第18話「渡さない」
ミアが自分から話しかけてきたのは、その朝だった。
熱は下がっている。
まだうまく動かない指で、脇腹の包帯に触れていた。
「……カラス」
「何だ」
「わたし、まだここにいていいの?」
俺は研いでいたガラスの刃を止めた。
「いろ」
「いつまで?」
「安全になるまで」
「いつ、安全になるの?」
「分からない」
ミアは膝の上で指を握った。
「また、あいつらが来る?」
「来る」
「わたしを取り返しに?」
「ああ」
顔から血の気が引いた。
それでも、ミアは目をそらさなかった。
「怖くないって言ったら、うそになる」
声が震える。
「ほんとは、すごく怖い。また台に縛られるのも、おなかを切られるのも、番号で呼ばれるのも……全部、嫌」
「戻さない」
「でも、カラスが撃たれたら?」
「撃たれない」
「それもうそ。カラスだって血が出るでしょ!」
ミアは目に涙をためて怒鳴った。
「わたしのせいでカラスやディエゴが死ぬなら、わたし……」
「お前のせいじゃない」
「まだ最後まで言ってない!」
「言わせない」
俺は刃を布の上へ置いた。
「戻ると言うつもりなら、聞かない」
ミアの唇が震えた。
「勝手に決めないでよ……」
「子どもを切って売る奴が悪い。お前じゃない」
ミアは何度も目をこすった。
「……それでも怖い」
「怖くていい」
「カラスも?」
「ああ」
ミアは驚いた顔をした。
「怖いの?」
「失敗すれば、お前が連れていかれる」
しばらく黙ったあと、ミアは小さくうなずいた。
「じゃあ、一緒に怖がる」
俺は刃を研ぐ作業へ戻った。
◇
男が現れたのは、日が落ちてからだった。
護衛も連れず、一人で来た。
細い体に上等な服をまとい、眼鏡の奥の目は穏やかだ。
その穏やかさが、かえって気味が悪い。
人を切り分けて売る男なのに、血の匂いがしない。
雨上がりの道を歩いてきたはずなのに、靴には泥さえついていない。
他人に汚れ仕事をさせる男だ。
「ダミアン・ヴォスだ」
男は静かに名乗った。
「あなたが、うちの商品を二度も奪った医者か」
ミアは息を呑み、木箱の陰へ下がると、両腕で自分の体を抱いた。
「品じゃない!」
震えながらも、ミアは言った。
「わたしはミア。あんたたちの品じゃない!」
ヴォスは子どもの声など聞こえなかったように、俺だけを見た。
「話は簡単だ。その子を返してほしい」
「嫌!」
ミアが叫ぶ。
「もう戻らない! 切られるのも、閉じ込められるのも嫌!」
「静かにさせてくれないか」
ヴォスは笑顔のまま言った。
「数字の話をしたい」
「聞いている」
「治療代も迷惑料も払う。その子を返せば、診療所は守る。近く始まる抗争でも、ここには手を出させない」
「返さなければ」
「私たちの敵になる」
ヴォスはミアを見た。
「子ども一人のために、診療所も金も信用も失う。あなたを頼る患者も治せなくなる」
俺へ視線を戻す。
「返せば、大勢を救える。返さなければ、その逆だ。医者なら分かるだろう」
◇
筋は通っている。
ミアを渡せば、診療所は残る。
渡さなければ、ここも、ディエゴも、患者も狙われる。
人数だけなら、答えは決まっている。
「カラス……」
ミアの声がした。
少女は震える脚で立っていた。
「わたしが戻れば、みんな助かるの?」
ヴォスが笑う。
「君一人が戻れば、元どおりだ」
「元どおりじゃない!」
ミアは叫んだ。
「わたしは、また切られる! また番号にされる!」
涙が頬を流れた。
「でも……カラスが死ぬのも嫌。ディエゴが死ぬのも嫌。わたし、どうしたらいいの?」
「ミア」
俺は少女を見る。
「お前は、どうしたい」
ミアは泣いたまま何度も息を吸い、ヴォスを見て、次に俺を見た。
それから、自分の腹の傷へ手を置いた。
「戻りたくない」
震えていても、言い直さなかった。
「番号じゃなくて、ミアでいたい」
「分かった」
暗い穴の底が浮かぶ。
泥で固まった灰色の髪。
動く力もなく、声も出せなかった子ども。
助けても得にはならない。
それでも、俺は手を伸ばした。
目の前で助けを求める子どもを、金や人数と比べて差し出す。
そんな場所が残っても、診療所ではない。
「断る」
ヴォスの目が細くなった。
「理由を聞こう」
「ミアを返せば、殺される」
「商品として価値がある間は、生かしておく」
「体を切って売るのは、生かすとは言わない」
ミアが俺の背中を見つめている。
「この子を返せば、次の子もさらう。俺が黙って返すと分かれば、その次もだ」
ヴォスの笑みが消えた。
「つまり、私たちの商売を邪魔する、と?」
「そうだ」
「診療所を失っても?」
「子どもを売って残す場所なら、要らない」
「大勢の患者が死んでも?」
「死なせない」
「二本の手で?」
「やる」
ヴォスはしばらく黙っていた。
「合理的な人だと思っていたが、見込み違いだったようだ」
「もう一つある」
「何だ」
俺はミアの前へ立った。
「この子は渡さない」
「それは理由ではない」
「俺には理由だ」
◇
ヴォスは眼鏡を押し上げた。
「惜しいな。あなたとは、いい商売ができると思っていた」
「俺は商人じゃない」
「そうだった。医者だったな」
ヴォスは戸口へ向かう。
「抗争はもうすぐ始まる。百人のけが人がここへ押し寄せ、あなたの両手が塞がる夜だ」
扉の前で振り返った。
「その隙に、ミアを迎えに来る」
「来るな」
「あなたが決めることではない」
「ここは俺の縄張りだ」
ヴォスの口元がわずかに動いた。
「では、その縄張りを血で満たしてから伺おう」
男は暗い路地へ消えた。
ヴォスは、俺が患者から手を離せない時を狙って来る。
◇
扉を閉めると、ミアがその場へ座り込んだ。
「怖かった……」
両手で顔を覆う。
「足、ずっと震えてた」
俺はミアの前へ膝をついた。
「もう、わたしを返さない?」
「返さない」
ミアはしばらく俺を見た。
「何でも一人でできるみたいに言わないで」
「できない」
「じゃあ、どうするの?」
「手を借りる」
「誰の?」
「今から頼む」
俺は立ち上がり、糸とガラスの刃を鞄へ入れた。
「どこ行くの?」
「仲間を集める」
「カラスに仲間なんているの?」
「これから作る」
ミアは涙を拭きながら、ぽかんと俺を見た。
「戻ってくる?」
「戻る」
「絶対?」
「ああ」
戸口の錠を確かめる。
一人では、患者を治しながらミアを守れない。
なら、手を増やす。
俺は夜の街へ出た。




