっきイッチという男にペンをもらっただろう。新しいページに死神の顔を描いて見せつけてやるといい。正しく描けていれば死神は消滅するはずだ。
「驚きました。そんな簡単なことでいいんですね」
死神は死を司る存在だ。死を恐れる概念のない死神は、恐怖を知ることで力を失う。その恐怖とは自分の素顔を正確に捉えられることだ。だからマーブルのことが嫌いなんだ。自分の顔を見られるのが怖くて。ましてや、描いた絵が永遠に残り続けるこの運命の本に描かれてみろ、見た瞬間にショック死するだろう。
「よくわかりませんが、わかりました。とにかく死神の顔を描けばいいんですね」
そう。そして、急いだ方がいい。あと三分ほどで列車は黄泉の国へ入る。黄泉の国に入ってしまったら助かる手段はないからね。
目の前を無数の泡沫が立ち昇っていく。
シャボン玉のような一際大きな泡に触れようと手を伸ばすと、ぐるん、と身体がゆっくり一回転した。重力が、空気の抵抗がなにかおかしい。
まるで水の中にいるみたいな――水?
呼吸ができない。身体が凍えてうまく動かせない。
どうしてこんなところにと思考を巡らせている余裕さえない。もがこうとするほどに身体は暗い冷たい海の底へ沈んでいく。
ああ、瞼が重い。眠りたい。
「おい、犬房!」
びくっ、と身体が反応する。
「は、はい!」
寝ぼけ眼のまま慌てて返事する。びっくりした、なんだ急に。
「ちゃんと聞いていたのか!前に出ろ、解け」
いや、聞いていませんよ……。
そんなの明白じゃん。爆睡してたじゃん、俺。
黒板の前に立ってチョークを持つ。数式の羅列を一瞥した後、すらすらと答えを書く。
チョークを置き、仏頂面の数学教師に一礼した後、自席に戻った。
「いや、全然違うからな!?」
「あれ」
「なに、あっさり正解しているような雰囲気を出してんだ!」
教室に笑いが起きる。
「びびったー、イヌすげーじゃんと思った」
「天才キャラかと思ったww」
「イヌちゃんオモロー」
みんな笑っている。良かった、良かった。今の返しで合っていたんだな。
俺は人の笑顔が好きだ。人が笑っていると良い気分になる。子どもの頃はお笑い芸人になろうと思っていたくらいだ。
でも、ある時俺は友だちに怪我をさせてしまった。ほんの数秒前までそこにあった笑顔を俺自身の手で奪ってしまった。明るい空気が一瞬にして暗くなった、あの反転は今でも軽いトラウマだ。
以来、なにをしても空回りするような冴えない日々を過ごしてきた。
■■■■と出会ったのはそんな時だ。俺は■■■■の笑顔を――
「……あれ?」
名前が思い出せない。
あ……え!?待て。
俺はなんでここにいるんだ!?
「まだ考えてるしww」
「ったく、お前はもういい。本棒、お前が解け」
「えーなんで私が……」
なんで教室に、ていうか授業中!?
これは現実か?
待て待て待て、落ち着け、落ち着け。
ええと、俺は……こんなことをしている場合じゃないんだ。
なんだ?頭にモヤがかかっているみたいだ。はっきり思い出せない。
でも、ここにいるのは変だ。おかしい。俺はこんなところにいるはずがない。
「よし、そうだ。犬房、これが正解だ。ちゃんとノート取っとけよ」
ノートなんか持ってないし!
「……先生、保健室に行きます」
「ああ?なんだ、行きますって。許可してないぞ」
「ちょ、ちょっとあの、考えすぎて、頭が!あ、知恵熱かな。ちょ、ちょっと失礼します」
教室の戸を開けて一歩踏み出した時、俺は荒野に立っていた。
荒野??
「はあっ?」
後ろを振り返っても、さっきの教室はどこにもない。
神隠し……じゃない。これは違う。そういう感覚じゃない。
「構えろ」
気付くと、目の前にガタイのいい長身の男が立っていた。男は頬から首にかけて大きな傷跡があり、その巨躯よりもさらに大きな剣を構えていた。俺はその男の顔に見覚えがあった。
閉ざされていた記憶が蘇る。
「あなたは……師匠ですか?」
「ああん?今頃なに言ってやがる。また記憶喪失か?」
「またって……え?どういうことですか?いやもう、なにがなんだかですよ!」
俺は文字通り頭を抱えた。
なんだろう、目的がすっぽり抜けて落ちてしまっているような、この気味の悪い感覚は。
わけもわからず俺は焦っている。とにかく戻らなければ。でもどこに?どうして?
そんな思いで頭が一杯で、動悸が激しくて落ち着かない。
「ようわからんが、お前、死にかけてんじゃねーの?」
「ええっ?」
「知っている限りのことを話してみろ」
大剣を地面に突き刺し、どすんと腰を下ろした師匠を見て、なんだか込み上げるものを感じた。
俺は言われた通り、自分の頭の中を吐き出すように師匠に話した。
なぜか海?の中で溺れそうになっていて、眠ろうとした時には名前を呼ばれて目を覚ました。そこは教室で、見知った同級生や教師がいた。なにか違和感があって教室を出ようとすると、ここに来た。大まかにまとめてみても、わけのわからない話だったが、師匠は力強く頷くと、こう言った。
「走馬灯ってやつだな」
「走馬灯って、あの、死にかけている時に見るっていう」
「それだ。俺やお前の知人はお前の脳内で作り出したものだ。本来の俺ならこんな悠長にお前の話なんか聞いたりしねーよ」
確かにそうだ。師匠は俺が話し終わるまで黙って聞いているような人間じゃない。
俺の記憶が曖昧なせいで、師匠の性格が微妙に変化している。
「なら話は早い。さっさと戻れ」
そう言って師匠は立ち上がった。つられて俺も立ち上がる。
「で、でもその戻り方がわからないんです」
「ここはお前の頭の中だぞ。戻る方法だあ?こんな簡単な話はない。よく考えてみろ。それに、だ」
大剣を抜くと、切っ先を俺の眉間に向けてきた。
「本気でヤバい時に一度だけ使える技を教えてやっただろ。あれをうまく使えばいかなる困難も切り抜けられるはずだ。現に、あれを使ったからお前は元の生活に戻れたんだろ?おっと、そういや」
なにか思い出したように師匠は懐を探った。中のものを取り出し、俺の方へ投げつけて寄越す。
「干し肉の余りだ。くれてやるよ。せいぜい足掻くんだな。じゃあな」
言いたいことだけ言って、師匠は荒野の果てへと消えていった。
俺は干し肉を貪った。
「――っは!」
次に目を覚ました時は、さっきの海の中だった。
泡沫の立ち昇る方向、光の差す水面へと俺は泳いだ。
マーブル。デン。遅れてすまない。
今、いくぞ。




