第19話「血の夜」
三日目の夕方、街は静かすぎた。
いつもなら酔った男の声が響く時間なのに、犬も鳴いていない。
店の扉は内側から板で打ちつけられ、窓の隙間から目だけが外を見ていた。
誰もが、今夜何が起こるか知っている。
俺は昼まで、手を貸してくれそうな者を訪ねて回った。
リード教授は病院を離れられなかった。だが、糸と消毒液、それに包帯を渡してくれた。
コールは人を送ると約束した。ただし、撃ち合いが始まれば、捜査官たちは組織を止めるために動く。
ここで患者を診る手は、まだ俺だけだ。
「仲間、集まらなかったね」
ミアが心配そうに言った。
「道具は増えた」
「でも、カラスの手は二本のままじゃん」
「俺がいる」
ディエゴが胸を張る。
「縫うのは無理だけど、運ぶし、押さえるし、言われたものを取る」
「わたしも!」
ミアが声を上げた。
「布を煮る。水も替える。もう、何をしたらいいか分かるよ」
「怖くないのか?」
ディエゴが訊く。
「怖いよ!」
ミアは怒ったように答えた。
「でも、一人で隠れて待つほうがもっと怖い。カラスが倒れたかもって、ずっと考えるの嫌だもん」
「無理はするな」
俺が言うと、二人が同時に俺を見た。
「それ、カラスが言う?」
「先生が一番、無理するだろ」
「支度をする」
俺は話を終わらせた。
◇
倉庫の床に、石灰で三本の白い線を引いた。
「これは?」
ミアが訊く。
「患者を分ける線だ」
俺は戸口に近い場所を指した。
「ここは、今すぐ手を入れれば助かる者」
次に真ん中を示す。
「ここは、待てる者」
最後に奥を示した。
「ここは、今の俺の手では助けられない者だ。苦しさを減らし、一人にしない」
ディエゴの拳が固くなる。
「助からないって、どうやって決めるんだよ」
「呼吸、脈、傷、失った血を見る」
「間違えたら?」
「死ぬ」
「そんなの……」
ディエゴの声が詰まった。
「先生一人に決めさせるのかよ」
「決める者が要る」
「でも、選ばれなかった人は、先生を恨むぞ」
「構わない」
「おれは構う!」
少年は目を赤くした。
「先生がみんな助けようとしてるの、知ってる。なのに、助けなかったって言われるのは嫌だ!」
「言わせておけ」
俺は糸を並べた。
「助かる者を増やすほうが先だ」
ミアが白い線を見つめる。
「奥の人には、何もしないの?」
「一人にしない」
「わたし、そばにいていい?」
「怖ければ離れろ」
「怖くても、いる」
ミアは線を踏まないよう、白くなったつま先を引いた。
◇
日が落ちる前に、一人の老人が運び込まれた。
抗争とは関係なく、逃げる途中で強盗に胸を刺されたという。
呼吸は浅く、脈は細い。
胸の傷は深い。
今の道具と人手では助けられない。
別の場所へ運ぶ時間もない。
もう長くはもたない。
俺は老人を、奥の線へ寝かせた。
「カラス、治さないの?」
ミアの声が震えた。
「治せない」
「まだ生きてるよ!」
「ああ」
「だったら、やってよ! いつもみたいに!」
ミアは俺の袖をつかんだ。
「この傷は、今ここでは助けられない」
「そんなの嫌! まだ話せるのに!」
「だから話す時間を残す」
俺は老人のそばへ膝をついた。
「助けられない。もう長くはない」
老人の濁った目が俺へ向く。
「……本当か」
「ああ」
「苦しいのは、嫌だ」
「少しでも楽にする」
上体を少し起こし、息をしやすい姿勢へ変え、乾いた口元を濡れた布で湿らせた。
ミアは泣きながら、濡れた布で老人の額を拭いた。
「おじいちゃん、名前は?」
「サムだ」
「わたし、ミア」
「いい名前だ」
「孫が、いてな。テキサスにいる。八つだ」
「わたしと同じくらい?」
「たぶんな」
老人の口元がわずかに上がった。
「会いたかった」
ミアは老人の手を両手で包んだ。
「わたしがいるよ。お孫さんじゃないけど、一人にしないよ」
「……ありがとう」
しばらくして、老人の指から力が抜けた。
「サム?」
返事はない。
「ねえ、サム。もう痛くない?」
「痛くない」
俺は老人の目を閉じ、布をかけた。
ミアはその場を離れなかった。
「カラスは、嘘をつかないんだね」
「嘘をつけば、残った時間を奪う」
「でも、本当のことも痛いよ」
「ああ」
「……それでも、言ったほうがいいの?」
「最後に何をするか、自分で選べる」
ミアは涙を拭き、老人へもう一度頭を下げた。
◇
真夜中、街のあちこちで銃声が鳴り始めた。
悲鳴と足音が、路地を通って診療所へ近づいてくる。
最初は腹を撃たれた若い男。
十分後には肩を撃たれた男。その次は脚を砕かれた男。
