第三十一話 移動の際はお静かに
死神のルールはこうだ。
①出会うと魂を吸われる。魂を吸い尽くされた者は消滅する。
②魂を吸われると一時的に身体能力が大幅低下する。一定時間が経てば回復する。
③近付いているサインは鎖の音と冷気。骨の髄まで凍えるほど寒くなる。
④大きな物音を立てるとすぐに姿を現す。移動の際は最大限の注意を払うこと。
⑤一度見つかるとどこまでも追いかけてくる。少なくとも列車内は。
あたしとタブレーさんは死神に関して知っていることを列挙した。
「ふむふむ、それは恐ろしいですね」とマーブルちゃんは頷いていたけど、それでもなお、
「お肉はどこにあるのでしょうか」と鼻を利かせていた。
彼女は恐怖よりも食欲の方がはるかに大きいらしい。いや、というよりも恐怖にひどく鈍感なのかも。欲求や好奇心に突き動かされるままに行動したからこそ、彼女は生身のままここに来てしまったのかもしれない。
「なにもわざわざ取りに行かなくても、タブレーさんからペンを借りればいいじゃない」
注文書に書き込めば料理が出てくるのだからと思っていたけど、あたしの提案はボツになった。
「料理が届けられる時間は決まっています。一時間前にランチが与えられたばかりですから、次の配膳まで五時間はあります」
「絶対に待てません。絶対に」
マーブルちゃんはゆっくりと首を振った。もちろん上下ではなく左右に。
彼女はどうしても扉の外に出ることを諦めないらしい。それならば、とタブレーさんは手帳になにかを書き込みはじめた。
「状況を整理しましょう」
タブレーさんは手帳のページを破って、あたしとマーブルちゃんに見せた。そこには、この列車の見取り図が記されていた。
黄泉の国行き列車『パラミダ』7号車(21車両編成)。
ここがあたしたち三人のいる車両だ。
厨房のある食堂車両は3号車。マーブルちゃんの求めるお肉はここにある。
「他の乗客から話を聞いた限りでは、パラミダ号が黄泉の国に到着するまでに要する日数は三日間。この列車は72時間運航のようです」
「えー。あと二日以上もこの列車の中ですか」
「いいえ、違いますよ」
タブレーさんはマーブルちゃんの不服そうなセリフを否定した。
「今は二日目の昼過ぎですからあと一日半です。黄泉の国に入国してしまうと現世に戻れなくなりますから、我々は一日半の間に完璧な脱出方法を考案しなければなりません」
「ふつかめ、ですか。パルテスさん、私は一日以上も寝ていたのですか」
「ううん、マーブルちゃんは途中乗車だよ。車掌に運ばれてきたのを見ているから間違いない」
「マーブルさん、ここで目を覚ます前、どこでなにをしていたのか覚えていますか」
タブレーさんが尋ねると、マーブルちゃんは持っていた本を開いた。タブレーさんが、ずずいっと前に出て本を覗こうとする。けど、マーブルちゃんはすぐに本を閉じた。
「絵を描いていました」
「絵を!?」
タブレーさんの大声にあたしは身を強張らせた。
「どのような絵ですか?」
「石です」
「石?そ、それで、その、どうなったのですか?」
どうなった?どういう意味?
