因縁
1
4月23日木曜日の夕方。
放課後、学校が終わり、香湖は亜弓と共に、阿野寺に通じる石段を登っていた。
亜弓は何時もの如く一人で好き放題取り留めなく喋っている。
「ねえカコ。お母さんったら酷いんだよ!」
香湖は無言で聞いている。
「昨日ね学校から帰って、楽しみに取っておいたアイス食べようと冷凍庫を開けて見たら無いんだよ!」
香湖は気だるそうに頷く。
亜弓は構わず続ける。
「それでお母さんに云ったんだよ。私のアイス知らない?て。そしたらお母さん何ていったと思う?」
香湖は全く興味なさげに首を横に振る。
「食べちゃったって!しかもだよ!二つもだよ二つ!」
亜弓はさも大事のように指を二本立てて香湖の前に突き出しながら言う。
「一つならまだ許せるよ。人はハーゲンダッツの誘惑に元来逆らえないように出来ているからね!
でもさ二つは無い!あり得ないよ!だってそのアイス私が買った物だって分かってた筈なんだからお母さんは!
それなのに、それなのにだよ!私に一つも残さないで食べるなんて、これは人間業じゃないよ!畜生だよ!」
香湖は呆れるように溜息をついた。亜弓はそんな香湖に食って掛かる。
「あーあ。カコも分かってくれないんだ…。どうせ『高が食べ物の事でぎゃあぎゃあと意地汚い』
とか思っているんでしょ?」
香湖は躊躇いなく二度頷いた。
「まあ良いよ!カコがそう思うんならそれは許せるよ。まだ。過去が食べた訳じゃないからね。
でも今云ったことそのままお母さんが私に云ったことなんだよ!
これは許せないよ!これは怒るよ!私が二個も食べるなんて酷いって云ったらお母さん
『食べ物の事でそんなにわめいて意地汚い』って云ったんだよ!
私はそれで爆発したよ!怒り心頭したよ。丹田錬気攻めの型で私が返して!今すぐ返して!
て云うとお母さんこう云ったの『返しても良いけどその代わり私が今まで亜弓を育ててきた分の養育費返してくれる?』
だって!カコ!これとそれとの話は全然別次元だよね!?江戸の仇を長崎で撃つ見たいなモノだよね?
私悔しくって、悲しくって、今日はまるっきり授業に身が入らなかったよ!」
香湖は心の中でそれは何時もの事だろうと思ったが口には出さなかった。
そんな事を思っていると阿野寺の門が見えてきた。
「そういえば今日だったよね?若御院の妹さんが来るの」
阿野寺院の山門を潜りながら亜弓はさっきのハーゲンダッツの
憤りはけろっと忘れたような機嫌の良い声で香湖に云った。
香湖と亜弓は本堂の裏にある仏殿に着くが、その仏殿の扉の前で数人の犀星高校の制服を着た
男子生徒が戸惑いがちに佇んでいるのが見えた。
それは阿野寺の常連達で皆何故か仏殿に入ろうとしなかった。
亜弓は香湖に「皆何してるんだろ?」と不思議そうに云うと、男たちの方に駆けて行った。
香湖はその後に着いて来たが、男子達に事情を聞いた亜弓は香湖に仏殿の扉を指差して
「錠が下りてるんだって」とやや戸惑いがちに云った。
今までこんな事は一度として無かった。
たとえ叢雲が不在の時でも鍵が掛かっていたことは一度も無かった。
だからその違和感に常連達、そして亜弓は戸惑っているのだ。
そして香湖もまた戸惑っている者の一人だった。
香湖は亜弓を半ば押しのけるように仏殿の扉の前に進むとその大きい南京錠を掴んだ。
南京錠はまるで香湖たちを拒絶するかのように重く冷たかった。
亜弓は「多分、若御院の妹さんが鍵を預かってるんだよ。
で、学校から帰るのが遅れたか何かでまだ開いてないんじゃない?」
と明るい声で云った。それはまるで自分自身に言い聞かせている様だった。
香湖は亜弓の方を振り返ると「そうだな。少し待ってみよう」と云ったが、その声は少し浮かなかった。
それから三十分ほど経ち辺りが薄暗くなると、男子生徒たちは諦めるように帰路につき始めた。
犀星高校の男子生徒で常連の一人相良は帰り際に香湖と亜弓に
「ヤッパリ、叢雲さんが居なくなったら、ここも終わりなのかな」と残念そうに云った。
「小遣い少ない俺にはありがたかったけど、
これだけ石段登って来て何の知らせもなく休みじゃ流石にやってられないよな」
と言うと数人の友人達と去っていこうとした。
丁度そんな折、本堂の方から誰かが仏道の方に向って来るのを香湖は見つけた。
それは丁度香湖達と同じ年代の少女であったが、身に着けている制服は犀星高校のブレザーでは無く
市内にある名門女子高校『私立南沢女子高等学校』の制服であった。
少女は香湖や亜弓、そして他の男子高校生を見回しながら、仏堂の方に近づいてきた。
