第09話「払えるだけ」
正午を過ぎた頃、戸口から差し込む陽光が二度続けて遮られた。
先に落ちてきた影は、骨と皮ばかりに痩せこけた男だった。
両腕で幼い子どもを抱え込んでいる。
三歳か、四歳か。
子どもの顔面は発熱で赤く染まり、乾ききった口唇だけが白くひび割れていた。
男の腕の中で、華奢な胸郭が浅く速いピッチで上下動を繰り返している。
頭の棚が、無意識に呼吸数をカウントした。
毎分四十回超。
相当な高熱。
その半歩背後に、もう一つの重い影が割り込む。
肩幅の広い大男だ。
身なりは荒れているが、靴だけが一流品だった。
左手で右の前腕を強く圧迫し、肘から先の作業着が赤黒く濡れそぼっている。
指の隙間から床へ滴り落ちる血滴の間隔を、棚が計測する。
三秒に一滴。
拍動性ではない。主幹動脈の破綻ではない。
「おい」
大男が左手を上着の内懐へ突っ込み、厚みのある札束を引き抜いて掲げた。
輪ゴムで結束された束が、光の中で鈍く歪む。
「先に俺を診ろ。そのガキの倍払う。いや、十倍積んでもいいぜ!」
痩せた父親が恐怖に身を竦ませた。
抱きかかえた我が子を庇うように、壁の隅へじりじりと後退する。
衣服のポケットから硬貨の擦れ合う音すらしない。
この父親は、手持ちの現金を一ドルたりとも持ち合わせていない。
俺は診察台の布を取り替える手を止めなかった。
視線だけを、二つの生体へ順に配分する。
前腕を撃たれた男。
肘と手首の中間を、銃弾が貫通している。
尺骨・橈骨の骨折はない。前腕筋群の挫滅から暗赤色の静脈血が滲出しているだけだ。止血圧迫を維持すれば、半日はショック死を免れる。
父親に抱かれた子ども。
体温、推定四十度前後。
右足のふくらはぎに、一本の鮮紅色の線が膝窩へ向かって急峻に這い上がっている。
足裏に、黒ずんだ痂皮で塞がれた微小な刺創。
釘か木片を踏み抜いたのだ。
深部に形成された嫌気性菌の膿瘍から毒素がリンパ管へ侵入し、急性リンパ管炎を引
き起こしている。
あと数時間放置すれば、菌血症から敗血症性ショックへ移行し、循環動態が不可逆的に破綻する。
トリアージの解は、最初から出ている。
「札束を引っ込めろ」
俺は腕の男へ視線も向けずに言い捨てた。
「そこの椅子で待て。先に、この子どもを診る」
男の口元から下卑た笑みが消え失せた。
札束を握りしめた左腕が、宙空で硬直する。
「耳が腐ってんのか。俺が十倍払うと言ってるんだよ」
「聞こえている」
俺は父親の腕から幼子を受け取り、診察台の上へ横たえた。
脱水で消耗した小さな肉体は、驚くほど質量がない。
「お前の貫通創は筋層の損傷のみだ。止血を継続すれば命に別状はない。だが眼前の
患児は、嫌気性菌が深部筋膜を侵食し、敗血症性ショックへの移行まで猶予は数時間もない。……金が買えるのは俺の技術であって、患者の順番ではない。椅子へ戻って失血量を数えていろ。死にたくなければな」
男が床を蹴り、一歩詰め寄ってくる。
「俺は十倍の現金を積むと言ってるんだぞ!」
「十倍積まれようと後回しだ」
男は何か怒鳴り散らそうとして、途中で言葉を詰まらせた。
自らの右腕を見下ろす。
血は間欠的に滴っているだけで、噴出はしていない。男自身、今すぐ死神に首を刈られる傷ではないことを本能で理解していた。
俺は男への意識を完全に切り捨てた。
未加工の酒瓶を床の角へ打ちつけ、破断面から薄いガラス片を一枚、親指の爪で鋭く剥ぎ取る。
