第06話「前金」
その夜の客は、これまでと纏う匂いが違っていた。
鉄戸を叩く音が酷く荒い。
戸を引くと、三人の男が暗がりに立っていた。
仕立てのいい上着、首元の金鎖、重みのある指輪。
そして、上着の腰回りに不自然な布地の隆起がある。
銃だ。
裏路地の影に怯える側の人間ではない。怯えさせる側に立つ人間たちだった。
頭の棚が、無断で測量を開始する。
先頭の男の胸郭まで、およそ一歩半。
男の腰の膨らみから俺の腹部までは、それより短い。
銃を抜き、撃鉄を起こし、引き金を絞るまでのコンマ数秒。
俺が木箱の死角へ身を沈めるまでの時間。
二つの数値を並べれば、解は一つしかない。
――間に合わない。
この棚の測定を途中で止められた試しはない。
空間の距離、射線の角度、退路の数。棚は俺の許可も取らずに冷徹に駆動する。
分かったところで、現状取れる選択肢が増えるわけではない。
だから俺は、両腕を体側へ下ろしたまま微動だにしなかった。
無防備な掌を相手の視界に晒しておけば、少なくとも即座に引き金を引かれるリスクを一つ削れる。
人の肉体に刃を入れる生業を続けていると、生体がいかに脆い構造物であるかを痛感する。
皮膚のすぐ下に、指先で圧迫するだけで潰れる脈管が走っている。
腹腔の奥には、破綻すれば数分で致死量の出血を招く主幹動脈が通っている。
銃とは、その精緻で脆弱な構造を指先一つの荷重で破壊する道具だ。
俺の両手が数時間かけて繋ぎ止める命を、引き金の重みだけで瞬時に奪い去る。
男たちの腰にあるのは、そういう理不尽な鉄の塊だった。
だが同時に――その破壊を修復できる人間もまた、この街には俺しかいない。
先頭に立つ、頬に古傷のある大男が倉庫の内部を値踏みするように見回す。
視線が、木箱を並べた診察台、壁際に整列させたガラス瓶、干された滅菌布の上を順に撫でていく。
男が探しているのは、正規の病院の記号だ。
白塗りの壁、金属光沢を放つ最新器具、消毒液の清浄な臭気。
ここには、そのどれ一つとして存在しない。
男の喉仏が小さく上下した。
失望の色だ。だがそれでも、この吹き溜まりへ縋るほかに道がなかったのだ。
「お前がジャパニーズ・ドクターか」
「そう呼ぶ者もいる」
「話は早い。道具をまとめろ。一緒に来てもらおう」
「行き先はどこだ」
背後の若い男が、堪えきれずに声を荒らげた。
「ボスが撃たれたんだ! 腹に二発!」
「病院へは運べねえ!」もう一人の男が吐き捨てるように叫ぶ。「助けられるのは、あんたしかいねえんだよ!」
三人が放つ焦燥の色は本物だった。
ボス。
その単語だけで力関係の構図は読める。
この街の暗部を牛耳る男が、今まさに死の淵にいる。
頭の棚は、男たちの焦燥の解像度まで勝手に引き上げていく。
若い男の呼気は荒く、浅い。
一呼吸ごとに肩が大きく上下している。夜風は冷え込んでいるというのに、額から油汗が滴り落ちていた。
三人とも、革靴の縁にまったく同じ質の泥が付着している。同じ地点から、同じ車両で急行してきた証拠だ。
先頭の男の袖口には、赤黒く凝固しかけた血液がこびりついていた。血糊は指の細かい皺にまで深く擦り込まれている。
誰かの腹部を必死に圧迫してきた手だ。
そして、どれだけ押さえつけても溢れ出る血を止められなかった手でもある。
虚飾を弄する人間は、言葉の端々に不自然な間を作る。言葉と言葉の隙間で、次に並べる嘘を頭の中で組み立てるからだ。
だが、この三人にその隙間はない。
並んだ臨床的証拠は、すべて単一の事実を指し示していた。
本物の重傷者が、刻一刻と冷たくなりつつある。
そして三人とも、俺がこの要請を拒絶する可能性など微塵も想定していない。
俺は動かなかった。
「助かる保証はない」
抑揚を排して告げる。
「腹腔を開いてみるまで状況は分からない。それに、条件がある」
「……条件だと?」
「前金だ」
廃倉庫の空気が一瞬で凍りついた。
頬傷の大男の眉根が吊り上がり、右手が腰の銃把へと滑る。
「舐めてるのか。今ここで頭を撃ち抜かれてえのか」
「撃つなら撃てばいい」
俺は両手を下げたまま、静かに視線を返した。
「俺の腹に風穴が開くだけだ。だが、その瞬間にあんたらのボスは死ぬ」
大男の指が止まる。
「腹部への二発――大動脈か下大静脈に触れていれば、保ってあと三十分だ。俺を脅して浪費する一分ごとに、ボスの体内から二百ミリリットルの血液が失われていく。急いでいるのは俺ではない。……助かれば、人間は恩を忘れる。先に払え」
◇
この規則を設ける契機となった夜のことを、俺は今も鮮明に記憶している。
半月ほど前、肩に銃創を負った男が鉄戸を叩いた。
若くはない。荒れた指先の皮膚から、最初は港湾の荷役作業員だと思い込んだ。
体内に埋没した弾丸は、本来むやみに掘り返すものではない。
盲目的に組織を探れば、かえって血管や神経を損傷するリスクが高いからだ。
だが、この街の裏社会において銃弾は決定的な司法証拠になる。連中が体内に残置しておくことを許すはずがなかった。
骨を避けながら弾頭を摘出し、破綻した組織を縫合糸で寄せ、滅菌布を巻き終えるまでに三時間を要した。
