第04話「払えない命」
少年の名は、ディエゴというらしかった。
傷口を縫い合わせた翌朝、少年は身じろぎをして目を覚ました。側腹部の縫合糸を指先でそっとなぞり、掠れた呼気で己の名を名乗る。
ディエゴ・レイエス。
街の東外れで、姉と二人きりで暮らしているのだという。
名を告げ終えるまでに、少年は三度短く息を継いだ。
喉が渇ききっている。
俺は、真水を錆びた空き缶に汲んで手渡した。川の濁り水ではない。
少年は両手で缶にしがみつき、顎へこぼしながら一気に喉を鳴らす。
嚥下のたびに腹壁の糸が牽引され、その都度、眉間に痛みの皺が寄った。
痛覚の走り方は正常だ。断裂した組織の両端が、互いを引き寄せ合おうとしている証拠である。
俺はその名を、臨床データと紐付けて頭の棚へ収めた。
ディエゴ・レイエス。左側腹部の銃創、推定失血量は約一リットル、縫合八針。脈拍は昨夜の百二十から、すでに九十を下回る水準まで整っている。
数字は扱いやすい。時折、酷くやかましくもあるが。
正午を過ぎる頃には、ディエゴは自力で直立できるようになっていた。
倉庫の土壁へ掌を預け、一歩ずつ足裏の感覚を確かめるように進む。
俺はその歩様を横目で観察した。
腹圧をかけても体幹は崩れない。創部深層の癒合は順調だ。
木箱の角を掴む指の把握力。
踏み出す歩幅の均等さ。
背後を振り返る際、体幹ごと回すか、首の回旋だけで済ませられるか。
首の可動だけで済むなら、腹腔への負荷はもう恐れる段階にない。
少年は、首だけで振り返った。
「三日は走るな」
俺は釘を刺す。
「走れば糸が切れる」
「走ったら、どうなるんだよ」
「再び腹が割れる」
少年は自らの下腹部を見下ろし、露骨に顔をしかめた。
「でも、姉ちゃんが待ってる。おれが死んだと思って、泣いてるかもしれないんだ」
「歩いて帰れ」
「歩くと遅いだろ」
「走れば、余計に遅くなる。ここへ逆戻りする羽目になるからだ」
少年は不満げに口を尖らせた。
「医者ってのは、みんなそんな減らず口を叩くのか」
「他の医者は知らない」
「……あんた、本当に変な奴だな」
俺は空き缶を受け取り、少年の上着の裾をたくし上げた。露出した結び目を一つずつ指頭で押す。
四つ目が緩んでいた。
迷わず糸を切り、新しい木綿糸で掛け直す。
「痛くねえよ」
少年は即座に強がってみせた。
だが、呼気は微かに震えている。
「痛むなら痛いと言え。無意味な強がりは、傷の異常を覆い隠す」
少年は奥歯を噛み締めた。
「……痛いよ。めちゃくちゃ痛い。でも、生きてるから痛いんだろ」
「そうだ」
その短答を聞くと、少年は微かに頬を緩めた。
「なら我慢できる。走らないで、歩いて帰るよ」
戸口まで進んだところで、少年は足を止めて振り返った。
「姉ちゃんに、あんたのこと話していいか」
「好きにしろ」
「名前は?」
俺が無言を返すと、少年は困惑したように笑った。
「名前すら教えないのかよ。つくづく変な医者だ」
今度こそ、少年は倉庫の外に広がる陽光の中へと歩み去っていった。
◇
その後の二日間は、金属くずを換金し、投棄された酒瓶から切開に適したガラス片を選別して過ごした。
ディエゴの姉が訪ねてきたのは、二日後の夕暮れ時だった。
錆びついた鉄戸を叩く、遠慮がちなノックの音。
戸を引くと、二十歳前後の若い女が立ち尽くしていた。
ディエゴとよく似た深い色素の黒髪と瞳。
擦り切れた上着、細い手首、節くれだった指先。
日々の過酷な貧窮が、その生体組織へ克明に刻まれている。
頭の棚は、求められもしないのに、そうした生活環境の兆候まで瞬時に拾い上げてしまう。
「あなたが、弟を助けてくださった方ですか」
女が口を開いた。
「ロサ・レイエスと申します。ディエゴの姉です」
俺は無言で頷く。
ロサは唇を噛み、上着のポケットから皺だらけの紙幣を数枚引き抜いた。
俺が金属くずを叩き売って得た額の、半分にも満たない端金だ。
だが、この女にとって容易に差し出せる金でないことは明白だった。
強く握り締められた指先が白く鬱血している。それだけで事足りた。
「これしか……用意できなくて」
ロサは紙幣を両手で差し出す。
「全然足りないのは分かっています。でも、残りは働いて必ず返しますから。掃除でも洗濯でも、何でもします」
俺は差し出された紙幣を見下ろし、首を横に振った。
「要らない」
ロサの手が空中で止まる。
拒絶の意味を咀嚼できない表情だった。
「……どうしてですか。弟の命を救ってもらった代金です」
「お前たちからは取れない」
俺は淡々と告げた。
「支払える余剰がないからだ」
情緒的な誤解を招くのは効率が悪い。
俺は事実だけを淡々と付け加える。
「ない所から絞り取ったところで、俺の手元に残る実利はない。お前は破綻し、弟は再び危険な橋を渡る。結果として、俺の患者が無駄に増えるだけだ。だから請求しない。それだけの損得勘定だ」
