第30話 敵対していた侯爵が、頭を下げてきた
侯爵との最初の対立から一か月後。
未払い賃金の最終照合と搬出路の確認のため、俺はローデン侯爵の鉱山を訪れた。
廃石の処分場は満杯で、近隣の村からも苦情が出ていた。
新しい処分場を造るには大金が必要らしい。
応接室に通されると、侯爵は帳簿を前に頭を抱えていた。
「こんにちは」
侯爵は目を見開いた。
「……貴様!」
「オリバです」
「何の用だ!」
俺は笑った。
「廃石処理の営業です」
侯爵は固まった。
「……何?」
「困っていると聞きまして」
「……誰から聞いた!」
「商人の情報網です」
侯爵は黙った。
俺は続けた。
「うちなら、廃石を資源として再利用できます」
「……再利用?」
「はい」
「処分費用は?」
俺は見積書を出した。
侯爵は数字を見た。
そして、目を見開いた。
「……今の半額?」
「はい」
「本当か!?」
「ただし、分別と搬出経路の整備に協力してください」
侯爵はしばらく黙った。
そして、ゆっくり椅子に座った。
「……分かった。だが村の代表が納得するまで署名はしない」
俺は頷いた。
「では、先に現地の話を聞きましょう」
侯爵は契約書を見つめた。
そして、小さく呟いた。
「……頼む」
俺は笑った。
「こちらこそ」
こうして、侯爵との交渉は現地の再調査へ進んだ。
ミリアは後で呟いた。
「……敵までお客さんになるんですね」
俺は笑った。
「商売って、面白いだろ?」
侯爵の屋敷へ向かう前、俺は廃石処分場を見た。
雨で濁った水が畑の近くまで流れ、村人たちは土嚢を積んでいた。
「侯爵が頭を下げても、ここの人は助かりませんよ」
ミリアの言葉に俺は頷いた。
交渉の席では、半額の見積書と一緒に排水路の改修計画を差し出した。
「処分だけでは足りません。汚れた水を止める費用も必要です」
侯爵は顔をしかめた。
「そこまで私に払えと?」
「あなたの鉱山から出たものです」
長い沈黙のあと、侯爵は窓の外を見た。
「……村の代表を呼べ」
その一言を聞いて、ようやく商売の話が始められた。
侯爵が契約書に手を伸ばしたとき、扉が乱暴に開いた。
入ってきたのは、泥だらけの靴を履いた村の代表だった。
「その紙に署名する前に、話を聞いてください」
侯爵の顔が強張った。
「許可なく入るとは何事だ」
「畑に流れた水を、今朝も汲み出してきました。もう黙っていられません」
俺は契約書を裏返した。
「先に聞きましょう。見積もりは逃げません」
代表の男は、鉱山の下流にある畑の図を広げた。
雨のたびに水があふれ、去年は麦の収穫が半分になったという。
「処分場が満杯だから助けてくれ、と侯爵様は言う。でも俺たちはずっと前から困っていた」
侯爵は言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
俺は地図を指した。
「ここに土手を造っても、別の場所へ水が回るだけです」
ミリアが持参した測量図を重ねる。
「上流で泥を沈める池が必要です。畑の横に排水路を通すなら、村の同意も要ります」
代表は俺を睨んだ。
「商人の言うことを信じろと?」
「信じなくていいです。工事の検査に立ち会ってください」
侯爵は椅子から立ち上がった。
「私の領地で、村人に工事の監督をさせるのか」
「侯爵様が払うお金で、村の被害を減らす工事です。見てもらった方が後でもめません」
沈黙が続いた。
やがて侯爵は低い声で言った。
「……よかろう。ただし期限は守れ」
俺は処分場の改修に関する仮契約を結んだ。
廃石の搬出は、測量と補償額の照合が済むまで保留だ。
翌朝から廃石の分別を始めたが、すぐに問題が出た。
古い廃石の下から、想定していなかった湿った粘土が現れたのだ。
荷車が沈み、作業員が一人、足を取られた。
俺は作業を止め、板を敷いて救出した。
「無理に運べば、次は荷車ごと転びます」
現場監督は困った顔をした。
「予定より三日は遅れますよ」
「その三日を取り戻そうとして、怪我人を出す方が困る」
俺は粘土の層を別に掘り、乾燥させてから運ぶ手順に変えた。
ところが侯爵の会計係が、追加費用の支払いを拒んだ。
「見積もりは半額だったはずだ」
「処分費は半額です。排水路と安全対策は別項目に書いてあります」
「そんな金は出せん」
俺は契約書を開き、侯爵と村の代表の署名を示した。
「払えないなら、工事を中断します。ただし雨が来る前に決めてください」
会計係は真っ青になって屋敷へ戻った。
その日の夕方、侯爵が自ら現場に来た。
「私に恥をかかせるつもりか」
「恥をかかせたのは、長年放置された排水路です」
侯爵は泥だらけの畑を見た。
村の代表が、黙って鍬を持って立っている。
「……追加費用を認める」
侯爵の声は小さかった。
「ただし、村にも結果を見せろ」
「もちろんです」
工事の終盤、激しい雨が降った。
俺たちは全員で沈殿池の水位を見守った。
泥水は池に溜まり、あふれた上澄みだけが排水路へ流れた。
