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第55話 世界有数の大富豪が、ついに商会を辞めると言い出した

引退の話を切り出す前夜、俺は古い帳簿を開いた。

最初の従業員はミリア一人。

今は何万人もの暮らしが商会にかかっている。

「辞めたい」

と言うのは簡単だが、無責任に放り出すことはできない。

俺は後継者の権限、事故が起きたときの連絡経路、従業員の待遇を一つずつ書き出した。

ミリアは隣で最後まで付き合ってくれた。

「ようやく、仕事を任せる練習ですね」

俺は苦笑した。

「……そろそろ引退しようかな」

俺が呟くと、

会議室が静まり返った。

ミリアが固まった。

「……え?」

幹部たちも固まった。

「……会長?」

俺は頷いた。

「商会の経営を、皆に任せようと思う」

沈黙。

そして

「ええええええ!?」

会議室に叫び声が響いた。

「会長!?」

「何を言っているんですか!?」

「まだ若いでしょう!?」

俺は笑った。

「いや、もう十分働いたからな」

ミリアが尋ねた。

「……本気ですか?」

「ああ」

俺は頷いた。

「商会は、もう俺一人のものじゃない」

幹部たちは黙った。

俺は続けた。

「世界中に従業員がいる」

「工房もある」

「取引先もある」

「だから、俺がいなくても動く会社にしたい」

ミリアは静かに頷いた。

「……なるほど」

俺は笑った。

「それに」

「?」

「やりたいことがあるんだ」

ミリアが首を傾げた。

「何ですか?」

俺は答えた。

「小さなごみ屋を、もう一度やりたい」

会議室が静まり返った。

「……はい?」

俺は笑った。

「最初みたいに、自分でごみを拾って、使えるものを探す」

ミリアはしばらく俺を見つめた。

そして

「……ふふ」

笑い始めた。

「……オリバさんらしいですね」

俺も笑った。

「そうだろ?」

こうして、俺はオリバ資源商会の経営から退くことを決めた

辞任を告げた夜、俺は眠れなかった。

後継者に責任を押しつけて逃げるだけではないか。

ミリアは言った。

「あなたがいなくても続く商会を作ったんでしょう」

俺はその場で、後継者の判断に口を出さない条件を自分で書いた。

困ったときだけ相談に乗る。

署名すると、胸の奥が少し軽くなった。


翌朝、俺は引退計画を持って幹部会に戻った。

昨日の宣言で皆を驚かせたままにしておくのは無責任だ。

机には各支店の収支、工房の事故記録、取引先との長期契約を並べた。

「半年かけて引き継ぐ。後継者を一人に決めて終わりにはしない」

財務担当の老人が腕を組んだ。

「会長がいなくなれば、取引銀行は融資条件を変えます」

それは俺も考えていなかった。

大きな商会でも、信用の一部は俺個人の名前に結びついている。

俺はすぐに銀行の代表を招き、経営陣が単独で説明できる場を設けた。

ところが最初の説明会は散々だった。

新しい責任者は在庫の数字を暗記していたが、北方工房の事故について質問されると答えられない。

「会長に確認します」

その一言で銀行側の表情が曇った。

俺は口を開きかけて、ミリアに袖を引かれた。

「今、答えたら練習になりません」

分かっている。

それでも黙っているのは、事故現場で手を動かさずに見守るよりつらかった。

会議が終わると、新責任者は青い顔で頭を下げた。

「申し訳ありません」

俺は首を振った。

「謝るより、明日現場へ行ってくれ。数字を覚えるより、誰が何に困っているかを知ってほしい」


一週間後、彼は北方から戻ってきた。

報告書には損失額だけでなく、怪我をした職人の名前と、作業台の高さが合っていなかったことまで書かれていた。

「修理費用は私の権限で出しました。会長の承認を待てば、また事故が起きると思ったので」

俺は報告書を閉じた。

「職人は、何と言っていた?」

