那由多
1、
どきどきランドの制服である黒いエプロン姿で
カウンターに寄りかかっていたアヤコの職務態度は怠慢も甚だしかったが
その所作や仕草は何故かどきどきランドの風景と調和が取れており自然な調和が成されていた。
寧ろこれこそが模範的なゲームセンターの職務態度だと言わんばかりの説得力があった。
最もスミレがそれを見た場合は雷が落ちる事は間違いないであろうが。
そんなアヤコの側らでは既に私服に着替えた大谷が、
日高を交え、先日の土曜日の一件の事を逐一話していた。
香湖と亜弓のこと。
上代達オセロット勢の事。
桜が初めてのプレイで上代に勝った事。
香湖と桜がスパ2で闘った事。
日高は陶酔したようにアヤコに三人の少女の事を説明する。
「兎に角強かったよ。相馬さんも八州さんもそして日野さんもね。
特に相馬さんは案山子位強いと思ったよ」
「そいつはお手合わせしたいものだね」とアヤコは嬉しそうに言う。
「多分、近いうちに闘えるよ」と傍らで聞いていた大谷はアヤコに言った。
「へえ。また来るって言ってたのかい?」
とアヤコは大谷に尋ねると大谷は「いや。でもネット…」
と言おうとしたところを日高が慌てて口を塞ぐ。
そして何事か訝しがるアヤコに日高は
「日野さんと再戦する事を約束していたみたいだからね」と慌てて言い直す。
アヤコは二人の話を聞き終えた時、自分の予感が間違いではない事を確信し心底楽しげに呟いた。
「…久遠、キミの驚く顔が漸く拝めそうだ」
そうしてアヤコは何気なく視線を店の入り口の方へ向けた。
そこに何かに導かれるように桜が現れた。
アヤコの心は少女のように高鳴った。
2
桜はやや不安げな面持ちで「どきどきランド」の出入り口付近に立ち店内を見回した。
どきどきランドの内には客の姿は殆ど見当たらず、
ただカウンターの前では、大谷と日高、
そしてエプロン姿のアヤコが雑談をしていたのが見られるだけだった。
桜はやや戸惑いながら遠目に三人を見ていたが、
やがてアヤコが桜に気づいた様で満面の笑顔で手を振って呼んだ。
大谷と日高も桜に視線を向けて笑みを浮かべ挨拶を交わす。
アヤコは桜に逢うと軽く頭を下げて開口一番謝った。
「この前は済まなかったね。あたしを恨んでるだろ」
この前の事とは当然、桜が助っ人として呼ばれたことを言っているのだろう。
桜は首を横に振ると「そんな事無いです。最初は嫌だと思ったけど…楽しかったです」
と微笑を浮かべ、本心から楽しそうに言った。
そこに大谷は口を挟む。
「ホントに案山子は時々非常識な事があるから
嫌なら嫌ってはっきり言わないと駄目だよ、日野さん」
そんな大谷をアヤコは呆れる様な視線で睨みつけながら
「お前に言われてもな」と冷たく言うと、桜に視線を戻し
「改めて、挨拶しよう桜。久しぶりだな。直接会うのはあの時以来だね」
桜とアヤコが逢ったのは、あの時、4ヶ月ほど前の冬、
福岡のゲームセンターで逢って以来の事であった。
「対戦相手になってあげたいが生憎仕事中でね」とアヤコは残念そうに言ったが
桜は首を横に振ると「実は、今日は泉田さんにお聞きしたい事があって来たんです」と言った。
アヤコは頭を掻きながら「アヤコで良いよ」と言って続けて聞きたいことは?と促す。
桜は少し考えると綾子の瞳を見つめて真面目な口調で言う。
「実は、アースガルドに付いて知りたいんです」
それを聞いたアヤコは目を丸くしてが、やがて愉快そうに笑い出した。
今度は桜の方が目を丸くする。
3
アヤコは一頻り笑うと「それ本気で言ってるのかい桜?」と言った。
桜はアヤコが何で笑っているのか分からず無言で頷いた。
「キミはラーメン屋に入る時、店の看板を気にしないタイプだろ?」
と益々分からない事を言ったので、桜は愈々意味が分からず目を瞬かせる。
「本気で分からないようだね」とアヤコは微苦笑を浮かべると
