第03話「ガラスの刃」
このままなら、一時間もたない。
病院へ運んでも、途中で息絶える。
頭の棚が、静かに答えを出した。
――助けられる。
俺の手には、まだ道具がある。
人の体を開き、閉じるための技術もある。
それを使える人間は、この暗がりに俺しかいない。
誰もやらないなら、俺がやる。
それだけのことだ。
少年の脇の下へ腕を差し入れた。
骨の浮いた背は、思ったより軽い。
四十キロ台の前半。
棚が勝手に数字を弾き出す。
担げる。
だが、担いだまま走れば、心臓が急激に血を押し出してしまう。
だから走らない。歩幅を狭く保ち、足運びの速度だけを上げた。
◇
少年を背負い、目をつけていた空き倉庫へ運び込む。
医療資材など無いに等しい。
途中で拾い集めたものを床へ並べた。
強い酒、裁縫用の針と糸、手を洗う水、ライター。
それだけだ。
かつての手術室とは、何もかもが違う。
それでも、やるしかない。
並べた資材を、一つずつ確かめる。
木綿糸は生体に吸収されない。体内に残せば感染源になる。深部の血管だけを縛り、傷を閉じる結び目はすべて外側へ逃がす。
太い縫い針は石の角で研いだ。酒は傷口へ流さず、道具と手指の消毒だけに充てる。
布の数も検分する。
拾った作業着を裂いて作ったウエスが十二枚。
一枚が吸える血液は、せいぜい一口分。十二枚では三十分ももたない。
足りなければ上着を裂く。その先は、素肌を晒すだけだ。
水は瓶に一本半。
半分を手洗いに使い、一本を腹腔内の洗浄へ回す。足りない分は布で拭い去るしかない。
明かりが要る。
月光だけでは血の色すら判別できない。割れた鏡で光を患部へ反射させたが、光量がまるで足りない。
揺れる火は影を動かし、刃先を滑らせる。
俺は空き缶の底へ機械油を垂らし、ほどいた布糸を芯にして、小さな灯火を二つこしらえた。
左右から患部を挟むように照らせば、光量は乏しくとも影は消える。これで十分だ。
◇
刃が要る。
割れずに残っていた酒瓶を、床の縁へ鋭く打ちつけた。
狙いどおり、薄く鋭利な破片が数枚剥がれ落ちる。
その中から一枚を選び、指先で慎重に持ち上げた。
あの世界では黒曜石を使った。素材がガラスに変わっても、切れる仕組みは同じだ。
だが、安物の瓶ガラスには気泡があり、破断面も波打つ。組織へ引っかかれば微小に欠け、腹の中に異物の粒を残しかねない。
五枚を吟味し、厚みの揃った三枚を残した。親指の腹へ軽く当てただけで、抵抗なく白い筋が走る。根元を挟んでも撓まない。
使える。
一枚目で皮膚を開き、二枚目で深部組織を切り分ける。三枚目は予備だ。
道具を火であぶり、酒で洗う。
菌をすべて消せたわけではない。
それでも、できることはすべてやる。
俺は長く息を吐き、ガラスの刃を下ろした。
◇
少年に意識はない。
それだけ、生存の猶予が残されていない証拠でもあった。
麻酔はない。
待てば死ぬ。
今、開く。
ガラスの切っ先が、皮膚をなぞるように滑った。
赤が滲み出すよりも早く、皮下組織が静かに左右へ開く。
左手で創口を押し広げ、右手で深部を探る。
針を掴む鉗子はない。俺の指先がその代わりになる。
創口を広げたまま固定する開創器もない。この左腕一本で十分だ。
布に血を吸わせ、三度取り替えたところで、破綻した血管へ届いた。
ここだ。
針へ糸を通し、一針、二針。
手先は、少しも震えなかった。
処置の途中で、灯火の一つが立ち消えた。
片側に影が落ち、患部の奥が闇に沈む。
油を足す間だけ、布を押し当てて止血を維持した。
待機の間、頭の中で淡々と秒を刻む。
二十二、二十三。
数え終える頃には、布の表面へ黒い染みが滲み出していた。待った時間の重さが、そのまま血の量となって現れる。
布は十枚目で底をつきかけた。
膝で上着を押さえ込み、奥歯で袖の縫い目を噛み裂く。
繊維が引き裂かれる乾いた音が倉庫に響き、少年の細い呼吸だけがその音に応えた。
引き裂いた布は粗く、硬い。吸血効率が落ちる分、長く押さえて止血を補う。
