第05話「ジャパニーズ・ドクター」
噂は、予想を超えて速く走った。
数日のうちに、倉庫の戸を叩く者の数が膨らんでいく。
切り傷を押さえた男。
高熱に震える子どもを抱えた母親。
端布で腕を吊った老人。
どの者も警察の巡回車両を避けるように、街灯の届かない裏通りを選んで辿り着く。表通りの大病院へ駆け込めば、身元を証明する紙がないと詰問され、そのまま司法の手へ引き渡されてしまう者たちだった。
最初の三日で七人。
四日目には十一人。
数えるつもりなどないのに、頭の棚が勝手に記憶を蓄積していく。
戸を叩く拳の強さ。
次の打音までの間隔。
そこへ至る足音の質量。
引きずるような重い足取りなら骨の損傷。
軽くて速い足音なら急性の出血だ。
血は、こちらの都合など待ってくれない。
俺は倉庫の片隅を片付け、最小限の処置場を仕立てた。
木箱を二つ並べれば簡易の診察台になる。据える位置は、日中の自然光がもっとも差し込む窓際に決めた。
生体を診るには十分な光量が欠かせない。この街において、無償で手に入る照明は太陽光だけだった。
◇
最初に診た子どもは、母親の背にしがみついていた。
七歳前後だろう。
顔面は発熱で赤く染まっている。
それでも、俺を見つめる眼差しにはまだ明確な意志が残っていた。
「おじさん、切るの?」
子どもは、窓枠の下に並ぶガラス瓶をじっと見つめている。
「切らない」
「ほんとに?」
「ああ」
「嘘だったら噛むからね。ぼく、歯は強いんだ」
そう虚勢を張った直後、子どもは苦しげに咳き込んだ。
母親が痛ましそうに小さな背をさする。
「昨日から熱が引かないんです。水すら飲んでくれなくて」
「まずは、水分だ」
俺は缶の真水を小さな器へ移した。
子どもは露骨に顔を背ける。
「いらない。飲むと喉が痛い」
「三口でいい」
「一口」
「三口だ」
「じゃあ二口。二口なら飲む」
カラスの診療報酬を値切るような真似をしてくる。
「三口」
「けち」
子どもは俺を睨みつけながら、渋々一口目を啜った。
顔をしかめる。それでも二口、三口と喉を鳴らした。
「……飲んだぞ」
「ああ」
「褒めないの?」
「嚥下できると確認できた」
「それ、全然褒めてない」
減らず口を叩く余力はある。
呼吸数はやや多いが、肺胞呼吸音に重篤な雑音はない。項部硬直はなく、首は自在に動く。呼びかけに対する反応も明瞭だ。
中枢神経を冒すような致死性の熱ではない。だが、脱水がこのまま続けば全身状態が崩れる。
「少量ずつ頻回に飲ませろ。吐いたらさらに量を減らせ。呼吸が荒くなったら即座に連れてこい」
俺が母親へ指示を出すと、背中の子どもが先に口を開いた。
「ちゃんと飲むよ。母ちゃん、昨日ずっと泣いてたから」
「泣いてなんかないよ」
「泣いてた。ぼくが寝たあと、ずっと」
母親は口を噤んだ。
子どもは熱を持った小さな手で、母親の痩せた頬に触れる。
「ぼく、死なないよね?」
俺を見つめる瞳から、先刻までの強がりが綺麗に抜け落ちていた。
「今すぐ死ぬことはない」
「今は、って何だよ」
「指示通り水を飲めば、明日も死なない」
子どもはしばらく俺を睨み、やがて母親の首元へ顔を埋めた。
「……じゃあ飲む。明日、弟とサッカーする約束なんだ」
「明日は寝てろ」
「けち。何でも駄目って言う」
文句を言いながらも、子どもは器を両手でしっかりと抱え込んだ。今度は促されることもなく、自ら喉を潤した。
◇
次に現れたのは、港湾で太い索条を扱う屈強な男だった。
差し出された右手は、手の甲から指の根元まで丸く腫れ上がっている。皮膚は張りつめて光沢を帯び、触れるまでもなく強い熱感を放っていた。中心部に微小な刺創がある。
三日前に錆びた釘を踏み抜いた、と男は言った。そして、踏んだのは足なのにどうして手が腫れるのかと怪訝そうに尋ねてくる。
「問答は後だ」
俺は木箱の天板を叩き、そこへ前腕を固定させた。
皮下に膿瘍が形成されている。切開して膿を排出させるしかない。
痛みを散らす麻酔薬など存在しない。
手元にあるのは高濃度の酒と火、そして割った瓶の破片だけだ。