担架がないため、外した扉や大きな板に乗せられ、次々と運び込まれた。
「この人、先に診てくれ!」
「俺の弟だ! 金なら払う!」
「順番は俺が決める」
「こっちは腹を撃たれてるんだぞ!」
「今すぐ手を入れれば助かる者が先だ」
「見捨てるのか!」
「助かる命を増やす」
俺は呼吸、脈、目の動き、傷を見て、三つの場所へ分けた。
一人に使える時間は数秒だ。
迷っている間にも、別の患者の血が流れる。
「ディエゴ、手前へ運べ」
「分かった!」
「ミア、真ん中の人に水。少しずつだ」
「うん!」
夜明けまでに十七人。
昼までに三十二人。
数えるのをやめた頃には、床が乾いた血で黒くなっていた。
表の病院へ運ばれた者もいる。だが、警察への連絡を嫌う連中は救急車も病院も避け、運び先を失った負傷者がここへ流れ込んだ。
◇
腹を開く。
血を止める。
閉じる。
終われば、次が来る。
ガラスの刃が鈍れば、新しい瓶を割る。
布が減れば煮る。
水が汚れれば替える。
再び陽が落ちても、列は途切れなかった。
電灯が二度消えた。
二度目は戻らなかった。
「見えない!」
ミアが叫ぶ。
「火を持ってくる!」
「待て、走るな!」
ディエゴがミアを止め、割れた鏡をつかんだ。
「路地の火を映せばいい!」
鏡に映った光が、患者の腹へ届く。
「先生、見えるか?」
「足りる」
光は揺れていた。
俺は指先で血管の動きを探す。
温かい血の中で、跳ねる場所がある。
そこをつまみ、糸で結んだ。
「糸!」
「はい!」
ディエゴが俺の手へ落とす。
「布、煮えた!」
ミアが叫ぶ。
「次は何する? 水? 包帯?」
「水を替えろ」
「分かった!」
二人の声が途切れない。
俺が手を止められないあいだ、二人が患者へ声をかけ続けた。
「もう少しだから! 目を閉じないで!」
「痛いよね。でも、カラスは手を止めてないよ!」
「息をして! ゆっくり! そう、それでいい!」
一日。
二日。
指先の感覚が薄くなる。
「先生、休めよ!」
「次だ」
「五分でも寝ろ!」
「次」
「倒れたら誰が治すんだよ!」
「まだ倒れない」
「その言い方、信用できない!」
ディエゴが怒鳴る。
ミアも目を赤くして俺を見た。
「わたし、カラスまで死ぬの嫌だよ。患者と同じくらい、自分も大事にしてよ!」
「あとで寝る」
「絶対だからね!」
俺は答えず、次の針を持った。
「返事してよ!」
「分かった」
ミアはまだ不満そうだったが、次の布を取りに走った。
◇
二日目の明け方、見覚えのある男が運ばれた。
以前、金属のパイプで俺を殴ろうとした、タトゥムの一派だ。
腹に深い刺し傷がある。
まだ助かる。
「……お前か」
男の顔が青ざめた。
「俺はお前を殺そうとした。放っておけ」
「黙れ」
俺は腹の傷を開いた。
「なぜだ……なぜ、俺を助ける」
「今は患者だ」
「俺は悪党だぞ」
「傷には書いてない」
切れた血管を結び、腹を縫う。
男は何も言わなくなった。
ミアがその顔をのぞき込む。
「助けてもらったの、忘れないでよ」
「……忘れねえよ」
「前にも、そう言って悪いことした人がいる」
「じゃあ、見てろ」
男は苦しそうに息を吐いた。
「今度は、忘れない」
壁際にいた仲間が、銃から手を離した。
◇
ヴォスが現れたのは、俺の両手が完全にふさがったときだった。
診療台の男は、腹の血管が切れている。
俺はその血管を指で押さえていた。
離せば、患者は死ぬ。
「ミア、奥へ!」
ディエゴが叫んだ。
「嫌! 逃げない!」
「逃げろって言ってない! 先生が動けないんだ。おれが前に立つ!」
「わたしだって立つ!」
「二人とも下がれ」
俺は患者から手を離さない。
戸口に、ヴォスが立っていた。
眼鏡の奥の目は、ミアだけを見ている。
「約束どおり、迎えに来た」
「帰れ」
「その手を離せますか、先生」
離せない。
ヴォスはそれを知っていて、この時を選んだ。
ディエゴがミアの前へ立つ。
膝が震えている。それでも退かない。
「ミアは渡さない」
「あなたには関係のない子どもだ」
「ある!」
ディエゴは声を張った。
「おれの家族だ!」
ミアが息を呑んだ。
「……家族?」
「嫌なら、あとで訂正しろ! 今は後ろにいろ!」
「嫌じゃない!」
ミアは泣きながら、ディエゴの服をつかんだ。
「わたしも、ディエゴを置いていかない!」
ヴォスが一歩、倉庫へ入る。
俺の両手は、患者の腹の中にある。
離せば一人が死ぬ。
離さなければ、ミアへ手が届かない。
ヴォスは、もう一歩踏み出した。




