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黒曜石外科医カラス ~「あの日本人は腹の弾を出す、ただし百五十万ドルだ」~  作者: K3/KASANE


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第02話「紙のない街」

フカヒレと銅線は、思ったより高く売れた。


金網の外れにある粗末な金属回収屋へ持ち込むと、頬に古い傷痕のある店主が秤を一瞥し、皺だらけの紙幣を数枚放り出してきた。


受け取った札と、壁に貼られた買い取り相場表を見比べる。

二割安い。

皿の縁が歪んだ天秤ばかりで、針の揺れが収まる前に目盛りを読んだのだ。誤魔化しが通じていると、男は思い込んでいる。


頭の棚が、瞬時に差額を弾き出した。

水一日分と、明日のパン一個分。

だが、俺は何も言わない。

ここで文句を並べ立てたところで、得より損のほうが大きい。この街における俺は、身元も、証明する紙きれ一枚も持たない浮浪者にすぎない。声を荒らげれば、それだけで無用な視線を集める。


二割の手落ちなど、平穏を買い取る経費だ。

そう割り切って紙幣を折り畳み、ポケットの底へ押し込んだ。


店を出る背中に、男のしゃがれた声が飛ぶ。

「また持ってきな」

振り返らず、片手だけを軽く上げた。

足元を見て買い叩く男だが、少なくとも警察に通報する気配はない。今の俺にとっては、適正な取引価格よりもその一点のほうが遥かに価値が高かった。


路地を三本抜ける間に、野良犬が二匹、俺の傷から漂う血の臭気を嗅ぎつけて間合いを詰めてきた。

道端の鉄パイプを拾い上げ、構えを見せる。それだけで犬は足を止め、唸り声を残して後退していった。

飢えた獣であっても、勝算のない相手には手を出さない。この街を徘徊する人間たちも、おそらく同一の論理で動いている。


まず清潔な水を買う。次いでパンと、熱を通した屑肉を胃袋へ詰め込んだ。

空腹の激痛が引くと、思考を覆っていた靄が薄れていく。


最後に、眠るための場所を確保する。

橋の下でも下水道の管渠でも身体を横たえることは可能だ。だが、完全に意識を手放す睡眠は、無防備な死のリスクを跳ね上げる。

休息が足りなければ思考速度が落ちる。判断が鈍れば、いずれ致命的な失案を犯して死ぬ。


川沿いに、打ち捨てられた廃倉庫を見つけた。

南京錠は赤く腐食しており、指先で少しこじ開けただけで噛み合わせが外れた。

内部には埃と機械油の匂いが淀んでいる。

採光用の高窓が二つ。浸水はなく、コンクリートの床は乾いている。奥へ進むほど、表の喧騒は遮断された。

出入口は正面の錆びた引き戸が一枚と、割れた板壁の隙間が一つ。

退路が二つある。それだけで、ここを拠点と定める十分な理由になった。

俺は海水で湿った布を解き、創部の縁を検分してから、新しく買い求めた布をきつく巻き直した。


◇

拠点を決めると、次は都市の構造を脳内に叩き込む作業に入った。

日中、俺はただ歩き続ける。


幹線道路には清潔な店舗と磨き上げられた乗用車が並んでいる。

だが、紙を持たない俺が踏み入るのは、その光が届かない陰の領域だ。

高架下、閉鎖された給油所、板で窓を塞いだ空き家。そうした場所には、俺と同類の人間が寄り集まっていた。

皮膚の色も、話す言語も異なる。

だが、ただ一点だけ、例外のない共通項があった。

パトカーの青白いランプが視界に入った瞬間、誰もがぴたりと口を閉ざすことだ。


理由はすぐに察しがついた。

彼らの大半は「紙」を持たない。入国許可のない密航者、司法から逃亡中の犯罪者、戸籍を捨て去った者たち。警察を呼べば、真っ先に摘発され排除されるのは自分たちだ。

だから、誰も法に頼らない。


紙を持つ者と、持たない者。

この街には不可視の境界線が引かれ、世界は完全に二分されている。

俺は、持たない側の不文律に適応するしかない。


路地の吹き溜まりに屯する男たちの会話を拾い集めた。

金の動く場所、血の流れる場所。

頭の中に広げた白地図へ、一つずつ座標を刻んでいく。


薬局は大通りに二軒。どちらの窓口にも、防犯ガラス越しに客を品定めする店員がいる。身元不詳の浮浪者に抗生剤を売ってくれる環境ではない。

裏通りに、動物病院の古びた看板が一つ。縫合針と医療用ナイロン糸、消毒薬の空き瓶は、毎週火曜の夜、勝手口のゴミ箱に混入して投棄される。

酒屋は四軒。瓶の肉厚とガラスの硬度は銘柄によって異なる。コンクリートの角へ叩きつけたときの割れ方、破断面の鋭利さもそれぞれだ。

俺はその破片の角度を、脳内の棚へ克明に記録した。


◇

三日目の昼、空き缶を灰皿にして煙草を吹かす男たちの輪から少し離れた日陰に、腰を下ろした。

狭い陰に熱気が籠もり、酸えた汗の匂いが立ち込めている。俺は水瓶を膝に挟み、風に乗って流れてくる単語を拾い集めた。

語彙の半分は聞き取れない。それでも、手振りと反復される単語を繋ぎ合わせれば、文脈はおのずと浮かび上がる。


先週、通りの端で男が一人くたばった、という話だった。