ロサは言葉を失い、立ち尽くしていた。
やがて握り締めていた紙幣を、時間をかけてポケットの底へ戻す。
その指先は依然として震えていた。
安堵からか、あるいは辱められたと感じたからか。
頭の棚は、そうした感情の機微までは計算しない。
「あなたのことを、何とお呼びすればいいですか。弟を救ってくれた人の名を、周囲に伝えたいんです」
名前。
その単語を照合しても、頭の棚の引き出しは空のままだった。
生国も、親に与えられた名も、そこには一切残されていない。
紙とペンを渡されたところで、俺は自らの名を記せない。
ただ一つ、発声器官の奥に染み付いた音節があった。
「カラス」
俺は言った。
「それだけでいい」
ロサはその名を反芻するように、小さく唇を動かした。
「カラス……」
そして深く一礼すると、夕闇の迫る路地へと踵を返した。
戸を閉ざしたあとも、その無機質な音の余韻だけが、薄暗い倉庫の空気に漂っていた。
◇
鉄戸は完全には閉め切らなかった。
わずかな隙間から、夕刻の冷えた川風が吹き込んでくる。
水を汲みに出るつもりで、俺はそのまま戸口に立った。
路地の角に、洗濯物を抱えた老女がいる。
ロサはそこで足を止め、老女に何か耳打ちした。
老女が耳を寄せる。
ロサは自らの左側腹部を指し、次に川の方向を、最後に俺の倉庫を顎で指し示した。
老女の口元が動く。
距離があり、声は届かない。
だが、ロサの唇が二度、はっきりと同一の形を結ぶのが視認できた。
――カラス。
老女が納得したように頷く。
抱えた洗濯物を持ち直すと、路地の奥へと歩み去っていった。
途中で井戸端に立つ男へ声をかけ、男が手を止め、怪訝そうにこちらを凝視する。
俺は視線を逸らさず、直立を保った。
男はすぐに興味を失ったように目を逸らし、元の作業へと戻っていった。
それだけの、五十歩ほどの視界の出来事だ。
路地の壁は、どこも等しく煤けている。
酸性雨と煤煙で灰色に変色した煉瓦。
窓枠には板が打ち付けられ、その上から誰かの落書きが無秩序に重なる。
その陰鬱な風景の中を、女が一人歩き去っていく。
俺が縫合した少年の姉であり、俺の呼称を街へ運ぶ最初の媒介者だ。
評判というものは、そうやって自生していくらしい。
俺が差し出したのは「カラス」という記号にすぎない。だが女が街へばら撒いたのは、「金のない者から報酬を取らない医師がいる」という情報だ。
記号よりも、後者の情報のほうが遥かに質量がある。
いずれその重さに引き寄せられ、この鉄戸を叩く者の数は幾何級数的に増えるはずだ。
◇
ふと視線を落とすと、戸の掛け金の足元に小さな包みが置かれていた。
頭の棚は、こうした情緒的な事象の処理ばかり計算が遅れる。
粗野な麻布が二枚。
綺麗に洗われ、天日に干され、手のひらで丁寧に皺が伸ばされていた。
その中に、油紙で包まれたトルティーヤが四枚。
まだ、僅かに人肌の温もりが残っている。
俺は包みを抱え、診察台代わりの木箱の上で広げた。
麻布を掲げ、夕暮れの斜光へ透かしてみる。
織りは粗く、縁にはほつれもある。だが、確実に真水で煮洗いされている。
血を吸わせるドレッシング材としては、申し分のない実用性だ。
俺は布を膝の上に広げ、躊躇なく引き裂いた。
八等分に。
それから鍋に湯を沸かして煮沸し、裸火の上にかざして乾かす。
完全滅菌には程遠い。
それでも、未処置の端布を用いるよりは感染リスクを大幅に低減できる。
立ち上る湯気の中で、麻の繊維が微かに収縮した。
生活に余白のない貧民層から供出されたこの二枚の布は、あの紙幣よりも遥かに実利的な重みを有している。
俺は感傷を切り捨て、医療資材として計上することにした。
診察台の上に残されたのは、トルティーヤ四枚。
俺はそれを、無言で見つめた。
金銭を拒絶しておきながら食物を受領するのは、合理的論理として筋が通らない。だがこれを突き返せば、ロサは再び自尊心を損ねた表情を浮かべるだろう。
頭の棚は、解を出力してこない。
数値化できない事象は、あの棚のグリッドを素通りしてしまうのだ。
結局、俺は一枚を掴み、口へ運んだ。
冷めて硬く、塩気も乏しい。
だが噛み締めるほどに、トウモロコシ粉の素朴な甘みが舌の上に滲み出した。
コンクリートの床にあぐらをかき、川風の湿った匂いの中で、俺は残りの三枚も胃袋へ収めた。
栄養失調で倒れた術者に、他人の創部を縫合することはできない。
俺がこれを摂取するのは、次の外科処置へ向けて生体の稼働状態を維持するためだ。
そう定義づけるならば、この四枚のパンは治療報酬ではなく、単なる施術者の燃料補給に分類される。
――そういう理屈に落とし込むことにした。
その夜更け、鉄戸の向こうで足音が不意に止まった。
「……カラス先生は、ここにいるのか」
聞き覚えのない、男の嗄れ声だった。
ロサが街へ放ったその名は、すでに次の傷病者を呼び寄せていたmaru