ガラスの切っ先が、窓からの射光を浴びて冷徹に煌めいた。
子どもの足裏を、高濃度の酒で清拭する。
◇
「押さえろ」
俺はディエゴへ短く指示を飛ばした。
少年はかまどの火の番から手を離し、台の反対側へ素早く回り込む。
「両脚をまとめて抑え込め。骨盤から動かすな」
立ち尽くしていた父親が両手を差し出しかけ、途中で止まった。
指先が小刻みに震えている。動揺した素人の手では、術野をブレさせるだけだ。
俺は顎先で戸口を指した。
「外に出ていろ」
「おとうさん……」
子どもが、熱で掠れた呼気から声を絞り出した。
父親の擦り切れたシャツを掴み、離そうとしない。
「ここにいる。戸のすぐ外にいるからな」
「いかないで……」
父親の瞳に涙が溢れ出した。
それでも、すがる小さな指先を一本ずつ丁寧に剥がしていく。
「すぐ戻る。絶対にここから動かないからな」
父親が外へ締め出されると、子どもは激しく泣き叫び始めた。
「おとうさん! おとうさん!」
「俺がいるぞ」
ディエゴが子どもの耳元へ顔を寄せ、低く呼びかけた。
「先生は愛想ゼロの怖い顔だけど、腕は間違いねえ。俺の割れた腹だって完璧に治したんだ」
「おにいちゃんも……いたかった?」
「死ぬほど痛かった。だが、生きてここにいる」
「やだぁ! ぼく、いたいのやだ!」
「泣いていい。暴れてもいいぞ。俺が絶対離さねえからな」
子どもは涙をぼろぼろと溢れさせながら、ディエゴの腕にすがりついた。
俺は黒く塞がった刺創の直上へ、ガラスの刃先を垂直に当てる。
「切開する」
「まって、まだ――」
刃先を一気に押し込んだ瞬間、子どもの背筋が弓なりに跳ね上がった。
「いたい! おとうさん! いたいよぉ!」
細い両脚が狂ったように暴れる。ディエゴが上半身を覆いかぶせるようにして強固にロックした。
「先生、暴れる!」
「構わない」
「ほら見ろ、まだ暴れる体力が残ってる証拠だ!」
「そんなの、いらない! いたいの、やだぁ!」
子どもは絶叫を上げながらも、ディエゴの腕を握り締め続けていた。
創口から、内圧で緊満していた排膿が一気に押し出されてくる。
灰褐色を帯びた粘調な膿汁。
強烈な腐敗臭が診察台の周囲へ立ち込めた。
創腔内へ指先を差し入れ、壊死した皮下組織を掻破する。深部にさらなる膿瘍腔を触知した。
ガラス片を角度を変えて滑り込ませ、膿瘍壁を内側から破砕する。
最初の倍量を超える膿が、奔流となって溢れ出した。
続いて、ふくらはぎを這い上がる紅斑のラインに沿って指頭を走らせる。
リンパ管の走行そのものではなく、その外側組織が健側と比べて硬く浮腫を起こしていた。
指先で圧迫すると、子どもの膝が再び痙攣するように跳ね上がる。
病巣は、この筋膜直下のコンパートメントだ。
俺はガラス片を走らせ、膝下数センチの位置に対孔を開けた。
感染巣が広範囲に及ぶ場合、排膿の出口が単一では機能不全を起こす。
熱湯で煮沸した水、次いで冷水で創内を徹底的にフラッシュ洗浄する。
創口は決して縫合せず、開放創のまま維持した。閉鎖すれば、嫌気性菌が再び密閉空間で増殖する。
滅菌布を当て、血行を阻害しない絶妙なテンションで緩やかに巻き上げた。
処置を終えて数分が経過すると、子どもの呼吸パターンに明らかな変化が現れた。
促迫していた呼気が鎮まり、換気の深度が正常化していく。
頭の棚が、再度の測定を行う。
毎分二十八回。
