第07話「百五十万ドル」
車の窓には、外光を遮断する黒い布が隙間なく張り巡らされていた。
目的地を隠蔽する安直な小細工だ。
だが、視界を塞いだところで、車体の挙動まで消し去ることはできない。
左へ三度、右へ二度、緩やかな登坂が一つ。
橋梁の継ぎ目を車輪が二度弾く。
頭の棚が、転舵の角度と加速度から走行ルートを正確に逆算していく。
逃走のためではない。己の座標を把握できていない状態が、ただ論理的に不快なだけだ。
隣席の男は一言も発しなかった。
膝の上で握り締めた拳を開いては、再び強く握り直す。
漂う汗の臭気が酷く濃い。
怯えているのだ。
ボスがくたばれば、自らの命運も尽きる。
人間の恐怖深度は、発汗と呼吸数を測れば一目瞭然だ。
呼吸数は一分間に二十四回。明らかな過換気。
俺は思考の検分を止めない。
車が滑り込んだのは、川沿いに広がる寂れた倉庫街だった。
頬傷の男に促され、地下へ続く錆びついた鉄階段を降りる。
湿ったカビ臭の奥に、濃厚な鉄錆の臭気――血液の匂いが淀んでいた。
まだ新しい。受傷後、それほど時間は経過していない。
部屋の中央に据えられた無骨な長机の上に、一人の大男が横たえられていた。
◇
高級な仕立てのシャツが、腹部を中心に赤黒く濡れそぼっている。
俺は道具袋を床へ下ろし、男の枕元へ歩み寄った。
頭の棚が、瞬時に臨床データを弾き出す。
顔面蒼白、口唇乾燥、橈骨動脈の拍動は微弱かつ急迫。
すでに危険域に達するほどの循環血液量を喪失している。
「二発、と言ったな」
「ああ」
頬傷の男が重々しく頷く。
「一時間……いや、それ以上前だ。どれだけ圧迫しても止まらねえ」
俺はシャツを無造作に引き裂いた。
臍の左に一発、側腹部に一発。
どちらも貫通孔はない。弾頭が体内に留まる盲管銃創だ。
腹壁の緊満度、創口の位置、腹腔内に貯留した推定血液量。
導き出される解は一つしかない。
開腹。
止血。
弾頭摘出。
この男が明日の朝日を拝む手段は、それ以外に存在しない。
「湯を沸かせ」
俺は淀みなく命じた。
「度数の高い酒をありったけ集めろ。清潔な布もだ。それと、灯りを患部の直上へ寄せろ」
男たちは一瞬、部外者の指図にたじろぐように視線を交錯させた。
だが、逆らう者はいない。
笠のない裸電球が、机の真上すれすれまで引き下げられる。
やがて戻ってきた一人が、困惑したように声を絞り出した。
「……水はあるが、火がねえ。ここのガス管はとっくに止められてる」
煮沸用の熱湯がない。
それだけで、常識的な医療手順の半分が消し飛ぶ。
熱で滅菌できない器具など、ただの感染源でしかない。
俺は逡巡することなく、床に転がっていた一斗缶を爪先で蹴り寄せた。
「そこにある木板を割って放り込め。酒を注ぎ、火をつけろ」
「室内で焚き火をする気かよ」
「冷たい汚染器具で腹を切り裂かれるより遥かにマシだ。煙なら階段の吹き抜けへ逃がせ」
男が二の句を継ごうとしたが、俺の無機質な視線に圧されて口を閉ざした。
無用な問答は執刀の邪魔だ。
手が止まれば、机の上の肉塊が死体へ変わる。
缶の中で青白い炎が立ち上がり、気化したアルコールの刺激臭が地下室を包み込んだ。
俺は縫合針と木綿糸を炎の外縁部へかざす。
完全な滅菌には程遠い。
だが、手元のリソースで叩き出せる生存率を極限まで引き上げる。
袋から持参した空き瓶を取り出し、コンクリートの角へ叩きつけた。
鋭利な破片が数枚、乾いた破裂音とともに剥がれ落ちる。
三枚を選び、二枚を捨てた。
残した最後の一枚は、刃先が驚くほど直線を描いている。裸電球にかざしても光の屈折に歪みがない。