「患部を押さえ込む助手がいない」
俺は男の腕を見据えた。丸太のように太い。暴れられれば、刃先が腱や指の動脈を傷つけかねない。
「暴れれば腱を切る。腱が切れれば索は引けない。索が引けなければ、お前は明日から食い扶持を失う。――動くな」
男は奥歯を噛み締め、空いた左手で自らの膝頭を万力のように締め上げた。
ガラス片の先端を火炎であぶり、酒で清拭する。
腫れの頂点へ切っ先を当て、一気に刃を走らせた。
表皮が裂けた瞬間、内圧の高まった黄色い膿汁が勢いよく噴出する。
男の喉から、押し殺した獣のような呻きが漏れた。それでも腕は一ミリも動かない。
上出来だ。
左手の指頭で創縁を押し広げ、深部に残存する膿苔を掻き出す。
指先が創底に触れる。ここまで壊死組織を除去しなければ、翌日には同じ場所が再燃する。
創腔内へ直接酒は注がない。煮沸消毒した水で内部を丹念に洗い流す。
細く裂いた清潔な布を傷口へ差し込み、残った膿が外へ流れ出る道を作った。
処置完了だ。
男は拍動する手を見つめ、それから深く頭を下げた。
「明日から、また仕事に出ていいのか」
「索は握れる。ただし、このガーゼの芯は毎日交換に来い」
「なぜ足の釘で手が腫れた」
「釘を抜いたとき、その手にも傷があったはずだ。付着していた汚れが手の傷へ侵入し、組織を化膿させた」
男は何度も頭を下げた。握手を交わそうと左手を差し出しかけたが、俺の指先が膿と血で汚れているのに気づき、慌てて引っ込めた。
そうした配慮のできる人間は、術後の養生規則も大半が遵守する。
◇
患者の増加に伴い、資材が増えていった。
無償診療を貫いても、代金の代わりに物資を置いていく者が絶えないからだ。
頑丈な木箱、金属の洗面器、洗濯済みのシーツ、湯沸かし用のたらい。
金を受け取らなかった患者たちが、各自の判断で必要な備品を置いて立ち去る。
空き瓶はガラスの厚みごとに分別し、縫合針は太い順に布へ刺した。暗がりでも指先の感覚だけで選定できる並びに整える。
埃まみれだった倉庫の一角は、日ごとに野戦診療所宛らの体裁を整えていった。
図面ではなく、救われた人間たちの置き土産がこの場所を形作っていた。
◇
その後に現れたのは、肩関節を脱臼した若い女だった。
市場の雑踏で突き飛ばされ、荷車の取っ手へ肩から激突したのだという。
左腕は脱力したまま垂れ下がり、肩の滑らかな丸みが消失して角ばっている。
爪床の色調は悪くない。末梢への動脈血流は保たれている。
一刻を争う外傷ではない。だが、女は俺の存在そのものに怯えきっていた。
俺が一歩進むと、女は半歩後ずさる。木箱の腰掛けを促しても座ろうとしない。倉庫内に漂う血の臭気と、窓際に並ぶガラスの破片を見比べて震えていた。
「切らない」
俺は先に宣告した。
「刃物は一切使わない。整復に必要なのは、俺の両手だけだ」
女は微かに頷いたものの、全身の筋緊張は解けない。
強張った肩関節は整復できない。力任せに牽引すれば、骨の縁を欠損させる。
俺は女に、市場の露店で何を扱っているのか尋ねた。
豆と、乾燥唐辛子だと小声で答える。
一日に何袋の荷を運ぶのかを問う。
三十袋、と返答がくる。
数値を口にする過程で、肩周囲の強張りがわずかに緩んだ。
俺は女の肘部を掌でそっと受ける。
話の相槌を打ちながら、腕をゆっくりと外側へ回旋させていった。
上腕骨頭が肩甲骨のくぼみへ吸い込まれる軌道が、掌越しに伝わってくる。
――コキリ、と鈍い整復音が一つ。
女が短い悲鳴を上げた。
直後、肩は本来の自然な輪郭を取り戻していた。急性の疼痛も、すでに急速に引いているはずだ。
だが、女は弾かれたように木箱から飛び退いた。
先ほどまで動かなかった左手で鉄戸の取っ手を引き、振り返りもせずに路地へ走り去っていった。
治療費を請求する間もなかった。女は一銭も置いていかなかった。
俺は、骨頭が納まった衝撃の残る自らの指先を見つめた。
損傷を治癒させる技術と、他者の恐怖を宥める技術は、まったく別の専用の分野に属しているらしい。
あいにく、俺の引き出しには恐怖を取り除くための道具は用意されていなかった。
