第三十四話 マーブルの待ち人
ジャケットを脱ぎ、ライターで火をつける。それなりに値が張る代物だったが、命には代えられない。なにしろこの極寒地獄だ。扉の内側にいても、至るところの隙間から這いずる冷気が急速に体温を奪っていく。
「まま、まずは、こちらで、だっ、暖を、とりましょう」
マーブルとパルテスに声をかける。全身が芯から冷えているせいで会話も困難だ。
「さぶいぃぃぃ~~!」
「寒いです」
二人は身を寄せ合うようにして火元へ手を伸ばした。
「マーブルさん。その腕は直接温めないように。皮膚の感覚が戻るまでぬるま湯に浸けておくのがベストです」
医学には疎いが、凍傷の応急処置は心得ている。ぬるま湯がなければ人肌で温める方法もあるそうだが、あいにくこちらは死人だ。温もりがない。体温も呼吸も脈拍もない霊体の我らに寒さを感じさせることが死神たるゆえんと言えよう。死神の冷気は魂をも凍てつかせる。
「ぬるま湯なんて、そんなのどこにあるの」
パルテスが辺りを見回しながら呟く。
「厨房に戻るしかありません。我らとは違いマーブルさんは生身ですから凍傷は放っておけない」
「無茶ですよ、タブレーさん。もう絶対に廊下には出られない」
パルテスは膝を抱えながら断言すると、顔を膝に埋めた。
「確かに状況は非常に悪い。死神の冷気がこれほどとは思いませんでした」
死神は魂を吸う。それ以外の方法で死神が人の命を奪うことはない。ゆえに、冷気はそのための足止め的な手段でしかないと認識していた。しかし、この冷気は明らかに足止めの範疇を超えている。これほどの低温で通路を歩こうものなら、目的地に辿り着く前に足と床が一体化してしまい、魂を吸われる前に凍結してしまうだろう。
「マーブルさん、死神と遭遇した時のことを話してくれますか」
「ええと。通路で一度会いました。その後、お肉を食べていたら急に現れました」
「急に?鎖の音は聞こえなかったのですか?」
「はい。いきなりお肉が凍って悲しかったです。まだ食べている途中だったのに」
「そんな場合じゃないでしょ!」
マーブルの言葉に、パルテスはぱっと顔を上げた。
「腕!腕が凍っているのに!」
「そうなのです。お肉だけではなく私の腕も凍りました。左手しか使えません。いつも絵を描いているのは右手なので、凍るなら左手の方が良かったです」
「なに言ってるの。それに、この本に絵を描くならペンを持っていない方の手も使うでしょ。ちゃんと片手でしっかり押さえないと線がブレちゃうよ」
「あ。そうですね」
なんの話をしているのだ。事態は一刻を争うというのに。
このマーブルという少女が本当に選ばれし者なら、その手は国宝以上の価値を持つ。こんなところで失うわけにはいかない。
「すみません、話を戻しますが。食事中に死神が突如現れた、なんの前触れもなかった、とのことでしたね。食事の前に一度会ったと聞きましたが、その時は魂を吸われませんでしたか」
「吸われていません。なぜか悲鳴を上げていました」
思わずパルテスと顔を見合わせた。
「あれはやはり死神の声だったのですね。それにしてもよく逃げられましたね」
「はあ。これは私の想像なのですが、死神さんは私の魂を吸うことはできなかったのではないでしょうか。理由はわかりませんが」
マーブルは顎に人差し指を当てながら話す。
「死神さんはそれが悔しくて、あのような悲鳴を上げたのかもしれません」
「く、悔しくてって……。絶対そんな感情とかないと思うけど」
「わかりませんよ。死神は謎の多い存在です。もし、マーブルさんの言う通り、本当に魂を吸うことができなかったとすればこの強力な冷気の発生にも説明がつく。その場合は死神自身の意思で冷気を強めているという見方ができます。今、考えるべきはもう一つの能力。突然現れた、という能力のことです」
私は弱まった火にライターのオイルを注いだ。炎が勢いよく立ちのぼる。
「死神の能力の一種――たとえば一度発見した者を追跡、その者の近くに即時接近できるような能力が発現したと考える場合ですが、その場合の対処法は一つ。マーブルさんが車両の最後尾へ移動し、死神を充分に引きつけてから当該車両を切り離すこと。無論リスクは大きいですが、成功すれば全員が助かる。幸いなことに、あの死神の知能はそれほど高いとは言えない。こちらの目的には気付かない公算が大です」
