第36話 世界最大の商会に買収を持ちかけられたので、逆に買収を提案した
「金貨五百万枚で、オリバ資源商会を傘下に迎えたい」
目の前の男は、買収案を記した厚い書類を差し出した。
世界最大級の商会。
ゴルド商会。
その会長、マルクス・ゴルドだ。
俺は紅茶を飲んだ。
「……五百万枚ですか」
「そうだ」
マルクスは笑った。
「これほどの値をつける相手は、二度と現れんぞ」
マルクスは返事を待たず、買収後の組織図を机に広げた。
俺の商会の名前は、そこにはなかった。
「資源の回収部門は残す。だが、各地の小さな工房との契約は本社が見直す」
「その工房が、今のうちを支えているんです」
「大商会の傘下に入れば、もっと効率よくなる」
俺は組織図を畳み、本人に返した。
「値段の問題じゃありません。工房の人たちに相談もせず、売ることはできません」
マルクスの指が止まった。
「では、交渉は決裂か?」
「会社を丸ごと売る話なら、そうです。ただ、別の取引ならできます」
だが、今回はそこで終わらなかった。
俺は一枚の資料を差し出した。
「ところで」
「……何だ?」
「ゴルド商会の廃棄物処理部門、赤字ですよね?」
マルクスの顔が変わった。
「……なぜ知っている?」
「公開されている取引情報から推測しました」
俺は続けた。
「その部門を、うちに売りませんか?」
マルクスは固まった。
「……何?」
「赤字部門だけでいいです」
「……貴様」
俺は笑った。
「金貨二十万枚でどうでしょう?」
マルクスはしばらく黙った。
そして、突然笑い始めた。
「……ははは!」
「?」
「面白い!」
マルクスは机を叩いた。
「私の商会を買収しようとするとは!」
俺は首を振った。
「全部ではありませんよ」
「分かっている!」
マルクスは笑った。
「だが、気に入った!」
こうして、世界最大級の商会との交渉が始まった。
交渉の二日後、ゴルド商会から分厚い帳簿が届いた。
俺はミリアと倉庫の床に座り、在庫の一覧を一行ずつ確認した。
「再利用できる金属が多いですね」
「ただし、保管場所が五つに分かれている。輸送費が高すぎる」
さらに気になる項目があった。
廃棄物処理部門の帳簿に、倉庫の修繕費が計上されていない。
俺は会長のマルクスに会いに行った。
「金貨二十万枚という提案は、一度取り下げます」
マルクスの眉が上がった。
「怖じ気づいたか」
「数字が揃っていません。雨漏りした倉庫を直す費用が抜けています」
「古い倉庫など、いくらでもある」
「そこで働く人も、いくらでも代わりがいるんですか」
会長は笑わなかった。
俺は倉庫を実際に見せてもらうよう求めた。
翌朝、港の倉庫へ入ると、床に水たまりができていた。
木箱の下には黒い染みが広がっている。
「この箱は開けないでください」
案内役の支配人が言った。
「どうしてです?」
「破損品です。帳簿上はまだ商品になっていますが」
俺が蓋を開けると、錆びた部品の間に、割れた魔石が混じっていた。
素材鑑定の表示には、微量の魔力漏れを示す警告が出た。
「全員、外へ!」
俺が叫ぶと、支配人は不満そうにした。
「商談のために倉庫を止めるのですか」
「商談のためじゃありません。ここで火花が出たら危険です」
ミリアが作業員を誘導し、俺は魔石の入った箱に絶縁布をかぶせた。
幸い事故は起きなかったが、会長への報告は厳しいものになった。
「この部門を買えば、俺の商会まで危険を抱えます。まず安全対策が必要です」
マルクスは机を指で叩いた。
「ならば、買収は白紙だな」
「いえ。価格を下げる代わりに、修繕費と従業員の訓練費をこちらで負担します」
「なぜそこまでする?」
俺は窓の外に並ぶ荷車を見た。
「倉庫を閉じたら、あの人たちは職を失います。壊れた部品より先に、働ける仕組みを捨てるのは惜しい」
マルクスは長い沈黙のあと、部門長を呼んだ。
その部門長は、俺が予想した以上に強く反対した。
「買われた瞬間、うちの職人は全員解雇でしょう!」
俺は首を振った。
「解雇しません。ただし、危険な作業は止めます。新しい手順を一緒に決めたい」
「口約束なら何とでも言える」
「では、契約書に書きます」
俺はミリアに紙を持ってきてもらい、雇用継続の期間と賃金の最低条件をその場で書いた。
部門長は一行ずつ読み、最後に言った。
「これでも、全員が賛成するとは限らない」
「それで構いません。納得できない人の話も聞きます」
三日後、職人たちとの説明会が開かれた。
最初の質問は、賃金でも休日でもなかった。
「俺たちの作ってきた品物は、全部ごみ扱いになるんですか」
年配の職人が、汚れた手を握りしめていた。
俺は少し考えてから答えた。