◇
やがて評判の流布とともに、俺を指す呼称も変遷していった。
裏路地の東洋人医者。
貧民から金を取らない無免許医。
極東から流れ着いたメス持ち。
それらの異名は、いつしか単一の通称へと収束していく。
「……あんたが、噂のジャパニーズ・ドクターか」
そう呟きながら戸をくぐる者が、日に数人現れるようになった。
俺はいちいち肯定も否定もしない。
己が真に日本人であるのかどうか、確証は何一つ残っていない。
脳裏の臨床知識の片隅に、確かに日本のものらしい語彙が混在している。だが、それを裏付ける記録も戸籍も存在しない。
呼びたい符丁で呼ばせておけば十分だ。記号としての通り名があれば、本名を詮索される手間が省ける。ときには身元を隠蔽するための盾として機能した。
◇
夕刻には、大衆食堂の厨房で働く中年男が転がり込んできた。
寸胴鍋を転倒させ、沸騰した熱湯を左肘から手首にかけて浴びたという。全力疾走してきたため呼吸が酷く荒い。作業着の長袖は、熱傷を負った皮膚表面に熱で固着していた。
冷却用の水が要る。
手元の缶二杯分では話にならない。俺は男に空の桶を持たせ、外の共同井戸まで二往復させた。自走させたほうが搬送の手間を省ける。
その間に清潔なシーツを裂き、煮沸した湯に浸して冷却布を作成した。
皮膚に焼き付いた袖口は、ハサミで慎重に切り裂いて外す。無理に剥離させれば表皮ごと持っていかれる。
肘の内側は広範囲に赤く腫れ、緊満した水疱が連なっていた。
手首周囲の一部だけが、不自然なほど白濁している。指先で圧迫し、離しても毛細血管の赤みが復元しない。
深達性の熱傷だ。
俺は赤い部位を冷水で徹底的に冷やし続け、白い部位には余計な刺激を加えないよう留めた。深く焼けた組織はすでに神経末梢まで麻痺している。触診したところで得られる情報はない。
「水ぶくれ、潰さないんですか」
男が患部を見つめて言う。
「水疱を破れば、そこから何が侵入すると思う」
男は返答に窮し、口を噤んだ。
俺は解答を待たず、布を患部へ巻き始める。皮膚組織を圧迫絞扼しないよう、適度な遊びを持たせて被覆した。
手首の壊死組織は、数日後に腐骨・壊死組織切除を行う必要があるだろう。それは今日の外来処置で扱うべき領域ではない。
巻き終えた腕を見下ろし、男は汚れた財布を取り出した。
そして、俺が提示した請求額を耳にして硬直する。
「……安すぎる」
男の猜疑心に満ちた視線が、俺の顔面から倉庫の暗がりへと彷徨った。
「この額で、あんたに何の旨味がある。後から法外な請求をふっかける気だろう。それとも、寝込みを襲って内臓でも売り飛ばす算段か」
「摘出して、どこの誰に捌く」
俺は余った布を几帳面に畳みながら返した。
「臓器の闇ルートを握っているなら、こんな埃まみれの廃倉庫に留まる理由がない。俺が求めているのは、明日分の縫合糸と酒を調達できる最低限の原価だ。過剰な診療報酬を巻き上げれば、お前は次の熱傷で受診を躊躇する。来院が遅れれば創部は壊死・感染を起こし、前腕切断に至る。そうなれば、俺の手間が三倍に跳ね上がる。――安価に抑えるのは、俺の都合でしかない。気にするな」
男は納得のいかない表情のまま銅貨を置き、後ずさりしながら出て行った。
三日後、その男は指定した再診時刻より半日早く姿を現した。内心で疑念を抱きながらも、提示した医療指示を正確に遂行していた。
コンコン、と鉄戸が控えめに鳴る。
戸口に立っていたのは、肩の整復直後に脱兎のごとく逃げ出したあの若い女だった。
機能を取り戻した左腕で、重そうな豆の麻袋をしっかりと抱え込んでいる。
「……払わずに、逃げたから」
「整復が維持できているなら、それでいい」
「よくない」
女は麻袋を診察用の木箱へ静かに置いた。
「……また外れたら、ここへ来てもいい?」
「来い」
女は初めて俺の顔を正面から見据え、深く頷いた。
恐怖を抱いて逃げ出した患者が、自らの意志で戻ってきた。
供出された乾燥豆は、その日の晩、戸口の前に列を作った次の傷病者三人の胃袋へと消えた。




