第三十二話 恐怖を知る通路
がたん、ごとん。がたん、ごとん。
マーブルは初めて耳にする音を頭の中で反芻していた。列車の車輪がレールの継ぎ目を通過する音だということは知らない。リズミカルに口ずさみたくなるのを我慢していた。
一歩一歩、少しずつ冷気が増していく通路を進む。その先に冷気の発生源、死を司る者の存在がいる。しかし、マーブルが歩みを躊躇うことはなかった。
パルテスやタブレーたちには言わなかった本音がある。
マーブルは死神を描きたい。
その存在はヤオから聞いたことがあるが、自分の目で見たことはない。現時点でのマーブルの技能では、見たことのないものは描くことができない。マーブルが死神を描くためには、その目で見るしかない。
恐怖を知らないマーブルにとって自分の生命は最優先すべきものではない。未知なるものの姿を捉えて描くことは、食欲と同等以上の欲求といえる。
マーブルはいくつもの部屋の扉が並んでいる通路をさらに奥へ進む。
じゃら……じゃら……
かすかな金属音がマーブルの耳に届く。
刺すような冷気がマーブルの全身を震えさせ、がちがちと歯が鳴らした。
マーブルは困った。この状態で死神を見ても描くことはできない。凍えるあまり、まともに筆を持てそうにない。それ以前に書くものがない。目を覚ました時、持っていたのはこの本だけだ。なにか書くものをどこかで調達しなければならない。
「ええと」
なんだか色々やることがある。マーブルは極寒に震える指を折りながら、自分のやるべきことを整理した。
「死神を見る。お肉を食べる。書くものを探す。死神を描く。やることがたくさんです」
思いついたのはこの四つの行動。
書くものがない以上、マーブルとしては食欲を優先させたいところだったが、鎖の音が聞こえている。死神はもう間近にいる。
まずは死神の姿を確認してからだと歩を進めようとしたが、そこから先へは容易に進むことができなかった。通路が極端に狭くなっている。つま先しか入らないほどの細すぎる道にマーブルの歩みは止まった。その通路の最奥に全身黒装束の死神がいた。
身長が異様に高い。2メートルは確実に超えている。後姿はひどく細身だ。死神の身体には幾重ものチェーンが絡まっていて、その内の一つが床を引きずっている。その異様な姿に、マーブルは思わず息を呑んだ。なんとしても描きたいが、なにしろ書くものがない。早く書くものを探さなくては。
マーブルが死神に向かって身を乗り出すと、狭い通路が瞬時に元の広さに戻った。
「おお。不思議な列車ですね」
この現象の理由をマーブルは知る由もない。
死神の存在は生命体の根源的な恐怖を呼び起こし、大抵の生物は自身の意思で死神に近付くことさえ叶わない。頭では理解できなくとも細胞は知っている。近付けば死ぬ、と。
マーブルは恐怖心を知らないだけだ。自覚こそないが、マーブルもまた死を恐れる一つの生命体に過ぎない。認知できていない恐怖心が、通路を狭め、自身の歩みを止めさせていた。
細胞が発する警戒信号にマーブルは気付かない。
結果。
「――ぎっ」
錆びついた機械が作動するような音。あるいは小動物が息の根を止めたような音がすると、ぐるん、と死神の首が回り、こちらを向いた。
死神はこの時初めてマーブルの姿を目視した。
“彼”に自我はあるが論理的な思考など持ち合わせていない。あるのは絶望的なまでの食欲と、それを満たそうとする黒い意志。
マーブルは死神との距離を測る。自身の歩幅に換算して約六十歩。死神の姿を観察したいと切望していたマーブルは、気付けば背を向けていた。
「あれ?」
自分の意思とは無関係に動いた身体に困惑した。
「どうしたことでしょう。私はなぜ逃げているのでしょうか」
扉の空いていた部屋に逃げ込み、すぐさま扉を閉める。その瞬間、暗く冷たい風が猛烈な勢いで吹き込み通路を塞いだ。
ガタガタガタガタガタガタ!
あちこちの扉が激しく震える。
マーブルが逃げ込んだタイミングは間一髪だった。あと一秒、扉を閉めるのが遅ければ確実に死神に捕らえられていた。
扉から手を放すと、その場にへたり込んだ。
見たことのない生物。聞いたことがない現象。名前の知らない感情。
マーブルは自身の内側に拍手喝采を聞いた気がした。
「楽しくなってきました」
扉を無造作に開けそうとした。が、開かない。
「おかしいですね。たてつけが悪いのでしょうか」
持っていた本を腰のベルトに挟み、扉の取っ手に両手をかけ力をこめる。
「せーの」
思い切り開くと、バガン!と音を立て扉が壊れた。
「あ。凍っていたんですね。どうりで開かないわけです」
マーブルは壊れた扉を盾のように構えつつ通路に出た。
「わ。わわ、わ」
自身の鼓動の高鳴りにマーブルは驚いた。
全力疾走をしばらく続けた時とも、本を盗みために城に忍び込んだ時とも違う。
マーブルは胸に手を当てた。
「高まります」
その声を死神が聞き逃すはずもなかった。恐ろしい速度で舞い戻った死神はマーブルが盾にしていた扉を瞬く間に氷漬けにすると、その黒い手で粉々に砕いた。
この世ならざる冷気と鎖がマーブルの全身を包みこもうとする。
魂を喰らう。
その絶対的な本能に従おうとした時、死神は確かに見た。
「こんにちは。死神さん」
自分を見つめる、得体の知れない無垢なる瞳。
見据えられたところでなんの問題もない。相手は自分にとってなんの脅威にもなりえない存在。
ただの餌。そのはずだった。
しかし、この女の瞳。
「ぎぎぃぃいぃいぎぎいぃぃいぎぎぎぃぃぃ!!!」
死神は初めて聞いた自身の悲鳴に恐怖を覚えた。
思考力がもう少し備わっていれば考えたかもしれない。この女は一体何者なのかと。
「魂を吸うと聞きました。そんなもの、おいしいのですか?」
なぜ恐怖しない。死神は疑問を感じた。
「あなたの顔をよく見せてください。そうしないと絵に描けません」
なぜ自分に近付いてくる。死神は困惑した。
「さあ」
マーブルが差し伸ばした手に、死神は反射的に鎖を巻いた。死神はそのまま大きく口を開け、マーブルの魂を吸おうとした。
「お話は通じないようですね」
マーブルは鎖の巻かれた腕を強引に引っ張ると、死神はバランスを崩してその場に転がった。腕を回転させるように鎖を解くと、通路の奥へと進んだ。
「お腹がすいたのでお肉を食べてきます」
死神は体勢を立て直し、疑問や困惑を置き去りにマーブルの後を追った。




