第08話「四つの規則」
モレッティから毟り取った大金で、打ち捨てられていた廃倉庫が迎撃拠点としての診療所に変貌した。
割れた窓枠を板材で厳重に塞ぎ、夜間でも術野の最深部まで視認できるよう、頭上すれすれの位置に裸電球を吊るす。
木箱と厚板を組み上げた診察台は、俺が脊柱を曲げずに両腕を稼働できる高さに揃えた。術者の筋疲労による手元の微小なブレは、容易に患者の腸管や主幹動脈を破綻させる。
天板には血液が自然落下する傾斜をつけ、排出口の直下へ一斗缶を配置した。叩く血滴の落下音で、失血速度を聴覚でも精密にモニタリングできる。
水樽、火を絶やさぬかまど、ガラス厚ごとに分別した酒瓶。戸口から台までは正確に七歩。
荷物を放置するだけの吹き溜まりを、生体を死神の手から強奪するための空間へ作り替えた。
◇
ディエゴが、毎日のように顔を出すようになった。
脇腹の抜糸を終えてからも、少年は一日に一度は姿を現す。命を拾った返礼のつもりなのか、単に暇を持て余しているのかは判然としない。
俺が樽に水を汲めばバケツを運び、布を熱湯で煮沸すればかまどの火の番を務める。
手先は器用で、創部の肉芽形成も極めて順調だった。
少年は、俺が指示を飛ばさずとも、使用済みの端布を血液の汚染度順に並べ分ける。
汚染の著しい布から優先して熱湯へ沈める。
論理は一度も教えていない。俺の動作を観察し、自力で工程を逆算したらしい。
察しのいい子どもは、この街では早死にするか、しぶとく生き残るかの二つに一つだ。
「なあ、先生」
ある日の昼下がり、ディエゴが煤けた顔を上げて言った。
「みんなさ、いくら毟られるか分かんなくてビビってるんだよ。金のない奴ほどさ。昨日も手から血を流したおじさんが、戸口の前まで来て帰っちまっただろ」
俺は煮えた布を引き上げる手を止めた。
少年の指摘は、冷徹な事実を突いていた。
価格の不可視な店へ、人間は踏み込めない。
法も秩序もないこの街なら、なおさらだ。
身元を証明する紙を持たない弱者ほど、足元を見られて不当な対価を絞り取られてきた。
救命可能な生体が、費用の恐怖ゆえに戸口で踵を返す。
――それは、甚だ都合が悪い。
頭の棚から、三日前の光景が落ちてくる。
夕暮れ時、戸口に右手をボロ布で固く縛った男が佇んでいた。
布は赤黒く濡れそぼり、土間へ間断なく血滴を落としている。
俺は台を指し、入れ、と命じた。
だが男は上着の袖口からくしゃくしゃの小額紙幣を引き出し、その場で数え始めた。
指先が痙攣していたのは、疼痛のせいだけではない。
数え終えると、男は紙幣を袖へ押し戻し、力なく頭を下げて背を向けた。
足りない、と自ら判断を下したのだ。
俺は追わなかった。
あの時点では、引き留めるための論理的武装を持っていなかったからだ。
頭の棚が勝手に解剖学的損傷を計算する。
第二中手骨に沿って、深い切創が走っていた。
総指伸筋腱が断裂していても、受傷直後なら端々縫合で機能を再建できる。
三日放置すれば筋線維は不可逆的に短縮・萎縮する。
一週間も経てば瘢痕組織が癒着し、あの右手は二度と拳を握れなくなる。
いま男がどこで朽ち果てているか、俺は知らない。確かめる術もない。
ただ、男が垂れ流していった血痕だけが、土間に黒くこびりついている。
俺の技術が劣っていたのではない。
境界線を明示していなかった。
ただそれだけの瑕疵で、生体の一器官が永久に機能を全廃する。
強固な防壁を引くことにした。
◇
俺は頭の中で構築した四つの掟を、ディエゴへ淡々と告げた。
「一つ。子どもからは、対価を取らない」
