第6章 特別番外編 第62話 世界有数の大富豪が、最初の従業員にようやくプロポーズした
学校の子どもたちが想像した未来の物語に返事を書き、手紙を封じた翌朝。
あの物語は遠い未来の創作で、現実の俺たちはまだ結婚していない。
昨日ミリアに言われたとおり、俺は商会からの手紙を机の引き出しにしまい、二人だけで朝食を取った。
世界中を飛び回っていたころには、そんな時間さえなかった。
だからミリアの質問が、今までよりずっと真っすぐ胸に刺さった。
「オリバさん」
「ん?」
「湖で言いかけたこと、いつ聞かせてくれるんです? ……私に、いつプロポーズしてくれるんです?」
その瞬間。
俺は飲んでいた紅茶を盛大に吹き出した。
「ぶっ!」
目の前に座っていたミリアが、冷たい目で俺を見つめている。
「……何を驚いているんですか?」
「いや、突然すぎるだろ!」
「突然?」
ミリアは首を傾げた。
そして、指を折り始めた。
「私がオリバさんに雇われてから、何年経ったと思っています?」
「……ええと」
「王国でごみ山を買いました」
「ああ」
「帝国に進出しました」
「そうだな」
「古代戦車を修理しました」
「懐かしいな」
「世界最大の魔力炉まで直しました」
「うん」
「世界有数の大富豪になりました」
「まあ、そうらしいな」
ミリアは笑顔で言った。
「で?」
「……で?」
「私にプロポーズは、いつするんですか?」
俺は固まった。
「……え?」
「もう、待たせすぎです」
ミリアは頬を膨らませた。
「オリバさんは、壊れた魔道具ならすぐに修理するのに、どうして私との関係は、いつまでたっても進まないんですか?」
「……いや、それは」
「もしかして、オリバさんの頭を修理した方が早いんでしょうか?」
俺は何も言い返せなかった。
怖い。
普段は優しいミリアが、ものすごく怖い。
「……ミリア」
「はい」
「もしかして、怒ってる?」
「怒ってませんよ?」
笑顔だった。
完璧な笑顔だった。
だが俺は世界中のごみ山を見てきた経験から、直感した。
これは、非常に危険な状態だ。
俺はミリアに言った。
「金貨を数えるのは得意だったのに、お前と過ごす日を数えるのは下手だった」
ミリアは笑わなかった。
「今からでも数え直せますよ」
俺は頷いた。
結婚は商会の新事業じゃない。
成功を約束できないからこそ、二人で相談して決めていくのだ。
俺が結婚の話を避けてきたのには、理由があった。
商会を大きくするたび、誰かの生活を背負う責任が増えた。
結婚すれば、ミリアにもその重さを押しつけてしまう気がしたのだ。
「俺と一緒にいると、また厄介な話に巻き込まれるぞ」
俺がそう言うと、ミリアは呆れた顔をした。
「今さらですか? 帝国の鉱山にも、海の上にも、古代遺跡にも一緒に行きましたよね」
「それは仕事だった」
「私が選んだ仕事です。結婚も、私が選びます」
言い返せなかった。
俺はずっと、彼女のためだと思いながら、彼女に選ばせることを忘れていた。
その日の昼、俺は昔の帳簿を開いた。
最初の売上よりも、ミリアが赤字の横に書いた
「明日も続ける」
という文字が目に入った。
帳簿に残る数字より、二人で乗り越えた日々の方が大きく思えた。
俺は帳簿を閉じ、指輪の箱にそっと手を添えた。
指輪を選ぶ前、俺は最初の給料袋を思い出した。
金額が足りず、ミリアに頭を下げた夜だ。
彼女はあのときも、仕事の手順を一緒に考えてくれた。
今度は金貨ではなく、時間を渡したい。
次の予定は二人で決めよう。
そう決めてから、俺は宝飾職人の店へ向かった。
その日の午後、俺は町の宝飾職人を訪ねた。
指輪を買おうとしたのだが、店に並ぶ宝石を見て困ってしまった。
「一番高いものをください、とは言わないんですね」
職人が笑う。
「高いだけじゃ、ミリアは喜ばない気がする」
「では、どんな方です?」
俺は考えた。
帳簿の数字を見逃さない。
困った人に厳しいことも言える。
ごみ山で拾った欠けた皿を、使えるようになるまで磨く。
俺が無茶をすれば真っ先に怒る。
「俺が間違えたとき、逃げずに怒ってくれる人だ」
職人は静かに頷いた。
「それなら、飾りより丈夫さを選びましょう」
俺たちは派手な宝石をやめ、日々の仕事でも邪魔にならない細い輪を選んだ。