近代設備のない暗がりで、替えの利かない唯一無二のメス。
破片を炎にくぐらせ、酒で清拭する。
準備は完了だ。
◇
地下室の壁際には、三人の部下が張り詰めた面持ちで立っていた。
腕を組み、微動だにせず俺の手元を睨み据えている。
誰一人として、腰元の銃把から指を離そうとしない。
何を意味しているかは明白だ。
この机の上でボスの心音が止まれば、俺の眉間にも鉛の弾丸が撃ち込まれる。
連中にとって俺は命の恩人などではなく、失敗すれば即座に処分すべき替えの利くパーツにすぎないのだ。
一番若い男の指先が、上着の裾を神経質に撫で回している。
いつでも抜弾できるよう撃鉄に掛かっている指だ。
俺の背中と、その銃口との間合いはわずか三歩。
頭の棚が即座に射線を割り出す。だが、その計算結果を意識のゴミ箱へ放り捨てた。
背中に突き刺さる殺気を完全に遮断し、神経のすべてを己の両手の指先へと収束させる。
雑念は指先を鈍らせる最大の不純物だ。
今の俺の世界には、眼前の腹部と、二本の手しか存在しない。
ガラスの切っ先が、皮膚を愛撫するように滑った。
赤が滲み出すよりも速く、腹壁が音もなく左右へ割れる。
壁際の男たちが息を呑む気配が伝わってきた。
監視の視線など関係ない。
煮洗いした布で溢れ出る血液を吸い尽くし、瞬時に術野を露わにする。
布を三度替えたところで、主出血点に到達した。
下大静脈の側壁が、弾頭の衝撃波で縦に裂けている。
常人なら視界すら奪われる血の海。
だが、俺の指先に迷いはない。
針を回す。
一針、二針。
常識外れの速度と正確さで繰り出される結紮に、噴出していた暗赤色の血流がぴたりと勢いを失った。
その直下、深部組織に一つ目の弾丸が食い込んでいた。
周囲組織を傷つけることなく指先の触覚だけで剥離させると、変形した鉛の塊が机上へ甲高い音を立てて転がった。
問題は二つ目だ。さらに深部、後腹膜の奥深くに潜り込んでいる――。
その瞬間、頭上の裸電球が電圧の低下によりふっと輝度を落とした。
弱々しい橙色に変色し、激しく明滅を繰り返す。
開かれた腹腔の奥が漆黒の闇に呑まれ、術野の視界が完全にブラックアウトした。
壁際で、撃鉄を起こす硬質な金属音が響く。
「触るな」
俺は冷徹に制した。
「電線を揺らすな。息を乱すな」
電球は三度痙攣するように瞬き、消え入りそうな光量へ減衰した。
光を失った術野へ、俺は何の躊躇もなく指頭を滑り込ませる。
目で探す必要など毛頭ない。
指腹の神経が、すでに後腹膜の奥にある異物の硬質な輪郭を鮮明に捉えていた。
視界が塞がれたなら、触覚の解像度で視ればいい。
ミリ単位の狂いもなく指先を滑らせ、組織から弾頭を引き抜く。
二つ目の鉛塊が机の上に転がり、最初の一弾の隣で静止した。
続いて、全腸管の損傷確認に入る。
指先を走らせ、微小な穿孔や腸間膜動脈の破綻がないかを口側から肛門側へと一気呵成に検分していく。
漏れはない。
俺は木綿糸で皮膚を寄せ、完璧な手際で閉腹を完了させた。
◇
東側の高窓から、青白い黎明の光が差し込み始める。
男の呼吸は深く、力強い一定のリズムを取り戻していた。
橈骨動脈の脈拍は完全に安定し、死相の漂っていた唇に生体の赤みが差している。
処置完了。死神の首根っこをねじ伏せ、現世へ引きずり戻した。
糸端を切り落とし、俺は凝固していた背筋をゆっくりと伸ばした。
酷使した指の関節に、遅れて鈍い軋みが走る。
机の上の男の瞼が痙攣し、ゆっくりと見開かれた。
落ちくぼんだ双眸が天井を一度彷徨い、やがて焦点を合わせて俺の顔面を射抜く。
ヴィンセント・モレッティ。