「ほら、冬にあたし達が初めて逢った所だよ。スパ2Xで闘った。あのゲーセンだよ。
あそこがアースガルドさ」と言った。
それを聞いた桜の心は振るえ、全身が泡立った。
余りにも出来過ぎた偶然だったからだ。
アヤコに会い、三九八に逢った場所がアースガルド。
兄が手紙で目指せと云っているアースガルド。
桜は最早疑わなかった。運命の歯車は確かに動き出した。
その運命の行き着く先に兄が居ることを桜は最早疑わなかった。
桜は静かに目を閉じた。
気持が逸った。何であの時、もっと回りに注意しなかったんだろう。
もしかしたら兄がいたかも知れないし、何か手がかりがあったかもしれない。
勿論そんな考えは突飛な事で在るのは分かっている。
あの時の桜は兄の置手紙の事は何も知らなかったのだ。
ぼんやりと取り留めのない事を考えていた桜にアヤコが話しかける。
「しかしそれは兎も角、アースガルドがどうかしたのかい?」
桜は少し言いよどむと「実は」と云って鞄の中を探り出すと手帳を取り出した。
そしてその中に大事そうに織り込まれていた紙切れをカウンターの上に広げる。
アヤコ日高、大谷は何が書かれているのかと覗き込む。
「えー何々…君がこのソフトを手に取る事があれば、願わくばアースガルドを目指すように」
アヤコは声を出して読むと「なんだいこれ?」と桜に尋ねる。
桜は兄の置手紙を発見した経緯を簡単に説明した。
アヤコに呼ばれ、二人の少女に逢い、闘い、共に闘う事を約束したその夜。
兄の部屋でサードのソフトと共に見つけた手紙。
桜の説明を聞いていたアヤコは小さく「成るほど」と呟く。
「それで、アースガルドの事が分かれば
キミの兄さんのことが何か分かるかもしれないと思ったんだな?」
アヤコの言葉に桜は静かに頷いた。
「桜、でもあたしはこう考えるよ。
アースガルドを目指せとは単にアースガルドその物を指すんではなく
もっと大きなものを云って居るんじゃないかな?」
「もっと…大きな物…?」と呟き桜は首を傾げる。
「アースガルドは、九州でも段違いにサードのレベルが高い。突出していると言って良い。
その実力は九州だけに留まらず、全国でも五本の指に入ると言われている」
桜は何も云わず聞いている。アヤコは桜の向こうに立ち、その目を見つめて云う。
「アースガルドに比肩しうる強さを身に着けろ」
それが兄の意思だ。と言わんばかりにその瞳は力強く桜を射る。
桜もアヤコの瞳を見つめ返す。言葉は要らなかった。
4
「でもアースガルドって噂じゃ、関東の遠征者に大敗したらしいよ?」
傍らで聞いていた日高が不意に口を挟んだ。
それに対し大谷が「そう云えばこの前の上代と相馬さんもアースガルドの事を何か話してたよな。
何だか相当サードのレベルが高いゲーセンみたいな話だったけど、
そう聞くと案外大した事無いんだな」と云う。
それを聞いたアヤコは意外そうに日高の顔を見ると
「へえ、その噂を知っているなんて大したもんじゃないか」
と云ったがその口調は全く感心していない響きだった。
「でも、それだけでアースガルドのレベル云々は言わないほうが良いと思うよ」
そう云ったアヤコの目が異様に鋭かったのを桜は見逃さなかった。
日高は能天気に「なんで?アースガルドのプレイヤーは誰も勝てなかったって話だよ」
アヤコはそんな日高を無視すると、桜の方を向き「アースガルドの意味は知ってるかい?」と聞く。
桜は突然質問されて戸惑った。
余り神話やゲームの事は詳しくなかったが、アースガルド位は聞いたことがあったので
「…北欧神話に出て来る神様の住んでいる所ですよね」と思い出しながら答える。
アヤコは頷くと
「あたしもあんまり神話には詳しくないけど確かそういう意味だったね。神様の住む地アースガルド」
そう一人ごちると桜に「あたし達がスパ2で戦った場所は地下にあっただろう?」と聞いた。