「ほうほう」
わかっているのかいないのか、マ-ブルは頷くばかりだ。
「問題は、死神の能力ではない場合です。これがもっとも厄介」
ずれ落ちそうになる眼鏡のフレームを指で持ち上げる。またずり落ちそうなので外すことにした。
「死神の瞬間移動が魔法によるものだった場合。その魔法使いを見つけだし、叩き潰す必要があります。いくら死神から逃げようと誘い込もうと、ころころ居場所を変えられては作戦が成立しない」
「タブレーさん、死神自身がそういう魔法を使ってる、なんてことは?」
パルテスが問う。そんな可能性は私も真っ先に検証した。
「ならば普段の巡回から多用しているはず。しかし、そんな話は聞いたことがない。我々に死神をけしかけてくる悪い魔法使いが紛れている可能性がある、と考えた方が自然なのです」
そして、その仮説が当たっているとしたら、狙いはやはりマーブルだろう。いや、というよりも彼女の持つ本の方か。
彼女はなぜこの列車に来てしまったのか。経緯は説明してもらったが理由は未だに判然としない。
飛躍した考えかもしれないが、悪い魔法使いがいるのならマーブルを列車に乗り込ませることまで策略だった可能性もある。
「考えてもわからないことは考えません」
すくっとマーブルは立ち上がった。
「とりあえず厨房に戻ります。腕をなんとかしないと」
「待ってください」
慌てて彼女を制する。これ以上勝手な行動を取られるわけにはいかない。
「この状況で通路に出ることはまさに自殺行為。厨房どころか隣の車両に移ることも困難でしょう。なにか策を考えなければいけません」
「もう火が消えそうです。完全に凍えてしまったら動くこともできません」
「それはそうですが……しかし、今ここを出たところでどうなるのです」
「そうだよ、マーブルちゃん。やめとこうよ。落ち着いて、なにか策はないか考えよう」
「策ならあります」
マーブルは、そのセリフを待っていたと言わんばかりに胸を張って答えた。
「イッチさまが来てくれれば私たちは助かります。信じましょう」
「そのイッチさまという方がどのような魔法使いかは存じませんが、列車はもう黄泉の国へかなり近づいています。いかなる魔法が使えようとも、今更列車に途中乗車できるとは思えない」
「イッチさまは魔法が使えません。ふつうの人です」
私は軽い目眩を覚えた。この少女はこの状況でなにを言っているのか。
「馬鹿な。それではこの列車に辿り着く方法は皆無じゃないですか。いや、辿り着いたところでなにもできやしない」
「ペンを持ってきてくれると思います」
「ペン?」
「私はここに来るよりも前にペンを落としてしまいました。きっとイッチさまはそのペンを拾ってくれる。そして私に届けてくれる。そんな気がします」
再びパルテスと顔を見合わせる。パルテスは困った表情で首を傾げるので、私もそれに倣う。
「ですから私は私にやれることをやっておきます」
そう言うと、マーブルは扉の外へ出て行った。
「あっ、ちょっ!」
私の制止などまったく聞かない。これで二度目だ。
「タブレーさん、あたしも行ってきます」
パルテスが吹っ切れたような表情で私を見る。
「そんな目で見ないでいただきたい。冷静沈着で正しい判断をしている私が、まるで臆病者のようではないか」
「そんなつもりないです。あたしもタブレーさんと同じ意見で、マーブルちゃんが正しいとは思えません。でも、放っておけないし。後ろを振り返るような子じゃなさそうなのに、不思議と後をついていきたくなるんですよね」
「自分が死人だからといって気楽に考えていませんか。列車を出れば生き返るかもしれないのに、その最後のチャンスをみすみす棒に振るようなことをして良いのですか」
扉へ近付こうとしたパルテスは足を止め、こちらを向くと妙に優し気な笑顔になった。
「生き返ることが幸せとは限りませんよ」
「えっ……」
どういう意味かと聞き返そうとした時には遅かった。
冷たい扉は再び開かれ、閉じられた。