畑の前で待っていた村人たちが、ようやく息をついた。
翌日、村の代表は侯爵の前で頭を下げなかった。
代わりに、泥の付いた手を差し出した。
「今年の麦が育ったら、見に来てください」
侯爵はしばらく迷い、その手を握った。
俺は二人の横で、工事の完了書に日付を記した。
敵が味方になった、と簡単に言う気はない。
だが、同じ雨を怖がっていた人たちが、初めて同じ排水路を見ていた。
侯爵の差し出した手は、前に会ったときと同じ手だった。
変わったのは立場ではなく、二人で見つめる問題の方だった。
侯爵の屋敷を出たあと、俺は村の集会所に呼び止められた。
「処分場を閉じれば、鉱山の仕事もなくなるんでしょう?」
若い母親が赤ん坊を抱いたまま尋ねた。
「すぐには閉じません。ですが、今のまま使うこともできません」
「それじゃ、何を信じればいいんですか」
俺は返事に詰まった。
半額の見積書には、畑を失った家族の明日まで書かれていなかったからだ。
ミリアは村の井戸の水を小瓶に汲んだ。
底には赤茶色の沈殿物があった。
「オリバさん、まずこれを調べませんか」
俺は頷いた。
村人に約束する前に、何が起きているかを確かめるべきだった。
翌朝、鉱山の技師と村の代表を連れて排水路を歩いた。
雨水は古い溝からあふれ、廃石の粉を巻き込んで畑へ流れていた。
技師は最初、自然の泥だと言い張った。
だが、俺が採取した二か所の土を並べると、色も粒の重さも明らかに違った。
「これでも鉱山とは無関係だと?」
技師は唇を噛んだ。
俺は責める代わりに、排水を沈殿池へ導く案を図面に描いた。
上澄みだけを流し、底に残る粉は乾かして再資源化する。
すべてを一度に解決する魔法ではないが、少なくとも次の雨までに危険を減らせる。
「工事費は誰が出す?」
と村長が聞いた。
「原因を作った鉱山が負担します。俺の商会は工事を請け負う。ただし、費用も測定結果も公開する」
侯爵が黙っている間、俺は契約を急がなかった。
「ご決断を。村の人はもう一年も待てません」
侯爵は机を拳で叩いた。
「私を脅すのか!」
「違います。俺はあなたと商売をしたい。でも、村を犠牲にした商売なら断ります」
長い沈黙の末、侯爵は署名した。
工事が始まると、今度は運搬路が崩れた。
廃石を積んだ荷車がぬかるみに沈み、予定していた搬出量の半分も運べない。
俺は作業を止め、荷車の車輪を外して補強を命じた。
納期を守るために無理をさせれば、前に起きた事故を繰り返す。
「損が増えますよ」
と会計係が囁いた。
「増えた損は帳簿に書ける。怪我をした人の時間は戻せない」
ミリアが隣で小さく頷いた。
三日後、沈殿池に最初の泥水が流れ込んだ。
出口から出る水はまだ飲めるものではない。
それでも畑に流れ込む赤い粉は目に見えて減った。
村長は喜ぶより先に、採水の日付を帳面に書き込んだ。
「来月も調べてくれ。今日だけ綺麗でも意味がない」
「もちろんです。数字が悪くなれば、俺たちが直します」
侯爵は村長の前で深く頭を下げた。
以前なら想像もできなかった光景だった。
俺は改訂した見積書を差し出した。
今度は処分費だけではない。
水質の検査、道の補修、村人が監督に参加する費用まで明記した。
侯爵は苦笑した。
「半額のはずが、ずいぶん項目が増えたな」
「隠していた費用を見えるようにしただけです」
「それでも、以前の処分場を増やすより安いのか」
「はい。廃石を資源として売れれば、維持費も下がります」
工事契約の署名を終えた侯爵が手を差し出した。
俺は握り返した。
敵が味方になったというより、ようやく同じ問題を見られるようになったのだと思った。
皇帝の試験事業許可だけでは搬出できない。
侯爵の土地権限を測量図で確定し、前回の書面にあった未払い分の再計算が終わるまで、搬出再開の承認は保留した。
侯爵は急ぎたがったが、鉱夫代表が数字を読み上げ、両者が一致した箇所から署名した。
和解とは、急いで忘れることではない。
測量が終わると、侯爵は境界杭の位置を自分の足で確かめた。
井戸へ向かう道を塞がないため、搬出路は遠回りになる。
追加費用の見積もりを見て顔をしかめたが、侯爵は図面の修正欄に署名した。
「あの道を使うのは、鉱夫だけではない。村の子どもも通る」
鉱夫代表はその場で雨季の点検日を決めた。
俺は二人の間に割って入らなかった。
翌日の補償金支払いを確かめるまで、搬出車は動かさない。
翌朝、鉱夫たちの前で補償金の受領書を一枚ずつ読み上げた。
金額が足りないと申し出た老鉱夫の分は、その場で作業日誌と照合して訂正した。
彼は金貨を握りしめ、笑わずに言った。
「これで息子に借金を返せる」
侯爵は初めてその顔を正面から見た。
境界杭を打ち直し、住民の通行路を残す合意書に全員が署名したのは、その日の午後だ。
搬出車が門を通ったのは、翌日の朝だった。
俺は最初の荷車より、門の前で誰も追い払われなかったことを覚えていた。