「どうもなっていません。ただ絵を描いていただけですから」
タブレーさんはなにか考え込むような表情で呟いた。
「そうか……魔法の筆で書き込まないと意味がないのか」
「あの、なんの話ですか?」
あたしが質問すると、タブレーさんははっと我に返った。
「なんでもありません。マーブルさんは絵を描いていたのですよね。それがどうして、この列車に乗ることになったのですか?」
「さっぱりわかりません」
タブレーさんは渋い顔であたしを見た。
「マーブルちゃん、なにか覚えていることはある?」
あたしの質問に、ええと、と彼女は首を捻った。
「絵を描いていると白い小さな獣が横切りました。あれはなんという獣か、イッチさまに聞こうとした時、ぱかんと地面から音がしました。地面には穴が開いていて、本が吸い込まれていきました。穴の奥に手を伸ばすと、私も吸い込まれたようです。その後はよく覚えていません」
あたしとタブレーさんは顔を見合わせた。
「どう思います、パルテスさん」
「生身の人が迷い込んでしまう話は時々聞きますけど、そんな落とし穴みたいな話は聞いたことないです」
「私もです」
「もういいですね」
マーブルちゃんが立ち上がる。
「いよいよ限界です。私はお肉を食べてきます」
「もう少しだけ待ってください。まだ廊下が冷えています。漂う冷気が薄れた時以外に移動のチャンスはありません」
「少しくらい寒くても平気です。一気に駆け抜ければ――」
「ダメだよ!」
あたしはマーブルちゃんの言葉を遮った。
「車両を移動する時は慎重に歩かないとすぐ死神が来るって言ったじゃん。つまり走れないってこと。ゆっくり歩かなきゃいけないのに、通路があんなに冷たかったら移動もままならないよ」
「はあ。そういうものでしょうか」
「食堂車両までの3車両分を移動するのです。決して一気に行こうとしないでください。こちらはゆっくり歩いていくのですから、その間に死神は必ず追いつきます。いいですね、少しでも冷気を感じたら、ただちに客室へ逃げ込んでください。鎖の音が聞こえてくるのは、お互いの姿を認識できるほど近距離にいる場合ですから、そうしてから逃げ込むようでは遅いのです。
また、部屋に逃げ込む際も、扉を叩くなど大きな物音を立てるのは厳禁です。先ほどパルテスさんがそうしたように、速やかに扉の内側、部屋の中に入ってください。その部屋の者にどう文句をつけられようと、冷気が収まるまではその部屋にいてください。部屋の中であれば、どんなに騒ごうと死神は入れないのですから。とにかく移動の際はお静かに」
「……はい。では、行ってきます」
マーブルちゃんは、ぼうっとした瞳でお辞儀した。
「ちょっ、ちょっと私の話を聞いていました?今はまだ早いですって」
「すみません。話が長くて半分くらいしか聞いていませんでした」
マーブルちゃんが扉を開けた。かすかな冷気が部屋の中になだれ込む。
「では行ってまいります」
「ちょ、ちょっ、ちょっ!」
タブレーさんは小声で部屋に戻るようマーブルちゃんに指示したけど、彼女の耳、いや頭には入らなかった。マーブルちゃんは一歩ずつ、しかし素早く、食堂車両へ向かっていった。
「マーブルさん……!マーブルさんったら……!」
タブレーさんは扉に手をかけたまま、通路の奥へ身を乗り出している。あたしは見かねてタブレーさんの襟を引っ張って部屋の中へ連れ戻した。そしてきちんと扉を閉める。
「こうなったらマーブルちゃんを信じましょう。あの子にはなにか不思議な魅力を感じるし、きっと大丈夫ですよ」
このタブレーさんという人は、自身を一流記者と名乗っているけど割と簡単に狼狽する。全体的にうさんくささが漂っているけど、どこか憎めない人だと思う。
そのタブレーさんが、頭に手を当てて、困り切った表情をしていた。ずり落ちそうな眼鏡を落ち着きなく指で直している。
あたしは仕方なく尋ねた。
「どうしたんですか?マーブルちゃんのことなら、そんなに心配しなくても」
「逆なんですよ。どういうわけか」
「え?」
「この見取り図、見ましたよね。私、見せましたよね」
「え、は、はい。見せられましたけど……」
なんだなんだ。このしょぼくれた表情に見合わない圧迫感は。
「だったら、なにゆえマーブルさんは通路を逆に進んだのでしょうか」
「逆……?」
「今から向かうのは厨房のある4号車ですよね。だったら、行先は6号車側でしょう。8号車側に進みましたよ、あのお方」
「8号って……」
あたしは慌てて見取り図を確認した。客室のある車両は5号車から12号車。あたしたちがいるのは7号車。三車両分、先頭車両へ進めば4号車の厨房へ行ける。でも反対側は。
「後部車両の食堂車両は14号車です。なにゆえ、わざわざ遠い車両へ向かったのでしょうか。しかも、今そちらには死神が巡回してるというのに」
その質問に答えられる人物はいなかった。たぶん、世界のどこにも。
「移動の際はお静かに…。移動の際は、お静かに…」
小声で呟きながら進むマーブルの足元は、どんどん寒くなっていった。