「来月から同じ台で働けると、喜んでいました」

新責任者はほっとしたように肩を下ろした。

俺は決裁印を机の向こうへ押しやった。

受け取る手が少し震えていた。

俺も最初に金貨一枚を出したとき、同じように震えたことを思い出した。

だが、別の支店では俺の引退を利用して、資源の買い占めを始めた業者がいた。

「会長が辞めれば商会は分裂する」

と噂を流し、古い契約を安く買い取ろうとしているらしい。

若い幹部たちは俺に交渉を頼んできた。

俺が顔を出せば、相手は引くだろう。

けれど、それでは次の危機も俺を呼ぶことになる。

「今回は皆でやってみてくれ」

反発の声が上がった。

「失敗したらどうするんですか」

俺は答えた。

「損失を補う準備はする。ただし、交渉の席には出ない」

幹部たちは契約書を一枚ずつ洗い直した。

噂を流した業者が、複数の町で同じ資源に二重の買付予約を入れていたことが分かった。

契約の矛盾を突き、地域の商人と共同で新しい公開入札を始めると、業者は値をつり上げられなくなった。

報告を聞いた俺は、ようやく胸を撫で下ろした。

「会長がいなくても勝てました」

新責任者が言う。

「俺がいないから、皆で考えたんだろう」

その言葉に、彼は初めて誇らしそうに笑った。

退任の日付を決めたあと、俺は各支店に短い手紙を書いた。

新しい会長に従え、と命じる手紙ではない。

自分たちの仕事で危険だと思うことを、遠慮なく報告してほしいと頼む手紙だ。

返事はすぐには来なかった。


やがて港から

「古い荷役機械を止めたい」

、山の工房から

「夜勤を減らしたい」

と届き始めた。

新しい経営陣は一つずつ判断し、俺に確認を求めなかった。

俺は机の前で落ち着かなくなり、何度も立ち上がった。

ミリアは窓を開け、港から戻る荷車を指さした。

「あの人たちは、もうあなたの返事を待っていませんよ」

俺は窓際に立ったまま、荷車が角を曲がるまで見送った。

引退の準備をしていると、昔の配送票が一枚出てきた。

王都で橋が通れず、納期を破った日のものだ。

ミリアは裏面に

「先に知らせること」

と書いていた。

俺は笑ってその紙を見せた。

「まだ覚えてる?」

「もちろん。あのとき、怒られても逃げなかったでしょう」

俺は引退後の予定表にも、同じ字で約束を書いた。

今度は彼女との時間を後回しにしないために。

引退の条件として、俺は緊急時だけ連絡する規則を作った。

通常の仕入れも人事も後継者が決める。

名目だけ退いて口を出し続ければ、誰も本当の責任者になれないからだ。


翌朝、後継者が商会の印章を受け取りに来た。

俺は最後の決裁書に署名し、鍵を彼に渡した。

「緊急時は相談してもいいですか」

「相談はいつでも。でも最後に決めるのは君だ」

彼は深く頭を下げ、俺の署名欄を新しい用紙から消した。

会議室を出ると、ミリアが待っていた。

いつもの癖で次の予定を尋ねかけ、俺はやめた。

「明日の退任式で、皆に何を伝えよう?」

「あなたがいなくても、仕事は続くと伝えましょう」

俺は頷いた。

背後の会議室から、後継者が自分の声で指示を出すのが聞こえた。

今日終えたのは決裁権の引き継ぎだ。

明日の退任式では、働く人たちに最後の挨拶をする。

その二つを混同せずに済んで、ようやく肩の力が抜けた。

退任式の招待状を整理していると、古参の職人から欠席の返事が届いた。

新しい工房の初日で、どうしても現場を離れられないという。

昔の俺なら、式に出てほしいと頼んだかもしれない。

だが今は、招待状の余白に

「工房を優先してください」

と書いた。

ミリアはそれを読み、静かに頷いた。

祝いの席に全員を集めることより、各地で仕事が続いていることの方が、引退する俺には嬉しかった。

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