依然として頻呼吸の範疇だが、受診時とは比較にならないほど循環動態は安定していた。
「おとうさん……」
子どもが弱々しく呼んだ。
「呼んでいいぞ!」
ディエゴが戸口へ向かって声を張り上げる。
「おじさん、終わった! 早く入ってきな!」
父親が転がり込むように土間へ駆け込んできた。
子どもは包帯の巻かれていない両腕を精一杯伸ばす。
「おとうさん、いたかった……すごく、いたかったよ」
「ああ、よく耐えたな。偉かったぞ」
「ぼく、泣いちゃった」
「泣いていいんだよ」
「おにいちゃんも、死ぬほど痛かったって言ってた」
父親が顔を上げ、ディエゴを見つめた。
ディエゴは決まり悪そうに人差し指で鼻の下を擦る。
「……まあな。だが、こいつも無事に生き残った」
子どもは父親の痩せた胸元へ顔を埋めた。
「ぼくも、もう死なない?」
「死なない」
俺が淡々と告げると、子どもは涙の跡だらけの顔を持ち上げた。
「先生、顔はすごく怖い。でも、ありがとう」
「ああ」
◇
視線を転じると、銃創の男は依然として木製の丸椅子に腰を下ろしていた。
札束は膝の上に無造作に置かれ、留め具の輪ゴムが苛立ちを物語るように指先でねじり回されている。
「終わったぞ」
俺は台の上の汚れた布を片付け、熱湯の張られた銅鍋へ使用済みのガラス片を沈めた。
別の空き瓶から、新しい刃を一枚割り取る。
感染交差を防ぐため、同一の刃物を同日に複数人へ使い回すことは論外だ。
男は無言のまま、撃ち抜かれた前腕を台の上へ差し出した。
血染めの袖をハサミで切り裂くと、射入口と射出口がほぼ同一線上に並んで露出する。
創道の内腔には、弾丸によって巻き込まれた衣服の細かい繊維片が固着していた。
銃弾とは、常に外部の汚染異物を引き連れて生体組織へ穿孔する。
指先とガラス刃を用い、異物と微細な挫滅組織を丹念にデブリードマンしていく。
男は奥歯を砕けんばかりに噛み締めたが、呻き声一つ漏らさなかった。
「痛むなら申告しろ」
「言えば、手加減して早く終わらせてくれるのかよ」
「終わらない」
俺は針を組織へ通し、手際よく結紮を完了させる。
「だが、俺は手の速度を一切変えない」
創部を縫合し終えると、俺は男の膝上に置かれた札束から、躊躇なく数枚の紙幣を引き抜いた。
男の片眉が跳ね上がる。
抜き取った額面は、先刻の父親が肉体労働を十年続けても到底届かない大金だ。
「……おい。いくらなんでも取りすぎじゃねえのか」
「ここは俺の縄張りだ」
俺は残りの札束を男の膝へ無造作に押し戻した。
「この治療空間に、銃の危険と脅迫のノイズを持ち込んだ。その迷惑料も追加して置いた。せいぜい、次は撃たれずに来院しろ」
男は札束を上着へねじ込み、短く鼻を鳴らして立ち上がった。
眼窩には怒りの色が宿っている。
だが同時に、奇妙な納得の気配も漂わせていた。
暴力の力学で生きるこの男にも、縄張りの掟という概念だけは骨身に沁みているらしい。
戸口の木板を、ディエゴが横目で見つめていた。
四つの規則。
少年が釘先で彫り込んだ四行の掟だ。
「先生。あれ……本当に言葉通りやるんだな」
俺は湯の中で煮沸される器具の数を数えていた。
刻まれた規則は、厳格に運用しなければただの粗大ゴミと化す。
ただ、それだけの自明の理屈だ。
◆◇
不穏な二人の男が現れたのは、板を戸口へ掲示してから二日後の午後だった。
戸をノックする音は一切鳴らなかった。