桜は頷く。
「アースガルドの連中はそこをアースガルドとは呼ばない。連中はそこをミドガルドと読んでる」
「ミドガルド?」桜は鸚鵡返しに答えると、大谷が「ミドガルドって人間の住んでいる地だよね?」
と得意げに答えその神話の知識を披露したが桜は特に関心を見せずアヤコの次の言葉を待っている。
アヤコは大谷の言葉に頷くと刺す様な冷たい視線で桜を見つめ
「あそこの連中は待っているのさ。神に選定される事をね」
と云った。そして冷やかに言い放つ。
「久遠零という偽りの神にね」
アヤコの放ったその言葉には刺々しい皮肉な響きがあるように桜には感じられた。
偽りの神 クオンレイ。
桜は自分に確認するように静かに呟いた。
5
アースガルド。
県内最強のプレイヤー達を要するサードの聖地でありそれは全国でも五指に入るとも言われる。
地下一階から地上七階まであらゆるゲームが在る総合的なアミューズメント施設である。
その地下1階にあるアーケードゲームコーナーは嘗て無いほど震撼していた。
ストリートファイター3サードストライク。
一人の男の連勝をアースガルドのプレイヤーは誰一人止めることが出来ないでいた。
その男、ユン使い那由他の連勝を示す表示は既に87を示していた。
那由他は心底残念そうに言う。
「アースガルドってこんなものなの?」
那由他の後ろに立つもう一人の男、刹那は冷然と「所詮噂などこんなものだ」
「久遠って人も逃げ出してるみたいだし、こりゃ晃の見込み違いだね。刹那?」
と言う那由他に刹那は無言で頷く。
そんな屈辱を前にしても、もはや誰一人那由他に乱入するものは無かった―――そして…
誰もが遠巻きに二人の男達を、畏怖と憎悪の目で見ていた。
那由他のユンの連勝の表示は87で止まっていた。
既にアースガルドのプレイヤー達は戦意を喪失したのか誰一人乱入しない。
退屈そうにcpu戦をプレイしていた那由他は
溜息をつくと後ろの刹那を振り向かずに言った。
「もう行こうか。刹那?これ以上は時間の無駄だよ」
と呆れるように首を横に振り立ち上がる。
静寂からざわめきが起こる。それは怒りのざわめきであった。
このまま返すな、そういう雰囲気が周りから発せられていた。
しかしだれも二人を止めようとはしなかった。いやだれも止められなかったのだ。
嫌というほど力の差を見せ付けられたプレイヤー達は
二人を黙って見送るしかなかった。
二人が立ち去ろうとした時、大衆のざわめきが僅かに変化し、
その視線が一斉に那由他たちから、奥にあるエレベーターに向けられた。
皆エレベーターの階数表示盤に眼を向けている。そのエレベーターは上昇していた。
階数表示が2階、3階、4階、と上昇を告げている。
それをアースガルドのプレイヤーは皆固唾を呑んで注視している様だった。
表示は5となり6となり、やがて最上階を示す7階の表示が光る。
するとおかしな事に、七階の表示の光が消え、階数表示板の光は全て消えた。
人々のざわめきは愈々大きくなった。それは異様な畏怖と期待の入り混じったようなざわめきであった。
やがて暫くすると7の表示が光、それは6に移動して5となり、4となった。
那由他と刹那も、周りの雰囲気の異常さに気づき、同じようにエレベーターを注視していた。
那由他は無邪気な笑みを浮かべて「何が起こるんだろう?楽しみだね刹那?」と期待交じりの声で云ったが
刹那は返答せずただエレベーターを見つめた。
やがて階数表示板はB1を示し、遥かなる高みから地下に至った。
エレベーターの扉が開く。
アースガルド、いや、人の地ミドガルドは静まり返った。
恰も沈黙して祈りを捧げて居るかの如く沈黙した。
視線の先には二人の男が居た。
一人は、美しい顔立ちの優男で涼しげな口元には霊妙な微笑が浮かんでいた。