男は麻酔なしの激痛に歯を食いしばって耐え抜き、処置が終わると俺の手を固く握りしめ、必ず代金を持ってくると誓った。
その双眸に嘘の色は見えなかった。翌週、金を工面して持参すると言い残し、夜の路地へと消えていった。
その男の姿を再び見かけたのは、十日後の白昼だった。
通りの向かいで、俺が再建した側の腕を器用に回しながら、仲間と下品に笑い転げていた。
男と視線が交錯する。
男は目を逸らしすらしなかった。
俺が間合いを詰めると、男は無傷の左手を革ジャンの懐へ突っ込み、平然と言い放った。
「払う金があるくらいなら、端から正規の病院へ行ってるさ」
筋は通っている。
だから俺は拳を振るいもしなかったし、逃げる背中を追跡もしなかった。
ただ、頭の棚の中では、消費された縫合糸の長さとアルコールの量が淡々と清算されていた。その三時間があれば救護できたはずの、他の患者の想定人数も棚に並んだ。
俺が被った損失は、紙幣の額面ではない。
次の患者へ回すべきだった布と糸を、あの男の肩が一方的に奪い去っていったのだ…。
人間は、危機が過ぎれば恩義って言うものを忘却する…。
恩義の重量など、財布の軽さにも及ばない。
死線から生還した途端、その者にとって俺の存在は「用済みのガラクタ」へと成り下がるのだ。
ならば、治療を渇望されている極限状態のうちに対価を回収するしかない。
その夜、俺は手元に残った縫合糸の数を数えた。
わずか八本。
次に開腹手術を要する急患が転がり込んできた場合、閉腹まで保つかどうかも怪しい数だった。
怒りや恨みは湧かない。
感情を昂らせたところで、手元の糸が一本たりとも増えるわけではないからだ。
代わりに、俺は一つのルールを設けた。
――危険を持ち込む側の人間には、必ず前金を要求する。
子どもと、明日の糧食すら持たない困窮者は例外とする。
対価を徴収しない対象をあらかじめ規定しておくのは、慈悲ではない。有限な医療資源を、誰に優先配分するかというトリアージの規律だ。
俺の腕では、一日に二組しか動かない。
誰の命を繋ぐかを最終的に決定するのは、結局のところ、その日の手元に残された糸の本数なのだ。
◇
―――相手の顔色を窺って言い値を変えるつもりはない。
これは感情ではなく、純然たる物理計算のルールだ。
危険を背負い込む相手であるほど、対価は事前に確保する。それが、この無法の街で医療行為を継続するための絶対条件だった。
大男の視線と、俺の視線が闇の中で噛み合う。
必要なのは虚勢ではない。相手に残された生物学的猶予を、冷徹に提示することだけだ。
互いの呼吸音だけが、薄暗い倉庫の中で四重に重なり合っていた。
やがて大男の喉から、押し殺した乾いた嗤いが漏れ出た。
「……いい度胸だ。ボスが気に入りそうな面構えだな」
大男は上着の内ポケットから分厚い札束を引き抜くと、床のコンクリートへ無造作に放り投げた。
足元の泥の近くへ落とす。拾わせることで、俺の頭を物理的に下げさせる意図だ。
暴力で支配する者たち特有の、歪んだ序列の誇示だろう。
「前金だ。残りの報酬は、命を拾い上げたあと本人から毟り取れ。ヴィンセント・モレッティ――この街の東半分を牛耳る男だ。逃亡も失敗も許されねえぞ」
俺は床の札束を一瞥した。
どれほど大金を積まれようと、解剖台の上に乗ればマフィアの首領もスラムの浮浪者も同じ肉の塊にすぎない。
「プライドの代金としては安すぎる」
俺は淡々と告げ、膝を折って札束を拾い上げた。
「だが、前金としては受理しよう」
頭を下げる動作に何の痛痒もない。床に転がろうと、紙幣の価値に揺らぎはないからだ。
札束をズック袋の底へ落とし込み、その名前を頭の棚へ格納した。
ヴィンセント・モレッティ。
これから腹部を切開する対象であり、今後の俺の処置の単価を決定づける男だ。
道具袋の口を広げ、内容物を指先で点検する。
縫合針の残数、木綿糸のロール、消毒用アルコールの残量。
確認を終えてから、煮沸済みの布をさらに二枚押し込んだ。
腹部銃創二発による大量出血を想定すれば、術野の血液を処理するドレッシング材は確実に逼迫する。
道具袋の紐を肩へ掛けた。
針、糸、アルコール。
最後に、未加工のガラス瓶を一本、袋の隅へ滑り込ませる。
鋭利なガラス刃なら、切開の直前に現地で叩き割れば事足りる。
倉庫を出る前に、診察台代わりの木箱の上へ乾いた布を一枚広げて被せた。
夜明けまでに、別の傷病者がここを訪れるかもしれない。
駆け込んできたとしても、俺は不在だ。
それでも、ここが誰かの命を繋ぎとめる場所であるという『痕跡』だけは残しておきたかった。
形が保たれていれば、人々はまたこの戸を叩く。
叩かれなくなった場所は、ただの薄汚れた廃墟へ逆戻りするだけだ。
頭の棚が、今度は別の変数を並べ始めた。
腹部銃創二発。受傷からの経過時間。搬送にかかる距離と振動。
数値を代入すればするほど、算出される救命率は限りなくゼロへ収束していく。
だが、収束するだけで、まだゼロと確定したわけではない。
俺は戸口に立つ男たちを見据えた。
「案内しろ」
名前しか知らないボスの腹の中を、これから確かめる。