その表情は何処と無く不機嫌で、挑発的だった。
少女は香湖達の目の前で立ち止まると腕を組み見下すように再び周りを見回すと
「わざわざ来てくれて悪いけど、今日でここは御しまい。
皆、ゲーム何か程々にして部活とか恋愛とか本当の青春を謳歌してね」
と云った。それは茶化すようなからかう様な響きを持って香湖の耳に聞こえた。
相良はあっけに取られたように少女に呟くように聞いた。
「…誰だよ、お前は?何の権利があって…そんな事を?!」
少女は蔑む様な瞳で相良を見ると嘲るような声で笑いながら
手に持っていたストラップ付きの鍵をこれ見よがしに指でくるくる回す。
そして鍵を握り締めると「人の家で権利を云々されるとは思わなかったわ」と云った。
そうして長い髪を後ろに撫で付けながら
「蓮華、私は叢雲蓮華よ」少女は溌剌とした声でそう自己紹介をするが
その表情には明らかに険があった。
亜弓は蓮華の方を見ると香湖にだけ辛うじて聞こえるような小さな声で
「叢雲って事はあの子が若御院の妹さん?すごく生意気そうだけど…」と呟いた。
香湖も蓮華を見つめながら「そうだな」と静かに答える。
少女は生意気そうな瞳を香湖と亜弓に向けると、口元に不敵な笑みを浮かべ香湖達の目の前に迫った。
香湖はじっと佇んだまま、目の前の蓮華を見つめていた。
蓮華は香湖に近づくとその顔をまじまじと見つめ、言った。
「あなたが相馬香湖ね?なるほど、兄さんの言ってたとおり根性の汚そうな人ね」
と少女は初対面でかなり失礼な事を言う。
香湖は少女の不躾さに多少面食らったように眉を顰めたが何も言い返さなかった。
隣の亜弓は香湖の耳元で「あれ、今この子すごく失礼な事言わなかった?」と疑問を口にする。
香湖は静かに頷く。
蓮華は亜弓のほうを向くと「ふーん。であなたが八州亜弓か。兄さんの言うように、ほんとに猫のように煩そうね」
とあからさまに挑発するような声で言った。
それを聞いた亜弓はむっとした表情で蓮華に詰め寄ると
「ちょっと、初対面でかなり失礼だよ。大体若御院が私達をそんな風に言うわけないじゃない」と怒気が篭った声で言った。
蓮華は生意気そうな笑みを亜弓に向けると「まあ兄さんは本当は貴方達があまり好きじゃなかったのよ。
だからここのゲームコーナーをほっぽり出したんだわ」
「うそだよ。そんなの出鱈目。若御院は約束してくれたもん。ゲームは置いて置くって」亜弓は食って掛かるように言う。
「そして誰がここのゲームを管理するの?兄さんは私に管理しろって言ったけどそんなのお断り。
私の迷惑も顧みずそんなのを勝手に決められたんじゃ堪らないわ。貴方なら分かってくれるでしょう。相馬さん?」
蓮華は話の矛先を香湖に向けたが香湖は何も答えなかった。
蓮華はかまわずに言葉を続ける。
「私は部活もしたいし、勉強もしたいし、友達と遊びたいし恋もしたい。
こんな山の中のお寺の中でゲーム機のお守りなんてそんなの拷問だわ。
例え兄さんでも私をそこまで束縛する権利なんてないわ。
誰が聞いても私の意見が正しいと言うと思うけど違う?」
亜弓は何も言い返せなかった。周りの者達も蓮華の言葉には何も言い返せなかった。
「大体ゲームがしたいのなら、ゲームセンターでも、いけばいいし自分の家ですれば良いでしょ?
わざわざ此処まで来てやらなくったっていい筈よ。それとも少ないお賽銭でタダ同然でゲームがしたいから
此処に来ているの?それなら尚更私はお断りだわ」
蓮華の言葉には本音の他に少しの切なさが篭っているような響きがあった。
亜弓は何も言い返せないのが悔しいのか、悲しげな表情を浮かべ押し黙った。
何か言葉を発しようとしたが蓮華の正論の前では何を言っても言葉が翳んでしまう様な気がした。
しかし亜弓は言葉を振り絞るように言う。
「で、でも。若御院は、約束したんだよ!」
「私の意志は無視してね」
そう言い放った蓮華の表情には勝ち誇った表情と共に明らかに憂いが表れていた。
その言葉を聞いた亜弓はもはや言うべき事を失い悲しげに俯いた。
「だから今日で此処は御しまい。さあ皆出て行って」
蓮華は周りにいる皆を見回しながら叫んだ。
相良達男子生徒も最早観念したようにぞろぞろと阿野寺から踝を返して岐路に付く。
一人また一人去って行くのを亜弓は悲しげに見つめていたが、やがてすがる様に香湖の方を見た。
香湖もまた憂うように去り行く者達の背中を見つめていたが亜弓の方を見ると静かに言った。
「亜弓、私達ももう行こう・・・」
「カコ、何で…私嫌だよ!」
「…仕方がないだろう…」
その声は悲しげに響いた。