全体の物腰は柔らかで、丁重だったがその裏には恐ろしまでの強さと自信が見え隠れした。
もう一人の男は、背が高く、筋肉質な体躯で、
切れ長の眼は無機質な三白眼で、その表情からは凡そ感情らしき物を読み取れなかった。
不機嫌そうに眉間にしわを寄せているが、それはその男の癖のようなもので
実際に不機嫌であるかどうかは矢張り分からなかった。
優男は愉快そうに周りを見回すと、画面に表示された87の勝利数に眼を留めた。
そして再び、沈黙する大衆を見回すと、その視線を那由他と刹那で止める。
そうして隣の三白眼の男に明るい声で言った。
「見かけない顔だ。君はどうだい?桐生?」
桐生と呼ばれた三白眼の男は視線だけをじろりと優男の方に向け無言で首を横に振る。
優男は三白眼の男にだけ聞こえるように小声で
「…さて、ヴァルハラに至る資格は或るのかな?」と呟き足を踏み出した。
ミドガルドの人間達は水が引くように畏怖を持って男の通り道を空けた。
その先には那由他と刹那が静かに佇んでいた。
6
優男と桐生は、那由他と刹那の前で立ち止まる。
ミドガルドの中央で対峙する四人。
優男が先ず口を開いた。
「まさかもう帰るつもりじゃないよな?」そう言って周りのプレイヤー達を見回した。
「ここで何勝しても何の自慢にもならないぜ?」
それを聞いた那由他は無邪気な笑みを浮かべて「じゃああんたに勝ったら自慢になるの?」と聞いた。
優男は意外そうに目を丸くしてやがて愉快そうに笑いながら
「さあ?試してみるかい?」と髪を掻き分けながら云ったその眼には不適な光が宿っていた。
そして鋭い眼光を隣の桐生に向けて「俺で良いな?」と聞く。
桐生は無言で頷く。
那由他は嬉しそうに刹那に「一寸は面白くなってきたかも」と囁くと
優男に向って「もしかしてあんたが久遠零って人?」と屈託無く聞く。
優男は笑みを浮かべ首を横に振ると
「いや、零は今日は居ない。彼女とデートだ。あいつはもてるからな」
とおどけるように云っうと「俺は氷室って言うんだ。氷室凍河」と自己紹介をする。
あからさまに残念そうな表情を浮かべた那由他に優男氷室は
「そんな顔するなよな。俺じゃ役者不足かい?俺こう見えても結構強いんだぜ?」
と云うと胸を叩いた。
那由他はその言葉に元気に頷くと「分かるよ。俺には。あんたは強い。そして後ろの人もね」
と言って桐生を指差しながら云った。
氷室はニヤニヤしながら桐生を見ると「良かったな桐生?」とからかう様に云ったが
桐生はじろりと氷室を睨んだだけで何も返事はしなかった。
「でも俺達、久遠って人と闘いに来たのに居ないないんだって…がっかりだね刹那?」
と那由他は心底残念そうに刹那に云った。
氷室は那由他の言葉を聞きながら視線を刹那に向けると
「お前達だろう、ここ二三日ここら一帯のゲーセンを荒らしまわっている奴らは?」と尋ねる。
しかし刹那は冷ややかな眼を氷室に向けただけで何も答えない。氷室は構わず続ける。
「別にお前達が何処で何をしようが俺達には興味は無い。
お前達が関東勢だろうが、斗激の予選の偵察をしようが、そんな事はどうでもいいさ」
飄々と言うと肩をすくめる。そして鋭い眼光を刹那に向けて
「ただこの地で予選を戦うのなら、フリーパスって訳にはいかないかもよ?」と云って片目を瞑る。
刹那は興味なさげに氷室を見ると「俺もこんな所には興味は無い」と冷たく言い放ち那由他に向って
「全ては晃の思い込みだった。さっさと終わらせて晃に知らせよう。ここには何も無いとな」と冷然と言った。
那由他は「そうだね」と言って小躍りするように筐体に向った。そしてまだ続いていたcpu戦を再開しながら
アースガルドの有象無象に囲まれる中、闘いが始まるのを待った。氷室が乱入するのを待った。
険悪な雰囲気に包まれるなか、氷室はゆっくりと筐体に向って歩き出した。