視線を上げたときには、開け放たれた戸口の光を塞ぐように二つの影が立っていた。
日に焼けた無骨な体躯、泥にまみれた作業着。捲り上げられた前腕には、色褪せた青黒いタトゥーが覗いている。
腰回りに銃の膨らみはない。
だが、その身に纏う濃密な暴力の気配までは隠せていなかった。
重心の置き方、間合いの測り方だけで即座に判別できる。日常的に他者の肉体を破壊することに慣れきった人間の立ち居振る舞いだ。
先頭に立つ、エラが張った四角い顎の男が倉庫の内観を舐め回すように見回す。
診察台の上では、鎖骨を骨折して腕を吊られた老人が横臥していた。
「へえ」
男が下劣な嘲笑を漏らした。
「噂はマジだったらしいな。黄色いネズミが、底辺の吹き溜まりでご立派な医者ごっこかよ」
俺は老人の副木を固定する布を結ぶ手を、一切止めなかった。
「アール・タトゥム様がお前を気に留めておられる」
男が威圧的に言葉を重ねる。
「どこの馬の骨とも知れねえよそ者が、このシマへ勝手に首を突っ込んでるってな。ここはなぁ、お前みたいなアジア人がのさばっていい場所じゃねえんだよ」
結節をきつく締め終えてから、俺は視線を上げ、男の虹彩を正面から見据えた。
そこに宿っていたのは、個人的な憎悪ではない。
遥かに無機質で、乾ききった侮蔑だった。
人間を記号や家畜のように選別する目。
皮膚のメラニン色素の多寡だけで、絶対的な上下関係を規定する選民の目だ。
権力を笠に着た腐敗警官の中にも、時折まったく同一の目を向けてくる人種が存在した。
「俺は生体の破損を修復しているだけだ。切開創に肌の色など存在しない」
男は喉を鳴らして嗤った。
「減らず口だけは一丁前だな」
半歩、後退する。
「よく覚えとけよ、モグリの先生」
男は戸口の板に打ち込まれていた太い釘を指力だけで引き抜くと、掲げられた四行目の刻印へ、渾身の力で突き立てた。
――人を売買する連中だけは一切診ない。
文字の正中線から、硬い木板がピキリと音を立てて両断された。
男二人は嘲笑を残し、午後の白光の中へと溶けるように去っていった。
診察台の老人が、恐怖に震えながら浅い呼気を漏らす。
「……あいつらは、関わっちゃならねえ。この街で一番たちの悪い連中だ」
俺は首肯しなかった。否定もしなかった。
ただ、その警告を頭の棚の引き出しへ静かに格納する。
排他的な差別意識で動く連中は、必ず近いうちに牙を剥きに戻ってくる。
問題は、それがいつ決行されるかという時間軸の変数だけだ。
◇
その夜、ディエゴが中央から無惨に割れた木板を膝の上に広げていた。
「……先生。四行目、削り落とすか?」
「書き直せ」
「また来たら、同じように壊されるぞ」
「壊されるたびに、何度でも書き直せ」
少年は奥歯を噛み締め、手元へ新しい厚板を引き寄せた。
釘先が木肌を削り、甲高い摩擦音を立てる。
刻み込まれた四行目の文字は、先刻のものよりも遥かに深く、荒々しく彫り込まれていた。
割れた板の破片から、四行目の文字が剥き出しになっていた。
――人を売る連中だけは、絶対に診ない。
アール・タトゥム。
この街の臓器と人間を商品として牛耳る巨悪が、ついに俺という異物に照準を合わせたのだ。
ディエゴが削り出す釘の音が、暗い倉庫に火花のように散る。
敵に読まれたのではない。
俺たちが、奴らの急所に杭を打ち込んだのだ。
さあ、来い。
死神の首をへし折る準備は、とうにできている。