内側には、最初のごみ山を買った日付を刻んでもらうことにした。
帰り道、俺は指輪の箱を何度も確かめた。
古代魔力炉の部品を運んだときより緊張している。
ところが店へ戻ると、ミリアは修理の依頼書を抱えていた。
「すみません、急ぎの仕事が入ってしまって」
「今日は休もうと言っただろう」
「村の診療所の灯りが壊れたそうなんです。夜までに直さないと困ります」
俺は箱を懐にしまった。
二人で工房へ向かい、部品を確かめる。
灯りはすぐに点いたが、熱を逃がす金具が傷んでいた。
急いで取り付ければ再び壊れる。
「代わりの灯りを先に届けよう」
俺が言うと、ミリアが頷いた。
修理を急ぐより、患者を待たせない方法を選ぶ。
そんな当たり前の相談が、俺には何より心地よかった。
診療所から戻ったころには日が暮れていた。
ミリアは疲れた顔で、それでも笑っていた。
「せっかくのお休みだったのに、ごめんなさい」
「謝るな。俺も行きたかった」
「本当ですか?」
「本当だ。お前が何を大事にしているか、また一つ分かった」
俺は懐の箱に触れた。
指輪を渡すなら、立派な食事の席だと思っていた。
でも、俺たちにはこの散らかった工房の方が似合うのかもしれない。
「ミリア、少しだけ時間をくれ」
「また仕事の相談ですか?」
「いや。今度は、俺がずっと先延ばしにしていた話だ」
ミリアは目を丸くした。
俺の心臓が、耳元で鳴っているようだった。
懐の小箱が、妙に重かった。
金貨一枚で始めた商売より、これから伝える一言の方がずっと緊張する。
まだ指輪を渡してもいないのに、俺は何度も手のひらを拭った。
指輪を渡す前、俺は商会の予定表を机の奥にしまった。
今夜の答えは会議で決めるものではない。
ミリアが考える時間を待ち、返事を聞いてから、二人で式の日を相談した。
俺は小箱を取り出し、ミリアの前に立った。
ミリア。
最初のごみ山で雇った、たった一人の従業員。
あの頃、俺には金貨一枚しかなかった。
彼女も貧しかった。
毎日、二人で壊れた魔道具を拾った。
使い終わった魔石を再生した。
錆びた金属を磨いた。
泥だらけになって働いた。
商会が大きくなっても、ミリアはずっと隣にいた。
帝国へ行ったときも。
海洋国家へ行ったときも。
古代遺跡を発見したときも。
世界中の王様と会ったときも。
そして、俺が世界有数の大富豪になったときも。
ずっと。
俺の隣にいた。
「……そうだな」
俺は静かに言った。
ミリアが首を傾げた。
「何ですか?」
俺は立ち上がった。
そして、彼女の前に膝をついた。
「ミリア」
「……はい?」
「俺と結婚してくれ」
ミリアは固まった。
「…………」
「……ミリア?」
「…………」
「おーい?」
次の瞬間。
ミリアの目から、大粒の涙がこぼれた。
「……遅いです」
「……悪かった」
「本当に、遅いです!」
「ごめん」
「何年待ったと思ってるんですか!」
俺は苦笑した。
「……すまん」
ミリアは涙を拭った。
そして満面の笑顔で答えた。
「……はい!」
俺は震える手で小箱を開けた。
中には、最初の工房で使っていた金属を磨き直して作った指輪がある。
「宝石より、これを選んだ」
と言うと、ミリアは泣きながら笑った。
「あなたらしいですね」
俺が指輪をはめると、彼女は手を光にかざした。
金貨の価値なら鑑定できる。
だが、彼女の笑顔の価値は、どんな能力にも測れなかった。
俺は笑った。
「ありがとう」
ミリアは俺に抱きついた。
「……絶対、幸せにしてくださいね」
「ああ」
俺は頷いた。
「約束する」
その瞬間。
俺は気づいた。
世界有数の大富豪になったときより。
古代魔力炉を修理したときより。
今の方が、ずっと嬉しい。
「……ミリア」
「はい?」
「ずっと隣にいてくれて、ありがとう」
彼女は涙の残る目で俺を見た。
「仕事がなくなっても、私は自分で選んで、ここにいたんですよ」
その言葉に、俺はようやく分かった。
俺が守ってきたつもりの時間は、彼女が何度も選び直してくれた時間でもあった。
「これからは、二人で選ぼう」
「はい。まず、結婚式の日を決めましょう。世界中の王様を呼ぶ前に」
俺は笑い、彼女の手を握り直した。
磨き直した指輪が、工房の小さな灯りを受けて輝いた。