「二つ。日々の生活に困窮する者からは、極めてわずかしか取らない」
「三つ。裏社会の人間からは、高く取る。際限なくな」
「四つ――」
そこで一度、呼吸を切る。
「人を売り買いする連中だけは一切診ない。どれほど金を積まれようと即座に叩き出す」
ディエゴは怪訝そうに眉根を寄せた。
「……なんで、そこだけ?」
「一人助ければ、その代償として背後で十人の生体が商品として解体される。だから施術しない」
ディエゴはしばらく沈黙していた。
やがて、どこか気恥ずかしそうに口元を綻ばせる。
「先生、それ……まるで義賊みてえだな」
俺は即座に首を横に振った。
善意ではない。
純然たる収支計算と防衛策だ。
回収できる対象から徹底的に毟り取り、持たざる者からは請求しない。
リスクを伴う相手には法外な値をつけ、存在自体が医療資源の損失を招く相手とは最初から取引を拒絶する。
ただ、それだけの経済原則にすぎない。
「ならば聞くが」
俺は火元から銅鍋を下ろした。
「腕のいい医者と、安い医者と、どちらが長くこの街で生き残れると思う」
少年は口を開きかけ、迷った末に答える。
「……安いほう?」
「違う。潰れない方だ」
「……先生、それ二択の答えになってねえだろ」
「三つ目の解が合理的であるなら、三つ目を選択する」
ディエゴは腑に落ちない表情を崩さない。
俺は鍋の熱湯を水樽へ注ぎ入れた。
煮沸した布を絞り、物干し竿へ手早く広げていく。
問答の後に手を止めれば、それは無益な説教になる。
俺は倫理を講釈するために、この街へ落ちてきたわけではない。
日々の処置は淡々と続いた。
不衛生な環境ゆえ、縫合創が化膿して転がり込んでくる男もいる。
三日目に縫合糸を抜去し、皮下に貯留した排膿を圧出する。
煮沸水で創腔を洗浄し、再閉鎖は行わずガーゼドレーンを留置した。
一度救命したところで、管理を怠れば生体は容易に腐敗へ傾く。それがこの吹き溜まりの日常だった。
◇
その日の夕刻、高熱に喘ぐ幼子を抱えた母親が駆け込んできた。
不法移民らしく、発音には強い訛りがある。
患児の口腔内を検分する。左側の口蓋扁桃が白苔を伴って激しく腫脹し、口蓋垂が健側へ強く圧迫偏位していた。
扁桃周囲膿瘍だ。
被膜を小切開し、内圧の高まった排膿を逃がさねば急性気道閉塞を引き起こす。
「やだ! 切らないで!」
幼児は母親の首筋へ必死に両腕を巻き付けた。
「おうちに帰る! 息が苦しくても、がまんするから!」
「我慢すれば、気道が塞がって窒息する」
「うそだ!」
「切開は一度だけだ」
「ぜったい、一度だけ?」
「ああ」
「痛かったら、先生の指、折れるくらい強く握るからね!」
「好きにしろ」
子どもは泣きじゃくりながら、俺の左親指を握りしめてきた。
小さな手掌の内に、切迫した筋力が籠もっている。
「お母さん、離さないで。絶対だよ」
「離さないよ、大丈夫だから」
母親に頭部を完全に固定させ、俺は左示指で舌根部を強く圧排した。
光源は母親の肩越しに射し込む頼りない夕暮れの自然光のみ。咽頭の最深部は影に沈み、半分しか視認できない。
直視できない領域は、漏れ出る腐敗臭と指頭の弾性で把握する。
目標は前口蓋弓の最膨隆部。深く刺しすぎれば背後を走る内頸動脈を穿孔し、浅すぎれば膿瘍腔を破れない。
猶予は一瞬。
研ぎ澄ませたガラスの極薄刃をミリ単位で滑り込ませ、粘膜下組織を浅く切り裂いた。
約束通り、一度きりの手技で完遂する。
直後、内圧で緊満していた黄白色の悪臭放つ膿汁が勢いよく噴出した。
即座に児の頭部を前傾させ、気管への誤嚥を物理的に遮断する。
