第01話「漂着」
世界の一番下に、回り続けるものがあった。
名前はない。意志もない。
還ってきた魂を溶かし、混ぜ、次の命へと巡らせる。
今日もまた、焼き切れた蝋燭のように細く軽い魂が一つ沈んできた。
――そのはずだった。
その日、初めて動きが止まる。
魂の奥に、この世界の理では測れない核があった。
別の空から流れ着いた異質な澱。刃のように硬く、決して溶けない。
異物。
善でも悪でもない。ただ、循環へ混ぜてはならないもの。
迷いはなかった。指先で弾くように、その魂を循環の外へ弾き出す。
追い出された魂は、光へ向かって浮かび上がっていった。
◇
海を漂流していると、何が起こるか。
そう、サメだ。
逃げるすべはなかった。
サメが右脚に食らいつく。
顎の奥で、何かが砕ける微小な音が響いた。
海中に白い破片が散り、直後に赤い血が滲み出す。
俺の血だ。
サメは離さない。首を左右に振り、肉ごと引きちぎろうと暴れ狂う。
激痛で視界が白く飛んだ。
だが、骨は耐えた。右脚は動く。大腿動脈も無事だ。
重傷だが、即死する傷ではない。
頭が反射的に診断を終える。
ホオジロザメの咬合力は最大で一・八トン。常人なら脚ごと持っていかれる。
だが、俺の肉体は常識の外にあった。
三倍の重力下で十七年生き延びた体だ。地球の人間と比べれば、骨も筋肉も五倍近く頑丈にできている。
牙は皮膚と筋膜を裂いたが、硬い大腿骨にぶち当たって止まった。
折れたのは、俺の骨ではない。サメの歯だ。
サメが再度、体をひねる。傷口がさらに広がった。
骨が無事でも、このまま噛まれ続ければ失血死する。
逃げるか? 不可能だ。
血を流しながら泳げば、一瞬で追いつかれる。
――なら、先に殺す。
息を止め、サメの鼻先へ拳を叩き込んだ。
水中では打撃の威力が逃げる。それでも頭部が横へ跳ね、顎の噛み合わせがわずかに緩んだ。
すかさず両手を上下の顎へ割り込ませる。
掌に牙が突き刺さるのも構わず、力任せに押し開いた。
顎関節が鈍い音を立てる。
右脚を引き抜く。海水が露出した筋繊維を焼き、激痛が走った。
サメは退かない。尾鰭を打ち、もう一度こちらへ切っ先を向ける。
「来い」
声はただの泡となって消えた。
二度目の突進を真正面から見据える。
巨大な口が開く直前、水底へ沈み込んだ。白い腹の下へ滑り込み、両腕をエラの背後へ回す。
胴が太すぎて指は組めない。迷わず片方の手首をもう一方の手で万力のように握り込んだ。
そのまま、全身の力で締め上げる。
サメが猛り狂った。
尾鰭が腹を打ち、水流ごと全身を振り回される。
それでも腕は解かない。
エラの周囲は軟骨だ。硬い頭部を狙うより、ここを圧壊させるほうが早い。
前腕に限界まで筋力を込める。
柔らかい組織がめりめりと潰れる手応えがあった。
サメの口からどす黒い血が漏れ出る。
尾の振りが鈍る。
十秒。二十秒。
さらに圧殺する。やがて、巨体から完全に力が抜けた。
死骸を抱えたまま、海面へ浮上する。
肺の底まで空気を叩き込んだ。
そこで初めて、周囲を見渡した。
見覚えのない、冷たい海だった。
◇
少し前まで、俺は別の世界にいた。
死んだのか、追い出されたのか。
記憶にあるのは黒曜石と、肉体ごと弾き飛ばされた衝撃だけだ。
気づけばこの海で、サメに脚を噛まれていた。
自分の名前は思い出せない。生国も、家族の顔も消えている。
だが、外科医としての記憶だけは完全に残っていた。
創傷の深さ、推定失血量、活動限界までの残時間。
そして、三倍の重力に耐え抜いたこの肉体も。
陸は見えない。右脚からは断続的に出血している。
俺はサメの尾を掴み、海を掻いた。
獲物を引いて泳ぐには過重すぎる。だが、切り捨てる選択肢はない。
食料になる。歯はメスになる。皮も使える。
今の俺には何一つない。死骸であれ、利用価値のある資源はすべて運ぶ。
押し寄せる波に乗って前進し、引き波のたびに海底へ足を踏ん張った。