その口元には冷たい笑みが浮かんでいた。
7
「アースガルドの地下のサードの筐体は四六時中監視されているんだよ。悪趣味な話さ」
アヤコは半ば呆れたような笑みを浮かべて云った。
いつの間にかアヤコは未だ勤務中にも係わらず、雑談様のテーブルの上に腰掛けて、
桜や日高、仕事が終わった大谷達と一緒に雑談していた。
ちらほらと客は増えてきたが、みな常連でアヤコとは顔見知りが多く
この不良店員を咎めだてする者は一人としておらず皆愛想良く挨拶を交わすだけだった。
桜はそれでアヤコが如何にこのゲームセンターで慕われているのかが分かった気がした。
アヤコはアースガルドに付いて桜に説明を続けた。
「ミドガルド(アースガルドの地下のゲームコーナー)で連勝を続ければ
それは監視している上の連中に伝わる。『ヴァルハラ』の連中にね」
桜が小さく「ヴァルハラ?」と不思議そうに呟くと、大谷が得意げに
「確か神話ではアースガルドの中にある神々が住む神殿だった筈だよ」と説明した。
アヤコはそれには構わず説明を続ける。
「ミドガルドと云っても連勝するのは至難の業だ。
キミがこの前闘ったというオセロットのプレイヤーが居ただろう?
そういうオセロットのトップレベルの奴らがごろごろ居る」
それを聞いた桜は息を呑んだ。日高や大谷も真剣に聞いていた。
「そんな連中の中で10勝、20勝と連勝を続けていく。そしてその連勝が100に近づくと
フロアの奥のエレベーターが上昇しだす。
そして最上階の筈の7階を示す表示板が光るとそれも消える。
やがてそれは下降してミドガルドに至る」
アヤコの眼は鋭くなった。
「そこに今までとは毛色の違う連中が現れる。それは明らかに他の連中とは雰囲気が違う。
…それこそは真のアースガルドと云われる『ヴァルハラ』から使わされた『称号』持ち」
そう言うとアヤコは目を伏せ、忌々しげに眉根を寄せた。
「『選定者』の称号を持つ者」
アヤコの見開かれた鋭い瞳は冷たく煌いた。
「…氷室凍河。アースガルドの第三位」
そう言い放つとアヤコはその鋭い瞳を隠すように屈託無い笑顔を浮かべ桜に赫々
「それを倒せば、アースガルドに上る事を許される。
キミの兄が目指せといったところは、そこだ」と云った。
桜はそれを聞くと、瞳を閉じ、兄の思いを感じとった。
桜の瞳の奥には赤い炎の煌きが燈り、押さえようも無く燃え上がった。
8
既に勝負は決していた。連勝を示す数値は88を示していた。
男は笑みを浮かべ席を立つと呆然とする相手に向って云った。
「いつでおいで」
そう言って筐体のコンパネの上にカードを二枚置いた。
「招待するよ。アースガルドに」
そう言うと凍河はチラリと刹那の方を向き、
そしてうな垂れる那由他を背に桐生と共に再びヴァルハラへと上がっていった。
ミドガルドは静寂に包まれていた。
88の勝利は赤いダッドリーの上に輝いていた。
那由他は何時までも呆然とそれ見続けていた。
確かにミドガルドのプレイヤーは那由他に手も足も出なかった。
しかしアースガルドは矢張りはるか高みに存在した。
刹那は肩を落とす那由他の背中を無言で見つめていた。
9
桜はどきどきランドを去り、家に帰ると制服のまま直ぐ二階にある兄の部屋に行き、
備え付けてあるテレビの前に座るとPS2の電源を入れた。
そして兄が手紙と共に残した「サード」をハードカバーから取り出すと起動させる。
乾いた起動音と共に画面に現れたのはcapcomのタイトル。
そして軽快なサウンドと共にアドバタイズデモが流れる。
誰の眼にも入らぬまま三年の間ずっと桜を待っていた「サード」は
今漸く兄から桜に手渡された。偶然か或いは何者かの見えざる意思に由って。
桜は胡坐をかき、使い込まれたコンパネ型のスティックを股の上に置いた。
これは昔から兄と対戦するときの桜の変わらないスタイルだった。