時間の感覚が、どこかで輪郭を失った。
何度目かに布を替えた際、それが五枚目だったのか八枚目だったのかすら判然としない。
頭の棚は、脈拍と失血量を冷徹に測り続けている。だが、執刀から何分が経過したのかだけが抜け落ちていた。
腰も膝も、疲労を訴えてこない。
肉体が沈黙している。
集中による忘我とは違う。手術が完了するまで、痛覚と疲労の処理が強制的に後回しにされているのだ。
ふと、乾いた疑問が頭をよぎる。
本来なら、五人で分担すべき仕事だ。
腹を切る執刀医、血を止める助手、器具を渡す看護師、麻酔を管理する者、使用した道具を数える者。
その全工程を、今この暗がりで俺一人がこなしている。
なぜ、できるのか。
答えは出ない。
世界を渡るとき、俺の頭と体には過剰な強度がこびりついた。
それだけは確かだ。
あの瞬間、世界の循環から弾き飛ばされた、という感触だけが肌に残っている。
誰が弾いたのかも、なぜ弾かれたのかも知らない。
弾かれた際にこの身へ残った異質な力が、いま一人の少年を現世へ繋ぎ止めようとしている。
感謝も畏れもない。
ただ物理的な事実として、手元にある機能を使う。
それだけのことだ。
傷を閉じる前に、俺は三枚の刃を床へ並べ直した。
一枚目、二枚目、予備。
刃先の欠けはない。
数が一致する。
破片を体内に残したまま閉じれば、この少年は数年後に原因不明の激痛と膿瘍に苛まれることになる。
残った水で創腔を洗い流し、指の腹で組織の奥まで丹念に確かめた。
ざらつきはない。
そこでようやく、皮膚を寄せて最後の縫合を終えた。
◇
東の空が白み始めるころ、少年の呼吸は深く、規則正しくなっていた。
手首で脈を取ると拍動は整い、蒼白だった唇にもわずかな血色が差している。
峠は越えた。
縫い目を酒で拭い、糸の端を切り落として、ようやく背筋を伸ばした。
高い窓から差し込む黎明の光が、床に広がった血溜まりを黒から赤へ塗り替えていく。
立ち上がった瞬間、沈黙していた関節が一斉に軋みを上げた。
膝が強張り、指の節々が曲がったまま固まって戻らない。
どれだけの時間が経ったのか、今も分からない。
窓の向こうの空の色だけが、答えの代わりだった。
少年が、ゆっくりと瞼を開けた。
「……あんた、誰だ」
掠れた、乾いた声だった。
「金は、ない。おれ、一ドルも持ってないんだ」
少年は震える手で、俺の袖をすがるように掴んだ。
「だからって、外へ放り出さないでくれ。姉ちゃんに会うまで、死にたくない」
俺は静かに首を振る。
「捨てない。金も取らない」
「……なんでだよ」
少年の瞳に涙が滲んだ。
傷の痛みからくるものではない。
わずかに思考を巡らせる。
慈悲や同情といった言葉は、どうにもしっくりこない。
俺が選択したのは、そうした情緒ではない。
「お前からは取れない。払える金がないからだ」
「そんな理由で、助けたのかよ」
「そうだ」
少年は涙を浮かべたまま、ふっと息を抜いて笑った。
「変な医者だな、あんた」
袖を掴んでいた指から、ふっと力が抜ける。
「姉ちゃんに……会えるかな」
「会える」
「そっか。じゃあ、少し寝る」
少年は安心しきった顔で瞼を閉じた。
今度は、死の淵へ滑り落ちる昏睡ではない。
ただ、極限まで消耗しきった子どもの眠りだった。
◇
俺は埃まみれの床へ腰を下ろし、血で汚れた手を膝の上へ置いた。
この街には、名前を持たない人間が溢れている。
紙きれ一枚のせいで、救急車すら呼べずに冷たくなっていく者がいる。
街の秩序から零れ落ちたこの吹き溜まりに、俺もまた立っていた。
俺もまた、名を持たない側の人間だ。
誰かに署名を求められても、記せるのはあの縦線一本だけ。
それでも、この手は止まらない。
人は、救える。
少年の穏やかな寝息が、静まり返った廃倉庫を満たしていく。
生臭い血の匂いへ混じり、夜明けの冷気を孕んだ川風が隙間から流れ込んできた。
俺は、この街の底で生きていく。
床に転がった空瓶を拾い上げる。
次に要るのは、水だ。