「いいえ。直して使えるものは直します。材料に戻すのは、その後です。作った人の技術まで捨てるつもりはありません」
職人は目を伏せた。
「……なら、見せてやる。まだ使える部品の見分け方を」
彼が持ってきた部品は、俺の鑑定では再利用率が低く表示されていた。
だが、彼は摩耗した軸だけを交換し、装置を動かしてみせた。
俺は素直に頭を下げた。
「勉強になりました。これなら、修理部門として利益が出せます」
ミリアはすぐに帳簿を直した。
売却価格だけでなく、修理に必要な時間も計算する。
それでも初月の見込みは赤字だった。
俺は会長に、その数字を隠さず見せた。
「最初の三か月は利益が出ません。その代わり、倉庫の事故リスクと廃棄費用を減らせます」
マルクスは資料を閉じた。
「買収を申し出た私が、いつの間にか説得されているとはな」
「俺も、こんなに手間がかかるとは思いませんでした」
「それでも買うのか」
「はい。条件が合えば」
さらに条件を詰めるとき、マルクスは古い契約書を一枚差し出した。
赤字部門には、処理を途中でやめれば巨額の違約金が生じる自治体契約があった。
「この責任も引き受けるなら売ろう」
俺は金額だけを見ていた自分を恥じた。
ミリアと徹夜で処理能力を計算し、引き継ぐ契約を自治体ごとに確認した。
買収額は据え置き、設備修繕費を双方で分担し、住民への処理停止を起こさない条件を追加する。
マルクスは最後まで渋い顔だったが、
「そこまで調べるなら任せられる」
と言った。
逆買収の勝負は、相手を言い負かすことでは終わらなかった。
現場を見たあと、濡れた在庫帳の端を乾かした。
俺は帳簿を閉じた。
買収額をいくら下げても、明日ここで働く人の足元が濡れたままなら、何も変わらない。
交渉から戻ると、ミリアは修繕費の試算を置いた。
「買収した途端に赤字が増えますね」
「修繕の期限と費用負担を、覚書に明記しよう」
俺は祝杯の予定を取り消し、現場責任者との面談日を先に決めた。
会長は修繕費の分担を記した覚書を読み返し、仮合意の印を押した。
その場で契約が成立したわけではない。
職人たちの同意と在庫検査が残っていた。
しかも現場の責任者は、買収後も修理部品を安定供給する保証がなければ署名しないという。
俺は翌朝、契約書より先に工場へ向かうと決めた。
それでも、俺はようやく交渉の入口に立てた気がした。
帰り道、ミリアが笑った。
「世界最大の商会を逆に買収するつもりだったのに、倉庫の雨漏りを直す話になりましたね」
「ごみを扱う商売なんだから、屋根の穴を見逃したら駄目だろ」
俺たちは港の夕焼けを見ながら、翌日の修繕計画を考え始めた。
仮合意の翌日、ゴルド商会の古参倉庫番は俺の名刺を突き返した。
「前の会長も『現場の話を聞く』と言った。だが雨漏りは十年放ったらかしだ」
「信用してくれとは言いません」
俺は屋根の修繕予定日と、職人への賃金支払日を書いた紙を差し出した。
「予定が守られなければ、仮合意は取り消せるようにします」
倉庫番は紙を受け取ったが、名刺には触れなかった。
その晩、マルクスは電話で言った。
「現場の老人にそこまで譲るのか」
「その人が毎日ここを守ってきたから、赤字部門でも引き受ける価値があるんです」
返事はなかった。
俺も、屋根が直るまで安心するつもりはなかった。
約束の日、屋根職人が倉庫へ来た。
倉庫番は赤い印を付けた図面を差し出した。
「最初にここを直せ。雨の日に足を滑らせた若いのがいる」
職人が梁へ上がると、古い板の裏から腐食した留め金が見つかった。
表面だけ塞げば、次の大雨で屋根ごと落ちかねない。
「追加工事になります」
と屋根職人が言う。
ミリアは費用を計算し直した。
予算は超える。
それでも俺は修繕の中止を命じなかった。
夕方、雨が降り始めた。
倉庫番はいつもの場所に桶を置こうとして、手を止めた。
床は濡れない。
「……今日は桶が要らないな」
彼は初めて俺の方を見た。
「明日、在庫の点検に付き合えるか」
「もちろんです」
握手も、会長という呼び名もなかった。
ただ、倉庫番は脚立を一本、俺に貸してくれた。
逆買収の交渉で得た最初の信用は、契約書の印ではなく、その脚立だった。
翌日の在庫点検で、倉庫番は帳簿に載らない古い部品の箱を示した。
「捨てる前に、使えるか見てくれ」
俺が一つずつ検品を始めると、彼は無言で隣に座った。
二人で箱を空にする頃、マルクスから正式契約の確認書が届いた。
俺は署名する前に、倉庫番に雨漏りのない天井をもう一度確かめてもらった。
彼は帳簿に残る修繕予定日を指で押さえ、
「次も約束を守れ」
と言った。
「はい」
俺はその言葉を契約書より重く受け取った。
買収の勝利を知らせる書簡には、利益の見込みではなく、まず修繕を終えた日付を書いた。