何度も沖へ流されそうになる巨体を、尾を抱きかかえて力づくで引き戻す。
やがて膝が砂に触れた。
波打ち際まで獲物を引きずり上げ、そのまま砂浜へ倒れ込んだ。
◇
まずは右脚の検分だ。
皮膚と筋膜が大きく裂けているが、大腿骨は完全だ。末梢の血流も維持されている。
最優先すべきは真水による創部洗浄と、圧迫止血用の布。
だがその前に、胃が激しく鳴った。
最後にカロリーを摂取したのがいつかすら思い出せない。
これだけ筋肉を酷使した以上、燃料を補給しなければ遠からず行動不能に陥る。
サメの吻部に、折れかかった歯を見つけた。
根元をへし折り、一本引き抜く。
鋸状の細かな刃がついた三角形の牙。十分、鋭利な刃物として通用する。
その歯を押し当て、サメの腹壁を切り裂いた。赤身の肉を薄く削ぎ落とす。
途端、鼻腔を強烈な刺激臭が突いた。
アンモニアそのものの悪臭だ。
「……ひどいな」
一切れ、口へ放り込む。
生臭く、舌が痺れるほど不快な味が広がった。
熱源も真水もない環境下で、生の軟骨魚類を摂取するのは自殺行為に近い。寄生虫の感染リスクも、急性胃腸炎の危険もある。
だが、飢餓で意識を失えばその時点で終わりだ。背に腹は代えられない。
咀嚼し、嚥下する。
胃が痙攣して吐き気を催し、海へ首を向けた。
だが吐き出さず、もう一切れを無理やり喉の奥へ押し込む。
「殺した分は食う」
誰への弁明でもなく呟いた。
必要なカロリーを胃へ詰め終えると、残りの肉を歯で削ぎ落とした。
全量は搬送できない。携帯可能な分量だけを選別し、剥ぎ取った鮫肌で包み込む。
◇
空を見上げる。
記憶にない色をしていた。
海岸には砕けた木箱、空き缶、ペットボトルが散乱している。
ラベルに印刷された文字列は、日本語でも英語でもない未知の言語だ。
遠くの割れた舗装道路を、旧式のトラックが埃を巻き上げて走り去っていった。
文明はある。だが、国家も地域も特定できない。
財布はない。身分証もない。己の識別名さえない。
手元に残されたのは、外科医の臨床知識と、異常に頑強なこの肉体だけだ。
脚を引きずりながら、アスファルトへ上がる。
遠方で、乾いた破裂音が二度響いた。
わずかな静寂ののち、もう一発。
銃声。
だが、雑草を刈る男も、洗濯物を干す女も視線すら上げない。この街における日常茶飯事なのだろう。
町へ足を踏み入れると、行き交う視線が一斉に突き刺さった。
脚を血で染め、サメの皮袋に生肉と牙を詰め込んで歩く男。注視されるのも当然だ。
誰も手を差し伸べてはこない。最初から期待もしていない。
最優先は真水。次に創部を覆う清潔な布。そして、それらを調達するための通貨。
金属くずが野積みされた空き地で、投棄された銅線を見つけた。
これなら買い取り業者に換金できる。両腕に巻きつけ、運搬可能な限界まで回収した。
日没直前、粗末な軒下に座り込む老人の前を通りかかった。
老人は茶色い紙袋から無骨な丸パンを一つ取り出し、無言で差し出してきた。
「……俺に?」
老人が頷く。
俺はそれを受け取った。サメの肉より硬い。だが、微かに人の手の温もりが残っていた。
「助かる」
それが、今の俺に絞り出せる精一杯の謝意だった。
老人は血まみれの右脚と、サメ皮の荷物へ静かに視線を落とした。
「海で何があった」
「噛まれた」
「そっちの包みは」
「噛んできた奴だ」
老人は一瞬虚を突かれたように固まり、次の瞬間、声を上げて乾いた笑いを漏らした。
俺は固いパンを噛み砕きながら、再び歩調を早めた。
今夜のうちに創部を洗浄する。
明日、銅線を換金する。
手に入れた現金で、水、食料、医療資材を確保する。
やることは決まった。
ここがどこの世界であろうと関係ない。
名前を失い、資産を失い、身分証明を失っていようと。
俺は生き抜く。
仕留めたサメの歯を強く握り締め、知らない街の暗がりへと踏み込んだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