この街の東側を牛耳る男は、瀕死の淵から這い上がった直後であるにもかかわらず、覚醒した瞬間から俺を見据えていた。
命拾いしたことへの安堵など欠片もない。
恐怖も感謝も介在せず、ただ眼前の人間がどれほどの利用価値を有しているか、それだけを値踏みする捕食者の眼差しだった。
「……いくらだ」
掠れきった、だが威圧感を孕んだ嗄れ声。
俺は道具を袋へ収める手を止めず、平然と言い放った。
「百五十万ドル」
頬傷の男が激昂し、床を蹴って銃口を突き出してきた。
「ふざけるな! ボスの命をダシに足元を見やがって!」
「足元など見ていない。正当な対価だ」
俺は視線すら動かさず、机の上に転がる血まみれの鉛塊を指先で弾いた。
「無影灯も麻酔器もないこの吹き溜まりで、下大静脈の裂傷を縫合し、後腹膜の弾丸を掘り出せる外科医がこの街に何人いる。割に合わないと思うなら、次回は正規の大病院を呼べ」
冷徹に間を置く。
「もっとも――その『次回』があればの話だが」
地下室の空気が完全に凍結した。
モレッティは射すような視線で俺を見つめ続けていた。
やがて、縫合した腹壁に響かないよう気を配りながら、喉の奥で獰猛に口角を吊り上げる。
壁際の男たちは引き金に指を掛けたまま硬直し、頬傷の男の銃口だけが宙で彷徨っていた。
頭の棚が、地上へ続く階段までの歩数を算出する。
十四歩。
届くはずのない距離だ。だが、逃げ道を意識する必要など最初からない。
生殺与奪の権を握っているのは、銃を持つ連中ではなく、命のスペアを握る俺の方だからだ。
俺は道具袋の紐を縛る音を、わざと静寂の中に響かせた。
「……いい度胸だ。請求通りに払え」
ボスの掠れた一言で、張り詰めていた殺気が霧散した。
「命乞いも媚びも売らねえ本物のメス持ちを見るのは、いつ以来だったか忘れたぜ」
頬傷の男が忌々しそうに奥の暗がりから重厚なアタッシュケースを運び出し、開帳した。
中には、幾何学的に敷き詰められた札束の山。
俺は紙幣を一瞥しただけで、一枚も検算しなかった。
数える必要性がないからだ。
この男は、己の命の値段において嘘をつかない。
次に死線を彷徨った際、再び死神の顎から命を買い戻さねばならない唯一の命綱が、他ならぬ俺自身だと骨身に沁みたはずだからだ。
◇
地下室の鉄扉を押し開けると、外は白光に包まれた夜明けだった。
川面が朝の光を浴びて鈍く輝いている。
背後の闇の奥から、部下たちが押し殺した声で交わす囁きが漏れ聞こえてきた。
「……死神を、追い返しやがった」
通り名というものは、いつも本人の知らぬところで自生する。
カラス。
ジャパニーズ・ドクター。
そして――死神を追い返す怪医。
百五十万ドルの闇医者。
その名は一夜にして、この街の暴力装置どもを震え上がらせる絶対の境界線となった。
金のないガキからは一銭も取らずに縫い上げ、街を牛耳るマフィアからは数億を平然と毟り取る。
神の慈悲でも、悪魔の気まぐれでもない。
ただ圧倒的な神業と、冷徹な絶対ルールだけで動く怪異。
――死神を追い返したければ、あの日本人の前へ跪け。
手に入れた大金で、俺の城壁は確実に組み上がっていく。
俺は廃倉庫の板壁に太い釘を打ち込みながら、次に戸口を叩くであろう足音を待った。
足音が重ければ、裏社会の銃創だ。
軽ければ、飢えたスラムの子どもだ。
どちらが転がり込んでこようと、俺が施す外科処置の精度に差はない。
ただ、提示する請求書の桁が異なるだけだ。
最後の一本を壁の奥深くまで打ち抜く。
手を洗い、選別したガラス瓶を規則正しく並べ直した。
さあ、次はどこの大物が、この法外な診察室へ命を買い戻しに来る?