子どもは激しく咳き込み、母親の胸元へ顔を埋めた。
「……終わった」
「ほんと……?」
「ああ」
子どもは胸郭を大きく上下させ、荒々しく空気を吸い込んだ。
気道の狭窄が解除され、肺胞へ酸素が一気に送り込まれていく。
「お母さん、息できる。いっぱい入ってくるよ」
涙と鼻汁に濡れた顔に、ようやく微かな笑みが戻った。
「先生の指、折れた?」
「折れていない」
「じゃあ、ぼくの負けかぁ」
子どもは握り締めていた親指を離さず、もう一度屈託なく笑った。
母親は上着の内側から、小銭を握りしめた手を恐る恐る差し出してきた。
開かれた掌に載っているのは、錆びた数枚の銅貨だけだ。
俺はその中から真鍮の硬貨を一枚だけ摘み上げ、残りは母親の手掌へ押し戻した。
縫合糸ひと巻きと、消毒用の酒瓶一本。その調達原価さえ回収できれば十分だ。
母親は、一枚だけ減った自らの掌を信じられない面持ちで見つめ続けていた。
あまりに安すぎる、と顔全体が物語っている。
だが、俺はいかなる釈明も加えない。
境界線は、すでに引き終えている。
あとは、その規則を冷徹に運用するだけだ。
母親は残された硬貨を握り直すと、子どもを抱きかかえて夕暮れの光の中へと去っていった。
戸口で立ち止まり、一度だけ深々と頭を下げる。
その感謝の表情を、俺は意識して視界から排除した。
情緒的な謝意を受け取ってしまえば、次に適正な請求ができなくなる。
甘えが生じれば、引いた線は容易に歪む。
◇
ディエゴはどこからか拾ってきた木板へ、その四つの規則を書き留めたがった。
「先生の名前も彫っとくよ。誰の診療所か一発で分かるようにさ」
「名は要らない」
俺は短く拒絶した。
「俺は文字を書かない」
虚飾ではない。
紙とペンを与えられたところで、俺が記述できるのは細い縦線一本だけだ。
育った故郷も、名付けられた名も、頭の棚には存在しない。
書けないものは、書かない。
ただ、それだけの物理的限界だった。
ディエゴはそれ以上踏み込んでこなかった。
少年は木板へ四つの掟をナイフで刻み込み、戸口の内壁へ立て掛ける。
俺の名を記すはずだった最上段だけが、空白のままぽつんと取り残されていた。
少年が釘先で削り出した文字は不揃いで、二行目の記述だけが妙に深く彫り込まれている。
――生活の苦しい者からは、わずかしか取らない。
己の境遇と重ね合わせ、思わず指先に力が籠もったのだろう。
俺は板の角度をわずかに傾け、外からの斜光が刻印へ的確に落ちるよう調整した。
路地を行き交う者の目に留まらなければ、掲示する実利がない。
板の最下部の余白へ、俺は釘を押し当てて縦線を一本だけ刻み込んだ。
名前ではない。
出力可能な記号を記したにすぎない。
四つの規則。それは慈悲の免罪符ではなく、この街の暴力と無秩序から俺の診療所を防衛するための迎撃陣地だ。
名前のない男が引いたその一本の境界線が、無知と恐怖ゆえに命を落とす弱者たちをすくい上げる防壁となる。
板を設置し終えた直後、戸口の外で不意に足音が途絶えた。
三日前、血を滴らせながら踵を返したあの男だった。
右手に巻かれたボロ布は、さらに赤黒く変色し、異臭を放ち始めている。
「……金が、足りねえんだ」
男が消え入りそうな声で呻いた。
ディエゴがすかさず板の二行目を指頭で弾く。
「文字が読めねえのかよ。金のない奴からは、ほとんど取らねえって書いてあんだろ!」
男は俺の顔ではなく、彫り込まれた木板の文字を食い入るように凝視した。
「入れ」
俺は短く命じた。
今度は、男が背を向けることはなかった。