屋根の補修作業中に足場を踏み外し、骨盤と大腿骨を砕いたらしい。

その場にいた仲間三人が、二時間ものあいだ頭を抱えて迷い続けたという。


通報用の緊急番号は、誰でも知っている。

指先一つで電話をかければ、医療搬送車はやって来る。だが同時に、紙を検分する警察官も帯同してくる。

倒れた男に身分証はない。取り囲む三人にもない。

誰が現場に残り、誰が逃走するか。血を流し続ける男の眼前で、その押し問答が二時間続いた。

最終的に、男をピックアップトラックの荷台へ放り込み、隣町の裏医者まで運んだ。だが道中で呼吸が途絶え、到着したときには完全に冷たくなっていた――と、前歯の欠けた語り手は平坦な声で締めくくった。


誰も声を荒らげない。悲痛な呻き一つ漏れ出さない。

この路地では、他人の死すら明日の天候と同じ軽さで消費される。

輪の中の男が一滴、足元へ唾を吐いた。もう一人の男は、吸い殻が詰まった缶の縁を、無心に爪で擦り続けている。

悲哀ではない。全員の瞳の奥に、均一な表情が張り付いていた。

――次は、自分の番だ。

やがて誰かが小さく肩をすくめ、話題は明日の解体作業の日当へと流れていった。


俺は思考の棚を引き出す。

骨盤骨折、および大腿骨骨折。後腹膜腔や大腿筋膜内へ、急速に数千ミリリットルの内出血を引き起こす致命傷だ。

運搬の遅れではない。迷っていた空白の百二十分が、その男を殺した。

迷いも、同情も、失われたヘモグロビンを一滴すら補充しない。


俺はその男の顛末を、一冊のカルテとして棚へ収めた。

無権利者が致死的な外傷を負ってから、外科的処置にアクセスするまでの所要時間。これを初症例とする。

データが蓄積されれば、どの地点にどんな資材を配置すれば生存率を引き上げられるかが算出できる。死者を悼むのは、その方程式が完成してからでいい。


かつて、どこかでまったく同じ計算を反復していた記憶がある。

名前も、街の輪郭も思い出せない。ただ、灰色の髪をした少年が、暗い穴の底で微かに呼気を吐いていた情景だけが、意識の底を掠めて消え去った。

手を伸ばせば霧散する。追尾する気はない。

現状の生存に寄与しない記憶は、手元の傷口を塞ぐ糸の代わりにもならないからだ。


棚は、音もなく閉ざされた。

喉の奥に、飲み下し損ねた砕石のような感触だけがざらりと残る。

俺はその異物を生温い水で強引に胃へ流し込み、立ち上がった。


歩行速度を保ったまま、行動の方程式を組み立てる。

この街には、通報番号を押せない側の人間が過剰に溢れている。

正規の医療を受けられる座席は満席で、余白がない。

だが、医療を受けられない側の座席は、無防備な空席だらけだ。

その空席は今、空白を埋める執刀医を求めている。


◇

血溜まりの中に蹲る少年を見出したのは、四日目の夜だった。


倉庫街の最奥、崩れかけた煉瓦壁の暗がりから、漏れ出す呼気の摩擦音が耳に留まった。

足を止め、暗視を利かせる。

十五、六歳ほどの少年が、壁に背を預けてへたり込んでいた。両手で強く側腹部を圧迫している。指の隙間から、粘度の高い黒赤色の血液が間断なく噴出していた。

風向きが変わり、生臭い鉄の臭気と、僅かに硝煙の刺激臭が鼻腔を打つ。

地面に広がる血溜まりの凝固度から推測するに、受傷後およそ十分から十五分。

少年は十分な換気が行えず、擦れ違った喉から喘鳴を漏らしているだけだった。

――まだ、蘇生限界内だ。


「……呼ぶんじゃねえ!」

闇の奥に、若い男が二人立ち尽くしていた。

「もう保たねえ」

一人が吐き捨てる。

「置いていくぞ。救急車なんか呼んでみろ、俺たちまでムショ送りにされる」

二人はそれだけ残し、暗がりへ背を向けて疾走していった。

少年一人だけが、泥にまみれたコンクリートの上に置き去りにされる。


遠ざかる足音。追う必要はない。

あの二人の逃走行動は、昼間に路地で耳にした心理構造と完全に合致している。彼らを糾弾する道理は、今の俺にはない。


俺は少年の前へ静かに膝をついた。

右側腹部に、小口径の銃弾が穿った射入口。

閉ざしていた棚が、自動的に開放される。

受傷部位、推定出血量、口唇のチアノーゼ、橈骨動脈の微弱な頻拍。

データが冷徹に棚へ並び、瞬時に一つの確定診断を導き出す。

――このまま放置すれば、一時間と持たない。


棚の片隅で、昨日収めたばかりのカルテが静かに光る。

二時間迷った末に冷たくなった男の一例目。

あれは、俺の関与しない地点で完結した死だ。

だがこれは、俺の掌の届く範囲で始まった生のための事案になる。


少年の膝裏へ腕を滑り込ませ、上体を抱え上げる。

失われた血液の量に比例して、その肉体はひどく軽かった。

少年を抱え込み、俺は廃倉庫の闇へと引き返す。


床に転がしておいた酒瓶へ、手を伸ばした。

今夜、このガラスが俺のメスになる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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