桜はスタートを押しアーケードモードを選びCPU戦を始める。
キャラクター選択画面を見て桜は僅かに疑問に思う。
主人公であるはずのリュウに最初にカーソルが合わさってない事にである。
なにやら赤いバンダナを巻いたプロレスラーみたいな外人にカーソルが合わさっている。
「この人が主人公には見えないけどなあ」などと余計な事を呟きながら、
桜はカーソルをリュウに合わせ直すとボタンを押した。
そうして桜は黙々とCPU戦を始めた。
兄の事を思いながら、アースガルドの事を思いながらCPU戦を続けた。
その桜の背中をジッと見つめている眼があった。
その眼は興味深そうにドアの隙間から桜の熱心にプレイしている後姿を見ていた。
桜はサードに集中していて見つめている眼には気づかない。
その眼の持ち主は、開きかけのドアをそっと押し中に入ろうとしたが、
その時ドアが軋んだ音を立てたので桜は気づき後ろを振り向いた。
しかしそこには誰も居なかった。桜はゲームを中断して立ち上がると
「ザップ?」とドアの向こうに声をかけた。しかし返事は無かった。
桜はドアを見つめると今度は少し優しく「ザップでしょ?」と声をかけた。
するとドアの影からひょっこりと顔を出して「にゃあ」と声を上げた。
それはシャム猫だった。正確に言えばシャムの混じった雑種だった。
ザップはツンとした動作でテクテクと桜の元に歩いていき桜の足に頬擦りをした。
桜は意外だった。この猫は兄がまだ居た頃から、それこそ桜が物心付いた時からずっと居たのだが
兄には良くなついていたが、桜には全くと言って良いほど懐かなかった。
兄が居なくなってそれが益々顕著になり、桜がいくら名前を読んでも寄って気さえしなくなっていた。
それが今日初めて桜に懐いた。ゲームをしている後姿を兄と間違えたのだろうか?
そう思いながら桜はザップの小脇を持ち抱え上げ、抱きついた。
「お前もお兄ちゃんが好きだったものね…」と話しかけるとザップは同意するようににゃあと鳴いた。
10
ザップは桜の腕から飛び降りると兄の机の椅子に飛び乗り背伸びをした。
そして気だるそうな欠伸をするとそのまま丸くなったがその瞳はテレビの画面に向けられていた。
まるで桜のプレイするのを待っているような素振りだった。
ザップは昔から不思議な猫で、桜と兄がスパ2で対戦しているときだけこっそりと後ろから現れて
いつの間にか二人の対戦を見物しているのだった。
桜はザップに笑みを向けながら「見てくれるの?」と言うと再びテレビの前で胡坐を掻きサードを再開した。
プレイしながら桜は独り言のように椅子で丸くなっているザップに話しかけた。
「…お兄ちゃんなんで居なくなったんだろうね…」当然ながらザップは何も答えない。
桜は心の奥にずっと引っかかる事があった。しかしそれがどうしても思い出せない。
三年前忽然と兄は姿を消した。桜には何も告げず。(何故?)
アースガルド。そこに行けば、分かるのか?
「私にそれができるの?」
桜は相馬香湖を思った。
桜は八州亜弓を思った。
桜は泉田案山子を思った。
桜は一三九八を思った。
そして桜は、兄を思った。
テレビ画面にはリュウのエンディングが流れていた。
『何の為に強くなるのか?勝利の先に何が見えるのか?』
胴着姿のリュウは自問自答していた。
『在るがままを受け入れれば良いのか。それとも苦悩の末見つけ出すのか?』
桜は猫の方を振り向いた。猫はいつの間にか眠っていた。
桜は微笑みながら猫を撫でた。猫は気持よさそうに喉を鳴らした。
『今の俺には落ち葉の行方も知らない。
強者を思い、この腕が奮う限り…
指一本にでも、力がこもる限り…』
画面の中のリュウは迷い無く云った。
『闘うだけだ!』
そのエンディングを見つめながら桜も静かに呟く。
「待っていて、皆…」
桜の声に迷いは無かった。




